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026 荻野睦月という男(その5)

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「本当、世間って狭いですよね……」
 ゴールデンウイーク。通信制高校に入学して初めての長期休暇は睦月にとって、世間の狭さを実感させられるイベントと化していた。
「まったくだな……まさか京子の奴と知り合いだとは思わなかった」
「その台詞、そのままお返ししますよ……」
 バーベキューコンロの準備をしている睦月の横にしゃがみ込み、中に並べる為の木炭を割り削っている洋一は、呆れつつもどこか楽し気な口調で、そう返してきた。
 ことの起こりは単純、県境にあるバーベキュー場での出来事だった。
 詳しい内容が決まったからと、京子と洋一からそれぞれバーベキューのお誘いを受けたものの、開催日時も会場も見事に一致。確認の連絡をして初めて、睦月は二人が知り合いだという確信に至ったのだ。
「それにしても……結構集まりましたね」
「大体は子連れだから、さっさと遊びに行ったけどな」
「いいんじゃないですか? 火を熾そうとしている時に近付かれても、危ないだけですし」
 警察関係者や商店街の店員(夜勤組)が中心となっているが、姫香や(何故か)彩未も参加している。今は炊事場の方で材料を切っている為、近くにはいない。
 ……由希奈と、彼女の姉の菜水も一緒に。
「何か……あったのか?」
「何がです?」
 最初、睦月は洋一から投げられた疑問が分からずに問い掛け返した。
「……馬込さんとだよ」
 同級生で睦月と同じく参加した最後の一人、由希奈とは微妙な距離感が生まれていた。
 それを心配した洋一が気を回してきたことをようやく理解した睦月は、木炭を掴んでいた炭挟みを片手で弄びながら少し言葉を探し、そして口から発した。
「ちょっと……仕事の都合で話せないことがあって、その為に口を堅くしたから、頬を引っ叩かれたんですよ」
「なるほど……」
 それを聞いて、洋一は溜息を吐いた。
「……よくある話だな」
「ええ……男が仕事を優先して女に引っ叩かれる、よくある話ですよ。その場で謝ってもくれましたし、こちらは特に気にしてないんですけれど……」
 実際、ありきたりな話だった。
 男女の間で仕事とそれ以外プライベートが重なった際、果たしてどちらを優先させるべきか。それは社会の表裏を問わず、互いの間でしか答えを見出すことはできない。
 問題があるとすれば二つ。
 今の睦月と由希奈の関係は、ただの同級生でしかないこと。
 そして……引っ叩かれた理由が、ほんの些細なすれ違いであったことだ。
「付き合いの浅さが災いしたんでしょうね……向こうから見れば、仕事じゃなくて別の人間を優先させたと思ったから怒ったんでしょうし。しかも、いつの間にか彩未どっかの馬鹿が勝手に俺の事情をばらしてしまうものだから……」
「……それが今の結果、ってことか」
 何度か、このバーベキュー場に来てから今準備をするまでに、由希奈は睦月に話し掛けようとしては、口を閉ざすことを繰り返していた。
 しかし睦月は、由希奈とは当たり障りのない対応しかしていない。表面上は、何もなかったかのように。
「しょうがない……ちょっと俺が」
 仲介しようか、と言葉を続けようとしたが、

「絶対に止めて下さい」

 ……睦月に遮られてしまった。
「いや、でも……このままでいいのか?」
「むしろ……その方が逆効果ですよ。特に、彼女との場合は」
 バーベキューコンロの中に一通り炭を並べ終えた睦月は、火を点ける前にと近くに置いていたジュースの缶を開けて、中身を口に流し込んだ。
 多少喉を潤してから、少し目を伏せた状態で、話を続けていく。
「人付き合いの苦手な人間にとって、周囲の助けはかえって毒なんですよ。自分から助けを求めるのならまだいいですけれど……周りが率先して声を掛けてしまうと、それに甘えてしまうんです」
「…………」
 元々、体育会系的な勢いノリで人との距離を詰めることが多い洋一のことだ。人付き合いをしている上で、それに近いこともあったのだろう。
 睦月の言いたいことを、すぐに理解できた様子を見る限り。
「誰かに助けを求めるのはいいですよ。俺だって、駄目なことがあればすぐに人を頼りますし……ただ、一度でも自分に甘えを許せば、周囲が勝手に・・・助けてくれると高を括ってしまいやすくなるんです。それを重ねてしまうと……周りに甘えることが当たり前になってしまう」
 昔、睦月がある漫画を読んだ際、大きな悩みに直面している主人公に対して友人が言い放った台詞が、今でも印象に残っていた。
『一番最初の決断をしてくれない限り、私は何もできない』
 それを、地元の学校にある図書室で読んだ時はまさに自分のことじゃないかと、当時の睦月は思わず拳を握ってしまっていた。
 ……周囲に流されるのは、誰だってできる。むしろ大多数が、そうやって生きているのかもしれない。
 小学校、中学校と義務教育を終え、何の目的もなく普通科の高校に進学し、辛うじて興味のある分野か、とにかく偏差値の高い大学に進学して、ただ周囲から評価されやすいだけ・・の職場を適当に探して、就職を希望する。
 そして、余程の不和がない限り定年で退職し……寿命いのちが尽きるその瞬間までただ漫然と生きていく。
 常人であれば、それでも十分満足のできる生き方なのだろう。だが、幼少期からふざけた環境下で生きてきた睦月や、ASDの為に周囲とうまく合わせられない由希奈のような者達の場合は違う。
 すでにあるルールに沿って生きていくことに違和感を覚える人間にとって、他者と同じ生き方をする方が、かえって自身の首を絞める結果になりやすかった。
 人と合わせられないということは、互いが衝突しないよう設けられたルールを守ることが難しいということだ。特に、空気が読めずに暗黙の了解を理解できない場合は、その共同体コミュニティから拒絶されることを意味する。
 完璧な生物じゃない人間が設けた法律が不完全であるのも、この場合はまだ、救いなのかもしれない。最低限のルールだけでも守ることさえできれば、社会生活を送ることはまだ可能なのだから。
 けれども、それは最低限・・・の生き方に過ぎない。だからこそ……
「人に甘えることを、癖にしちゃいけないんです。じゃないと、待っているのは……『自分のない』人生なんですから」
「睦月……」
 一通り割り終えた洋一は、着けていた軍手を外しながら立ち上がり、睦月に向けて腕を組んだ。
「お前……何か経験があるのか?」
「別に、大した話じゃないですよ。ただ……」
 人にとっては、大した話じゃないかもしれない。

「『別に廃業しても構わない』って、ある意味先祖代々の家業を軽く見ていた父の言うことが……本当は正しかったと、思い知らされただけですから」

 だが睦月にとって、その経験がなければ今この場に居ないと言い切れるだけの話であるのは、間違いなかった。



 トトトト…………
「本当、手際が鮮やかだね……姫香ちゃん」
 炊事場の調理台で手際良く皮を剥いた野菜を切り刻んでいる姫香を、向かい側から覗き込んで感嘆の声を上げる彩未。しかし彼女の手が包丁から、切り分けたばかりの玉ねぎに伸びかけた時点で口を噤み、一歩後退る。
「…………っ」
「姫香ちゃん、女の子はあんまり舌打ちしない方がいいよ」
 せっかく可愛いのに、と続けようとした彩未だったが、視界に京子と菜水の二人が映ったので、一旦意識を二人へと向けた。
「どうでした?」
「いや……」
「ちょっと、考えさせられちゃったわね……」
 偶然が重なったのが大きいものの、それでも気分転換になる上に、せっかくできた縁だ。そう考えた京子やここには居ない洋一が、由希奈と菜水の姉妹を改めて、今日のバーベキューに誘ったのだ。
 しかし……それがかえって、由希奈を追いつめる結果になってしまったのかもしれない。
『おはようございます』
『あ、お……おはよう、ございます…………』
 睦月から発せられたごく普通の挨拶に、由希奈はただ返すことしかできなかった。
 ……その豊満な胸に、小さなしこりを残しながら。
仲介・・、うまくいかなかったんですか?」
「……丁度洋一も、それを睦月君に提案していてね」
 旦那の相方で、顔馴染みの洋一のことを、京子はよく知っていた。勢いはあるものの、人付き合いの多い彼を介せば、特に苦も無く関係の修復を図れる。
 ……そう考えていた自分を、今の京子は恥じ入っていた。菜水も同様らしく、少し離れた場所で串焼きの準備をしている由希奈の方を見つめている。
「行く前に、姫香君が指を振った理由が分かったよ……」
「あれって……なんて意味だったんですか?」
 そう呟く京子だが、彩未にはあれが手話だったと理解していなかったらしい。
 そもそも彩未が手話を勉強し始めたのは、睦月達と行動を共にするようになってからなので、彼女にとっては知らない動作言葉の方が多い。それを察した京子は、先程姫香が行った手話を繰り返した。
「鼻の右側で右手人差し指を立てて、そのまま左に倒していただろう?」
 実際にそれを行った姫香は、気にせず残りの野菜に包丁の刃を通していた。
「【駄目】とか【いけない】って意味なんだけど……多分、【止めておけ】って言ったんだと思うよ」
 しかし、動作言葉だけで人が止まるとは限らない。それに、自身の発言が必ずしも正しいとは限らないのが世の理だ。
 だから姫香も、それ以上は何も言わずに、野菜の解体に精を出していた。
 そして結果は……姫香の発言通りに終わってしまった。
「耳が痛いよ。『人に甘えることを、癖にしちゃいけない』なんて、言われてはね」
「本当に……姉として、情けない限りだわ」
 丸まっている妹の背中を見つめながら、菜水は自分の缶ジュースを片手にぼやく。
「もう私しかいないのに……こんなことなら信じて、ちゃんと話せば良かったわ」
 事前に調べていた彩未や、警察関係者である京子はもう知っていることだが……

 ……由希奈にはもう、菜水以外の家族はいない。

 高校時代に交通事故に遭い、両親は他界。由希奈自身も要リハビリの大怪我を負った。しかも突然舞い込んだ多額の保険金の為に親戚とは不仲となり、仕事で事故を免れた菜水が話を取り纏めた上で、今のアパートに引っ越してきた。中には味方もいたものの、敵の方が多いからと、距離を置くように勧められて。
 そして数年の月日が流れて、由希奈が通信制高校に再入学したことをきっかけに余裕ができたところを……詐欺師月偉に狙われたのだ。
「心配かけたくなくて黙ってたけど、まさかこんなことになるなんて……」
「しょうがないですよ。神様じゃないんですし……あてっ!?」
 そう声を掛ける彩未だが、その頭に京子の手刀が振り下ろされた。
「ややこしくした張本人が言わない」
「あたた……いやでも、その辺りはちゃんと話しとかないとまずいでしょう?」
 頭を摩りながらそう言い訳染みたことを零す彩未だったが、京子は先程盗み聞いてきたことをそのままぶつけた。
「……『彩未どっかの馬鹿勝手に・・・俺の事情をばらした』って、さっき睦月君が言っていたんだけどね」
「睦月君酷っ!?」
 たとえ事情を話す必要はあったとしても、ただ闇雲に話せばいいというわけではない。内容は同じでも、状況によっては受け取り方が百八十度変わることもある。今回の場合で言えば、彩未が先走ったせいで話し合う間もなく、由希奈にただ罪悪感を覚えさせる結果に終わったともとれるのだ。
 そのことを指摘する京子だが、彩未は知らないとばかりに首を振りつつ、包丁を片付けている姫香の方を向いた。
「ねえ姫香ちゃん! 私悪くないよねっ!?」
「…………」
 しかし、話を振られた姫香は彩未を一瞥すると……顔だけで嘲笑ってきた。
「姫香ちゃんも酷いっ!?」
 叫ぶ彩未に我関せずと、姫香は包丁を専用のケースに片付けていく。
「あ、あの……」
 刺し終えた串を容器バットに並べた由希奈が、反対の手で杖を突きながら近付いてくる。話が聞こえていたのか、その表情にはさらに影が差し込んでいた。
「皆さんすみません。私が八つ当たり余計なことをしたばかりに……」
「いや……あれは仕方ないと思うよ」
 似たような状況になれば、激昂する人間の方が多い話でもある。それに、由希奈は顔を引っ叩いた程度だ。当事者でもない限り、笑い話になる程のありきたりな展開でもある。だから関係の修復は容易だと考えられた。
 ……本来ならば。
「彩未君が変なタイミングで誤解を解くだけでなく、人の事情をべらべらと勝手に話したりするから、こんなややこしいことに……」
「だからごめんなさいってば! でも怖いから誰か睦月君に執成とりなしてお願いっ!」
 しかしこの場にいる彩未以外の四人の内、二人は申し訳なさそうな顔をしたものの、残り二人は顔を思いっきり逸らしている。
 もちろん前者は由希奈と菜水であり……残りは同じ男に手を出した女性陣彩未の竿姉妹達だった。
「姫香君、頼め……いや、やっぱりいい」
 凄く嫌そうに顔を顰める姫香。むしろ自分に矛先を向かせない為に、容赦なく彩未を切り捨てかねない。それを理解しているだけに、京子は自らの発言を撤回した。
「あの、えっと……久芳さん、でしたよね?」
 だからだろう。由希奈が姫香がどういう人間なのかも分からないまま、恐る恐る声を掛けているのは。
「久芳さんも、ごめんなさい。こんなことにな、」
 串の載った容器バットを脇に置き、頭を下げようとした由希奈だったが、その行為は中断させられてしまう。
「って……」
 他でもない……姫香自身の手で。
 顔を上げさせ、無言で溜息を吐いてから、由希奈と目を合わせて……

「……ねえ、これ使えない?」

 突如割り込んできた彩未の声に、姫香は再度溜息を零してから、由希奈の元を離れた。
 そしていつものVネックワンピースを身に纏っているにも関わらず、スカートを意に介していないかのように足を振り上げようとする姫香。
 それを制しながら、彩未はいつの間に取り出していたのか、自身のスマホの画面を姫香に向けてくる。
「いや、仕事・・だって! しかも由希奈ちゃん達に関係あるや……だから痛いっ!?」
 そしてまた余計な・・・一言をつけた彩未の頭に、姫香と京子の手刀が二本、同時に振り落とされたのだった。
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