文系男子と理系女子の恋愛事情

桐生彩音

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第一巻

015 理系女子の出生

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 幼児期ようじき健忘けんぼう、という言葉がある。
 明確な原因は不明だが、人間は産まれて数年後までの記憶を保持することが難しい。しかしまれに、当時を忘れることなく記憶している人間もいる。
 稲穂の場合は、おそらく、その当時が印象ぶかかったのが原因で覚えていたのかもしれない。
(…………)
 産まれたばかりの稲穂が見ていたのは、古びたタイルに囲まれた部屋だった。においもひどく、薄暗い雰囲気が辺りを立ち込めている。
 しかし、赤ん坊である稲穂には、何もできなかった。徐々に弱っていく自分に恐怖し、わずかな体力をしぼって、ずっと泣いていた。
 だが所詮しょせんは、赤ん坊の体力。長くは続かなかった。
 周りには誰も居ない。先程まで誰かがいたかもしれないが、音を立ててから消えてしまった。
 このまま死んでしまうのか?
 死ということの意味すら理解しないまま、意識を閉ざそうとした時、また、同じ音が産まれたばかりでも機能している聴覚に響いてきた。
「――、―――……」
 意識が途切とぎれ、それで終わりだと思っていたのだが……



「……あれ、生きてる?」
 それが、稲穂の物心がついて、最初の一言だった。



「……まじでそう言ったの?」
「さすがに覚えてないわよ。ただ、少なくとも……突然そんなことを言い出したのは本当みたい」
 初夏に差し掛かったとはいえ、今日は微妙に肌寒かった。ソファーベッドを背もたれにして、マグカップ片手にコーヒーをすする分には丁度いい気候だが。
「……なんか言うことある?」
「う~ん…………特になし」
 何かあるか、と問いかけてくる稲穂に、そう答えた蒼葉。
 蒼葉自身も驚くほど、特に言うことが思い浮かばなかったのだ。
「それを知る前から、金子とは付き合いがあったからな。先に知っていれば同情の一つはしたかもしれないけど……周囲とたいして変わらない生き方している奴に、いまさら何も言うことはねえよ」
「そう……ならいいけど」
 微妙にくさいのか、稲穂は片手で持っていたマグカップを両手で包み持ってから、口元に運んでいた。その様子をながめながら、蒼葉もコーヒーをちびちびと飲んでいる。
「まあ、いて言うなら……誕生日は祝わない方がいいか?」
「どっちでもいいわよ。『私が捨てられた日』ってだけだし」
「ストレートに言うなよ。本当さばさばしているなお前」
「余計なお世話よ。いまさら可愛かわいさなんて、らないでしょう?」
 口は、わざわいの元である。
 きじも鳴かなければ撃たれないのに、蒼葉は思わず、余計なことを口走ってしまう。



「いや、可愛かわいいところあるだろ? そのコーヒーの飲み方といい、ピンクフリルの下着パンツといぐぇっ!?」
「てめぇとうとう口にしやがったな!?」



 ~しばらくお待ちください~



「……コーヒー飲み干してて良かった」
「あんたがっ、よけいなっ、ことをっ、言うっ、からっ、でしょうがっ!」
 空のマグカップが転がっているにも関わらず、床の上にうつぶせのまま、背中を踏みつけられている蒼葉は抵抗することなくじっとしている。少しでも動けば、稲穂の怒りを買いかねないからだ。
「というか、過去の古傷よりも下着パンツの方でブチ切れるってどうなの?」
「いまさら過去なんて変えられないでしょうが。気にするだけ『You can't buy a second with money.』よ」
「ならいいけど……」
 足を降ろしてもらえた蒼葉は起き上がり、転がっているマグカップを拾い上げた。
「……言われて嫌なこととかは、事前に教えてくれ。人間何がNGかってのは、本人にしか分からないからな」
「話ぶり返さなければ……ああ、そうだ」
 二人は台所の前に移動し、流し台で洗い物をする蒼葉の隣で、稲穂は食器をいていく。その間も、二人の会話は途切れることがなかった。
「あんたの通いつけの診療所あるでしょ?」
「ああ、それがどうかしたか?」
「その隣の公園、NGだから」
 食器を片付けると、時間はすでに、夜の9時を超えていた。
 稲穂は荷物を持つと、そのまま玄関へと向かっていく。
「NG?」
「私は覚えていないし、親父から聞いたわけじゃないんだけどね……見送りでわざわざ、出てこなくてもいいわよ?」
「ついでがあってな。このままちょっと出掛けてくるわ」
 二人そろって玄関を、稲穂の部屋の前まで移動した。
 夜の静けさの中、会話を邪魔する他者は存在しない。
「多分あの公園なのよ……私が捨てられたのは」
「分かるのか?」
「……身体は覚えている、と思うから」
「そうか……」
 蒼葉はそれ以上、余計なことは聞かないことにした。
「じゃあ、また明日な。もうすぐ終業式だし、夏休みに入ったら映画でも見に行こうぜ。今朝船本から買ったんだし、せっかくだからさ」
「気が向いたらね……じゃあ、また」
 稲穂が部屋の中に入り、扉に鍵を掛ける音を聞いてから、蒼葉はアップルフォンを取り出しつつ、エレベーターへと向かった。
「さて……ん?」
 ボタンを押し、エレベーターが来るまで待っていると、アップルフォンから着信音が鳴った。
 電話ではなくメッセージが表示されている。内容は短文の為、画面のロックを解除することなく確認することができた。
『今日はご馳走ちそうさま。それなりにはおいしかったわよ』
「……それなりには、は余計だよ」
 ロックを解除しつつ、到着したエレベーターに乗り込みながら、適当に『どういたしまして』と返事を送る。しかし蒼葉の手からは、アップルフォンがはなれることはなかった。
「ああ、くそ……」
 蒼葉が見ているのは、ある人物のプロフィール欄。
 アドレス交換の際、登録してある個人情報も確認する機会があった。その時はただ、偶然だと思っていた。
 しかし、もう一つの偶然が重なった以上、それはもはや必然だろう。おまけにダメ出しとばかりに、偶然がもう一つ。ろくに考えられない人間なら、もうそれで結論を出してしまっても、なんらおかしくなかった。
「ったく……普通、そんな偶然なんてあんのかよ?」
 本人の前ではどうにか隠し通せたが、それもギリギリだった。
 演劇部に在籍しているとはいえ、蒼葉の立ち位置は所詮しょせん、脚本家でしかない。役を与えられても、基本は数合わせのモブキャラでしかなかった。さすがに部活動で手を抜いたことはないが、それでも長時間、演技ができるほど器用な方じゃない。
「まさか……こんなことになるなんて、な」
 コンビニに着いた蒼葉だが、店内には入らず、そのまま店舗の壁にもたれかかっている。再びアップルフォンを取り出し、電話を掛け始めた。
「……あ、親父? 酒入ってないよな……金子さん、って分かるか? 親父のことを『先輩』と呼んでいる金融会社社長の……そうそう。その人と話がっ! いや違うから! 『娘さんはらませた』とかじゃないから!?」
 変な勘違いをされる前に、どうにか折り返しで穂積から電話をもらえるように取り計らって貰うことに成功し、蒼葉は内心安堵した。本当に違うから、と否定してから電話を切り、待つこと数分。
 待ち人からの電話が来た。
『……蒼葉君?』
「夜分にすみません、金子さん。今、大丈夫ですか?」
『……娘が欲しいなら、直接挨拶に来るべきじゃ』
「だから違いますってっ!? ……いや彼女が駄目とかじゃなくて、別件で話があるんですよっ!」
 大声を出して目立ってしまったのを感じ取り、蒼葉は人目を避けるようにしてコンビニの店舗の影に隠れた。
「いや、関係なくはないんですけど、今回のこれは男女の仲とは別件ですから……そこだけは理解して下さい。お願いします」
『まあ、今はそれでいいけど……話というのは?』
「……前置きとして、俺も彼女も、まだまだ子供ガキです」
 一呼吸置いてから、蒼葉はゆっくりと話し始めた。
「だから間違った判断をする可能性もある。そもそも、この推測自体間違っているかもしれない。だから、だから……大人であるあなたに確認して欲しいんです」
『確認して欲しい、か……』
 社会人からすれば、こんな前置きなんて邪魔でしかないだろう。しかし、そう話さなければならなかった。蒼葉なりに考えて、話そうとしていることは、それだけ大きな案件なのだから。
『……先輩に聞いていた通りだね、君は。…………分かった、話を聞こう。続けて』
 その慎重さを理解してくれたのか、穂積は話を聞くと言ってくれた。相手の気遣いに内心で感謝しつつ、蒼葉は話を続けた。
「……彼女から、出生のことを聞きました」
 電話越しに、何かがぶつかる音がした。しかし、電話が切れた様子もない。おそらくはまだ耳をかたむけているのだと蒼葉は思い、決定的な一言を伝えた。



「…………彼女の母親に、心当たりがあります」



 話はちゃんと聞いていたらしい。
 電話越しに聞こえた音が先程よりも大きく、蒼葉の耳に響いてきた。
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