侯爵夫人は離縁したい〜拝啓旦那様、妹が貴方のこと好きらしいのですが〜

葵一樹

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5 恋する領主は概ね盲目的である

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 ロカが山積みになった書類仕事を片付け終えるとすでに日は大きく西に傾いており、遅番の兵が合流した駐屯地は一番賑やかな時間を迎えていた。

 早く帰らねばとロカは書きかけの日誌を片づけた。取り急ぎ、巷を賑わせている盗賊に対しては毅然とした対応をせねばならない。夜間に宿直を担う騎士達を会議室に集め申し送りをすると、盗賊について幾人からか近所の村で小耳に挟んだという声が上がった。

「夜間は奴らが出るものと仮定して警備に当たれ。万が一、発見、遭遇した場合は直ちに屋敷まで伝令を」
「閣下はこうおっしゃっていますが、皆も知っての通り閣下は奥方を迎えてまだ半年。お邪魔をしないように、伝令は副長である私に」
「おい! エミリオ!」
 茶化しなのか本気なのか判別がつかないほど真面目腐った顔でエミリオが騎士達に告げる。慌てたロカがエミリオに食ってかかれば、各所で笑いが起こった。

「わかってますよ、エミリオ様!」
「閣下は早く帰って奥方様とお食事をご一緒してあげてくださーい」

 方々から激励とも揶揄ともつかぬ声が上がる。凱旋の夜会でロカが伯爵令嬢に一目惚れしたという話は、マルシオによって面白おかしく騎士団にも伝わっていた。

 寡黙で奥手なロカの人柄を知っている騎士団の面々は驚き、結婚の際は盛大に祝福してくれた。それについてはとてもありがたいと思う反面、今の状況を部下に知られるのはなかなか精神的にキツイ。マルシオは黙っていてくれているようだが、度重なるルイーサの脱走未遂はどんどん手段を選ばなくなっており、じきに駐屯地にも伝わってしまうだろう。

 なんとかしなくては。

 室内にまだ続く騎士たちの激励を曖昧に手を振ってかわし、ロカは帰路についた。

 とはいえ駐屯地は屋敷に隣接しており、帰宅するまでにそれほど時間を要すわけではない。日中は仕事に追われ結局ルイーサとどうしたら良いのか、己の考えをまとめることもできなかった。

「話し合い……かあ……」

 ぼそりと口にしたそれは、一番重要だと自分でもわかっているのに踏ん切りがつかない作戦だった。必要性で言えば最重要。これが軍事作戦であれば、誰に言われるまでもなく即座に採用する案なのに、目の前にルイーサを座らせた想像をするだけで鼓動が落ち着かなくなる。

 困ったものだ、と頭を掻きながら屋敷の門扉をくぐるとそこで見かけない男がメイドと立ち話をしていた。おやと思って見れば、郵便物の集荷職員のようだ。肩から下げた大きな集荷袋に封筒を詰め、メイドに受領証を手渡している。

「あら、ご主人様おかえりなさいませ」

 郵便屋を見送ったメイドはロカに気づくと深々と頭を下げた。

「ああ。今のは? 郵便を出したのか?」
「はい。奥様がご実家にお手紙をお送りするというので」
「ルイーサが?」

 はい、とメイドが屈託なく頷く。ロカは小さく舌打ちをした。 

 屋敷の使用人達はロカとルイーサが結婚式以来白い結婚だということを知らないわけではない。しかし彼女が脱走しようとしていることは知らないはずなので、当たり前と言えば当たり前なのだが何の疑問も持たずにセレナ伯領への手紙を発送してしまったのだろう。

「誰に宛てた手紙か分かるか?」
「え……と、セレナ伯ご令嬢です。奥様の妹君様へ宛てたお手紙でございました」
「そうか……」

 怪訝そうなメイドを仕事に戻らせ、ロカは屋敷の執務室へと向かった。  

 ルイーサは妹と入れ替わりたいという。今回出した手紙は、おそらくルイーサのこの望みに関することが書かれているのだろう。ひょっとしたら今度の脱走計画は妹と共謀するつもりか。対ルイーサだけならまだしも、妹まで絡んでくると作戦を読むことが難しくなる。  

 もう少し早く帰ってくるべきだったと後悔しながら執務室へと入ったロカは、コートを脱いで乱暴に椅子へ放った。ばさりと音を立てて背もたれに引っかかったコートからは、わずかに砂埃が立ち上る。

 いつもなら行儀が悪いと嗜めてくるマルシオがいない。もう自分が帰る時間なのはわかっているだろうに、まだルイーサを見張っているのだろうか。

 いや、もしかしたら今しがた発送した手紙が目眩しで、メイドの目を盗んで脱走しようとしているのでは。

 ロカは慌てて執務室から飛び出した。階段を駆け上り、渡廊下を走って家族の居住スペースへと向かう。ひょっとしたらという悪い予想は振り払っても拭えず、少し落ち着いたはずの鼓動がまた早くなった。渡り廊下の窓辺で一人佇む従僕の姿が目に入れば、嫌な想像はさらに加速した。

「マルシオ!」

 ぼんやりと窓の外を見つめていた従僕は、主人の声が聞こえたのかゆっくりと顔を上げた。その表情に焦りも緊迫感もない。そしてちょいちょいと手招きして見せると、そこから見える裏庭を指差した。位置的にそこは厩だろうか。

「どうしたっていうんだ」
「見てみろよ。奥様、すごく楽しそう」

 そういってマルシオが顎をしゃくった眼下から、華やかな女性の笑い声が聞こえてきた。窓のカーテンに隠れるように覗き込むと、そこには牧童のようなズボンを履いて馬の背を拭く者が見える。小柄な背丈と頭上で一つに括られた黒髪に気づいたロカははっとして口を押さえた。

 そこにいたのはルイーサだった。部屋に準備した数々のドレスの一つではなく、実家から持ち込んだのか薄い色の吊りズボンとシャツという出立ちだ。彼女が拭いているのはこれも伯爵家から連れてきたという馬だろうか。

 楽しそうに馬の世話をするルイーサの姿に、ロカは言葉を失っていた。

 可愛い。なんて可愛いんだ。可愛すぎるだろう。語彙力は霧散し、脳内ではひたすら「可愛い」を連呼する。

 腹の奥からぐぐっと熱い塊が迫り上がってきて、昨夜のように叫び出してしまいそうだがさすがにここではまずいと理性で必死に押さえつけた。

 そうか、彼女は馬が好きなのだ。連れてきた犬も可愛がっているし、おそらく動物全般が好きなのだろう。であれば彼女の部屋を厩から遠い庭園が見えるところにしたのは間違いだったのか。それが気に入らなかったのか。今から部屋の位置を変えて厩が見えるところにしてやればいいのか。

「可愛すぎるだろう……、いまであれなら幼い頃などもっと可愛かったに違いない。うちの親父がもっとセレナ伯と懇意だったら屋敷を行き来する仲になっていたかもしれないのに。くそ……可愛い……」

 取り止めもなく思考がぐるぐると回転する。隣に立つマルシオが吹き出しそうになっているのには気づいていたがやめろという余裕もない。しかし、それも一瞬だった。

 ルイーサの声に混じって、違う者の声がロカの耳に飛び込んできたのだ。身を乗り出したいのを堪えて厩の方まで視線を動かすと、ルイーサの近くでうろうろする男の姿が目に入る。 

 厩番のヒルだ。馬の扱いも上手く、侯爵家の厩番の頭を務めている男だ。確か三十もとうに過ぎた男やもめで、妻と死別してから住み込みで働いてくれている。その男が、ルイーサと二人きりで談笑していたのだ。

「奥様ぁ、ご自身でそんなにお世話に精を出さず、我々に申し付けてくださいよ」
「いいじゃない、最近ずっとプリシラの顔を見ていなかったのだから。この子は本来私の馬だし、あなた達は他の馬の世話もあるし、私がやるのが正解でしょう?」
「そうはおっしゃっても、藁と泥でお召し物が汚れてしまってますよ。そろそろご主人様もおかえりになるはずですし、残りは我々にお任せくださいませ」
「汚れてもいい服よ。でも確かにそろそろかしら。ヒル、あとを頼んでいい? 馬装は、えっとどこにしまうのだったかしら」
「はい、奥様。馬着と鞍はこちらにーー」

 ルイーサを案内しながらヒルは厩へと入ってしまった。もちろんルイーサも馬を引きながら木造の小さな小屋へと姿を消す。馬が歩みを止めた時、一瞬振り返ったルイーサの表情を見て、ああと声にならない声がロカの口からもれた。

 そこにあったのは輝かんばかりに美しく、しかし馬への愛情を溢れさせた笑みだったからだ。

 あんな顔は見たことがない。夜会で出会った時も、結婚式を済ませて屋敷に連れてきてからも、あのように輝かしい笑顔は一度だって見たことがない。

 彼女を大事にしていないつもりはなかったのに、あの顔を向けられているのが自分ではないことにロカのハラワタは煮えくり返った。馬だけが見ているのなら百歩譲って許せるが、あの場にはヒルもいる。

 ひたすらに湧き上がる黒い感情に身を委ねてしまいたい衝動を抑えようと、ロカは力の限り拳を強く握りしめた。


「やっと終わるか。今日の午後はずっとあんな感じだったんだ」
「……ずっと?」
「手紙を書いてメイドに郵便屋を呼ばせたあと、ずっと馬の世話をしてたんだ。あんなに奥様が馬がお好きとは知らなかったな。扱いも手慣れていて、たまにヒルが手伝うところもあったけど……、ロカ?」

 不穏な気配を隠せないロカに気付いたのだろう。マルシオはどうどうと言いながらロカを窓辺から引き剥がした。

「落ち着いてくださいよ。戦場にいるときより顔が怖い」
「あ、ああ……だが……、あんな顔、ヒルには見せるのに俺には……」
「そりゃ仕方ないでしょう。ヒルは奥様の馬も世話してるし、馬の話で盛り上がることだってあるだろう? でもロカは奥様と顔を合わせるのすら恥ずかしがって逃げてるんだから。笑顔なんて向けられるわけもない」

 ド正論である。うう、とロカは呻くしかない。

「そもそもロカは奥様を喜ばせようってつもりはあるの?馬がお好きだなんてことも、ひょっとしたら初めて知ったんじゃないか?」
「ぐ……そ、それは……ドレスや部屋の内装だって、女性の好きそうなものを選んで……」
「それだって奥様に好みを聞いて用意したわけじゃないじゃないか。ただでさえ君と奥様は政略結婚なんだぞ?まともに会話もしない、食事もいっしょに取らない、寝室も別、なんて状況に自分でしてるんだから、ヒルに嫉妬できる立場じゃないだろう」

 今日の幼馴染は辛辣だ。全く正しく逃げ道を封じられたロカは、両手で顔を覆って天井を仰いだ。

 従僕の言う通りだ。恥ずかしいからと妻に向き合おうともしないで、醜い嫉妬心に身を委ねるなんて傲慢もいいところだろう。はあ、とロカはそのままの姿勢でため息を吐く。結婚してからこんなことばっかりだ。 

 勇猛果敢、苛烈な戦上手と言われた英雄、炎の氷帝がこのザマとは。望んで名乗ったわけではないが、さすがに今の自身と乖離し過ぎていて自分で自分が情けない。 

 このままではダメだ。 

 今はまだ家に帰れないほど仕事が忙しいわけではないが、騎士団を率いる立場であるロカはいずれまた必ず戦地に赴く。その時に後悔しても遅い。近いうちに盗賊団の討伐だってあるだろう。

 ここは腹を括る必要がある。口下手を理由に自分から潔く求婚せず、外堀を埋め強引に話を進めたツケは払わなくてはいけない。

「マルシオ……」
「なんです?」
「ルイーサ付きの侍女はエマだよな? 彼女に、その、今夜はルイーサと食事すると伝えてくれないか。あと、ルイーサの花の好みがあれば……」

 マルシオの瞳が大きく見開いた。あれだけ真っ直ぐ正論で責め立ててきた本人だというのに、いざロカが覚悟を決めると驚くのか。

 ロカが頼むと重ねて言うと、マルシオは肩を跳ねさせて踵を返した。

「わ、分かった。伝えてくる。着替えは一人で出来るな? 奥様の花の好みを聞いたら、庭師に言って小さなブーケでも作ってもらってくる。待ってて」

 それだけいい残すと、侯爵の忠実なる従僕は大急ぎで母屋の三階へと駆けて行ったのだった。
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