aranea

千日紅

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本編

幸福

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 場所はやはり同じ生物室で、私は何を言われるかひやひやしていたが、これ以上悪いことにもなるまい。 
 すっぽかしても、どうしたって顔を合わせる相手なのだ。 
 田島は私のあとからやってきて、つるつるした大きな机の上に、さあっと束ねた紙を滑らせた。 
 私はその紙を手に取る。几帳面にホッチキスで止められた紙には、大学の名前と学部名がずらずらと並んでいた。偏差値、受験に必要な科目、学べること、将来つける職業。 
「これは、何ですか?」 
 田島は、「あ、あの、それはですね」と焦ったようにどもってから私に言った。 
「波多野の成績で、進学できそうなところをリストにしてみました」 
「……えっ」 
 私はまじまじと眼鏡の目立つ田島の顔を見返した。 
「お前の成績なら、充分大学に進学できます。この中から選んでくれたら、僕が入学願書を取り寄せてやります」 
 生物室はひんやりとした空気に満ちている。田島が赤い顔をしているのは、部屋が暑いからではない。 
「……どうして、先生がそこまでしてくれるの」 
 進路なんてどうでも良かった。この日々が、ただ明日でもない、今日の終わりまで続いてくれればよかった。 
 私は未来を考えることができなかった。悩みの一番深い時期を、中学生の時期を過ぎて、高校生になったと思っていた。 
 けれどそれは違った。私の悩み、苦しみは飽和して、私はそれに麻痺していた。 
 田島の見せる憐れみは、私に痛みを思い出させる。 
 克彦、あなたを思うときの痛み。あなたに触れることの痛み。 
 克彦と身体を重ねることの痛みを、私は麻痺させていた。その為に、他の男の子達と寝ていたのだ。 
 自傷行為。 
 いくら痛みがあっても、痛みに殺されようとも、この時の私はそれでよかった。 
「波多野、お前が家の事情を打ち明けてくれたことの意味を、僕は考えてみました」 
 田島は自分が作ったリストを、ぺらぺらとめくった。その様は、自分の仕事の出来映えに、満足しているように見えた。 
「意味なんてないわ」 
「生物の行動には、全部意味があるんです」 
「でも、私には意味なんてないんです」 
「お前は、僕のことを選んでくれたのではないですか」 
 田島は紙をめくる手を止めた。同じものが私の手元にもある。整然と並んだ明朝体。 
 私の未来を示そうとする文字列。 
「波多野の弟と話をしました」 
 私は思わず紙を握りしめた。くしゃ、と簡単に私の手の中で紙はよじれる。 
「何を話したんですか」 
「聞きました、君は幸せですか、と」 
「うそ……」 
 幸せ――克彦は恵まれている。才能に、美しさに、愛に。その克彦に、幸せかと聞いたのか。 
「何て、何て言ったの? あの子は何て言ったの?」 
 田島は微笑んで、私に教えた。 
「……彼は、自分は幸せだって言っていました」 
「うそ」 
「聞け、波多野。それから、僕が波多野の担任で、お前が進路をなかなか決めないって言ったら、僕に頭を下げた。相談に乗ってやってくれって」 
「うそ……うそでしょ」 
「嘘なもんか。お前の弟は言った。自分が幸せなのは波多野、お前のおかげだって」 
「うそよ!」 
 私はまるきり動揺して、なかば叫んでいた。田島は私を冷静に見ていた。教師そのものの、未熟な子供を教え諭すあたたかく力強い目で。 
 少年のような田島、生徒達に侮られていた田島、妻のことを嬉しそうにもらす田島。田島は、私が今まで出会った大人の中で、一番まっとうな大人だったのだ。 
「波多野、お前は本当は、僕に、弟を助けてくれと言いたかったのではないですか」 
 私は言葉をなくして首を振った。 
 助けてなんて――誰にも――誰も――お父さんも、お母さんも、助けてくれなかった。 
 克彦だけが、克彦だけが私を。 
「自分を悪者にして、弟を、波多野 克彦を助けて欲しいと」 
 田島が口にした克彦の名前。私はその響きを追った。私以外の口から出た、私以外の人間が知る克彦を。私の克彦の名前を。 
「……私は克彦を傷つけた。弟を傷つけたの! 苦しめたの! 私が悪いの! 私が悪いから、お父さんもお母さんも、誰も」 
「波多野、お前はいい子です! お前も、お前の弟もいい子なんです」 
 私は混乱していた。手の中でくしゃくしゃになった紙は、いっそう固く、手のひらの中で小さくなった。 
「お前に怒られるかもしれないと思った。でも、僕は確認したかった。だからお前の弟に聞いた、幸せかと。彼は幸せだと何の迷いもなく答えた。俺には守るものがあるから、そのために頑張れる。だから幸せだって。わかるか、お前の弟の大事なものが何か。守りたいものが何か、お前ならわかるだろう。お前しかわからないはずなんだ」 
 私は机に両肘をついて、額を手のひらで押さえた。目の前が暗くなり、私はその闇に向かって呟いた。 
「私は……私は、克彦を……傷つけることしかできないんです。あの子から奪うことしかできないの」 
「なあ、波多野、人間はな、ひとりじゃ幸せになれない。誰かがいて、その誰かのために自分が何かをできて、与えられて、その人が笑ってくれた時、幸せだって思えるんだ」 
 闇に、記憶の向こうに、克彦の顔が浮かんだ。克彦の眼差し。 
(姉さんに、俺のすべてをあげる) 
 私達はよく似たきょうだいだった。克彦の眼差しは、ひたむきに私にだけ向けられていた。 その眼差しを、思いを、私は与えられていた。 
 私は与えられていたのだ。 
 克彦から奪ったもの。奪ったと、私が傲慢にも思っていたものそれらはすべて、克彦が私に与えてくれたものだった。 
 すべて、克彦が自ら私に与えてくれた。 
「お前の弟は、お前に何も奪われていない。お前に与えたんだ」 
 克彦の目。焦げ茶色の美しい虹彩の瞳と、それを取り囲む長い睫。 
 克彦が私の弟でいたことが、私をどれだけ生かしてきたのか。 
 克彦は私にすべてを与えた。慈しみを、命を、禁断の赤い果実を。 
 私は両手できつく顔を覆った。田島に顔を見られないように。田島は気づいたはずだ。私が今、顔を隠さなければいけない理由を。 
 けれど、田島はそれについて触れなかった。田島は大人だった。私は、田島に尊重と配慮を教わった。 
「……波多野。お前が、何かを与えられたと思えるなら、きっとお前も何かを与えることができるんです」 
 そこで、田島は私の手元にくしゃくしゃになった紙を取って、ぎゅうぎゅうと手で皺を伸ばした。 
 それから、とんとんと机の上で紙を揃えて、私の手元に返した。 
「お前は、何を与えられた?」 
 私は鼻声で答えた。 
「……先生には言いたくない」 
 田島は、あはは、と声をあげて笑った。 
「なら、聞かない。波多野 考えてごらん、幸せになるために、どうしたらいいか。お前と、お前の大切なひとが幸せになるために。お前は、与えることができる。お前は、幸せになることができるんだ」 
 さあ、志望校を選べ、と田島は続けた。




 克彦は、私に完全に忠実に過ごしていた。もう朝夕匂いを嗅がせるなんてことはしなかったが、克彦は私の手入れをすることに執着していた。食事の世話のみならず。 
 恥ずかしい話だが、私の脇を白く保ち続けるのだって、克彦の仕事なのだ。私達は、それこそ「毛が生え揃わない」うちから、体を重ねていた。カナちゃんとエステで脱毛して貰うことを言い出した時は、克彦は渋い顔をした。「やった! って感じが凄く好きだったのに……」しょげかえる克彦に、私は何と言ったらいいかわからなくなった。こんな風に、私達の生活にはくだらない笑いもあった。 
 それと、ペディキュアが克彦のお気に入りだった。 
 克彦は私をベッドに座らせて、大きな背中を丸めて、私の足を手に包み込む。最初は不器用にはみ出したペディキュアも、すぐに上手になった。 
 男の子達は、私の足にきれいに塗られたペディキュアを見て、一様に興奮した。素朴な靴下の下に、生々しい欲望が隠されていたみたいでエロティックに見えたらしい。 
 克彦はそのうち、ネイルアートにまで手を出し始めた。 
「今度は何描いてるの?」 
「ん? 見る?」 
 覗き込むと、克彦は頭をどけた。私の足の爪は黒く塗られ、そこに白く細く書き込まれたのは、 
「……何これ、蜘蛛の巣?」 
「うん、きれいでしょ」 
「嫌よ、虫なんて」 
「蜘蛛の巣ってね、縦糸と横糸があって、ねばねばした糸は横だけなんだって。だから、蜘蛛は、横の糸に引っかかった獲物を、縦の糸を伝って食べに行くんだって」 
「どこで聞いたの」 
「生物の田島」 
「……へぇ」 
「授業で動画見せられた。獲物を押さえ込んで、オニグモ? 噛みついて、毒を入れたら、麻痺して動けなくなっちゃった」 
「何?」 
「蝶。それで、糸でぐるぐる巻きにしてさ、蜘蛛は巣穴に帰ってくの。蜘蛛ってさ、そうやって獲物を捕らえておいて、あとから消化液を獲物の体の中に入れて、溶かして中身吸うんだって」 
「気持ち悪い……。そんなの人の足に勝手に描かないでよ」 
 私は克彦の頭を叩いた。 
「でも、きれいでしょ。蜘蛛の巣」 
「あのさ、田島って……」 
「ん?」 
「……何でもない」 
 克彦が私の爪に描いた巣は、同心で広がる八角形だった。 
 克彦は私の足が好きだった。匂いを嗅いだり、舐めしゃぶったり、どうしてそんなに足が好きなのかと聞くと、克彦は、 
「こうやってしゃがんで、姉さんの足を持ち上げると、姉さんのスカートの中が見えるでしょ。俺、ずっとそれで勃起してたの」 
「克彦!」 
 私はペディキュアが乾くまで、克彦の頭を太ももで挟んで、貫かれ、揺さぶられなければならなかった。私は克彦に屈服する。克彦は大きな手には繊細すぎる動きで、私を翻弄した。 
 享楽的に貪る快楽は、思い出しかけた痛みを麻痺させる。――この一時だけ。考えることをやめていられる。 
「好きだよ、姉さん」 
 克彦の言葉の意味も、考えずにいられる。 
「あっ……そこっ……いやっ……んっ」 
 喘ぐだけしか能の無くなった、唇を克彦が塞ぐ。唾液はいつも蜜のように甘い。 



 たしかに田島の話は私の胸に響いた。田島はそれからも私の理解者で、頼れる大人だった。
 克彦は田島と話したことを私に言わなかった。私も聞かなかった。 
 私が自分が不幸であることを理解したのは、それからもうしばらく経ってからだった。 




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