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073 信用の代償(その3)
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最初に考えるべきなのは、依頼人の意向。
「前提条件――レースに勝つこと。それ以外は、今は考えなくていい」
自分以外の言葉は挟まれない。睦月の認識が、勇太の要望に沿っているからだ。
「制限時間――……レースの日時は?」
「約一ヶ月後、来月の半ば頃だ」
睦月の質問に、聞かれた勇太は用意していた回答を返してくる。
「敵対勢力――あの女は、いつも一人で行動しているのか?」
「分からん。だが……他の奴は俺がどうにかする。だから、今は考えるな」
思考を剪定するかの如く、睦月が余計な考えにまで脳を回さないよう、勇太が言葉で刈り取ってくる。
「所持戦力――車の詳細な性能は?」
「今送る。スマホを見てくれ」
動画と同様に、睦月のスマホに勇太からの情報が飛んでくる。一度手を解いてから取り上げたスマホの内容を一瞥し、一先ず保留とばかりに次へと移行した。
「戦場状況――レースはどこでやるんだ?」
「山間部の方の溜まり場。一番カーブの多い、テクニカルサーキットだ」
「あそこか……」
そこは『走り屋』時代に、睦月が散々乗り回していた場所の一つだった。スタート直後に連続で襲い来るカーブが厄介だったので、特に印象に残っている。
「戦闘手段――あ……そういえば、肝心なことを聞き忘れてた」
「何だ?」
一度スマホを仕舞い、再び手を合わせた睦月は、虚空を見つめながら問い掛けた。
「……この車じゃなきゃ、駄目なのか?」
依頼内容は『レースに勝つ』ことであり、『用意された車でレースに勝つ』ことではない、はずだった。その条件を確認する為、あえてそう問い掛ける睦月。
実際、普段仕事で使っている国産スポーツカーでも、十分レースに耐えられる。性能に多少の差があったとしても、いきなり用意された機体よりは明らかに信用できた。
「後出しになって悪いが……」
睦月の問い掛けに……勇太は、首を横に振った。
「……駄目だ。この車で勝て」
「となると……」
条件は全て出尽くした。睦月は一度目を閉じ、脳内で機体を駆る。
かつて走り込んだコースと、先程の動画を基に想定した相手の技量と機体性能。そして、自らが運転することを踏まえた上での模擬操縦を繰り返していく。
「…………」
少しして、結論が出た睦月は、最後の言葉を口にした。
「以上を踏まえて、依頼を達成させる為の絶対条件――……何の憂いもなく、レースに集中するしかなさそうだな」
今の睦月にできることは、事前準備で不安の芽を可能な限り潰しておくことだった。
レース自体は一時間にも満たないだろうが、本番の為に練習や準備を重ねるのは、どこの誰もが行っている工程だ。ゆえに、それを削ること自体が間違っている。
「勇太……経費は全額、お前持ちだろうな?」
「一応な。だが……無駄は省くぞ」
運営費を含めた管理が、かつてのチーム内では勇太の役割だった。当時から彼が認めなければ、たとえペットボトル一本だろうと却下されてしまう。
しかし、勇太が納得するならば……部品等の高額申請も、あっさりと承諾してくれる。そこだけはまだ、睦月は信用することができた。
「これからメモを送る。全部用意できるなら……必ず勝ってやる」
「どれどれ……」
睦月から送られてきたリストを見流していく勇太。特に問題ないのか、スライド操作する指が止まらずにいたのだが……最後の項目を見て、急に眉を顰め出した。
「……最後のやつ、手配する時には俺も立ち会うぞ」
「むしろ、そっちの方が助かる。他はどうだ?」
睦月に見つめられながら、勇太はスマホを持った手ごと腕を組み、そして答えた。
「問題なしだ」
「分かった……請けるよ」
少し休んでから、睦月の要望を手配する段取りを組むことにした。
車体に腰掛け、睦月の代わりに眺めてくる弥生の視線を浴びながら……勇太は独り言ちた。
「本当……手間が省けたんだけどな」
……身体の一部が、動かなくなる。
たとえ、言葉を発するのに必要な器官だけの話だとしても……緘黙症の症状が現れた時の感覚は、その表現が一番近い。
(…………?)
最初、姫香が目を覚ました時は、自分が金縛りにでもあったのかと思った。
しかし、その原因がベッド近くにある座椅子に腰掛けた男のせいだと気付いた後は、いつもの緘黙症だと分かり、逆に落ち着いてきてしまう。
「……ああ、起きたか」
座椅子越しに振り返ってくる睦月に向けて、姫香は右手の拳をこめかみに当ててから、傾けた首を戻すと同時に右腕を倒した。
「【おはよう】」
「おはよう……時間前に起きてくれて良かったよ」
倒した右手を伸ばし、取り上げたスマホの画面に姫香は視線を降ろした。
レストランの予約の時間まで、準備を含めても一時間位の余裕がある。表示された時刻を見て、帰ってからほんの数時間程、眠ってしまっていたことが分かった。
スマホの画面には時刻と共に、複数の着信通知が表示されていた。それで返事がないからと、早めに来た睦月が合鍵を使って入ってきたのだろう。
「ちょっと余裕があるけど、どうする? 酒入れたいなら、先に車戻してこないと……」
睦月の言葉が、途中で遮られてしまう。姫香が、自らの唇で覆ったからだ。
ベッドから起き上がった勢いをそのままぶつけた姫香は、床に倒した睦月にドサッ、と覆い被さる。
抵抗はない。ただ、睦月の掌が姫香の顔を覆い、軽く髪を掻き上げてきたが。
「……泣いていたのか?」
「…………」
姫香は(当然話せないのだが)無言で、首を横に振った。
こればかりは姫香も少し、意地になっていた。先程まで、昔の睦月を思い出しながら寝入ってしまったのだ。できれば、そのことは目の前の男に気付かれたくなかった。
「…………」
「黙ってても、分かんねえよ……まあ、いつものことか」
手を除け、睦月の胸板を枕にして頭を乗せる姫香。そんな少女の我儘を、青年はただ静かに受け入れてくれた。
「……時間までには、ちゃんと起きろよな」
(このまま寝ちゃいたい……)
せっかく取ったレストランの予約もあるし、このままだと睦月の方が寝てしまう可能性が高い。
(……ま、仕方ないか)
計画したのは自分だ。だから少しだけ、睦月の心臓の鼓動を聞いてから……姫香はゆっくりと身体を起こした。
「……今回の依頼は、レースの運転手だ」
起き上がった姫香が服を脱ぎ、目の前で着替えているのを眺めながら、睦月は弥生達と別れてから姫香の自宅に来るまでの出来事を話して聞かせた。
「昔、俺が『掃除屋』や『偽造屋』と組んで、『走り屋』をしていたのは、前に話したよな?」
少しだけ手を止めた姫香は一度睦月の方を向き、首を縦に振ってくる。
「その繋がりで来月、レースをすることになった。問題は……その相手が、前の件でぶつかった『犯罪組織』のメンバーだってことだ」
依頼内容は『指定の車でレースに勝て』、その通りにする分にはいい。だが、それ以外の問題が起きる可能性もある。
「一応、保険は掛けておいたが……それ以外にも用心しておきたい」
だから睦月は、今回の件ではあえて……姫香を外すことにした。
「レースの間は別行動で頼む。問題なければいいが……何かあれば、すぐ動けるようにしておいてくれ」
バサッ、と普段のVネックとは違うワンピースを着た姫香は再び頷き、そして背中を睦月の方へと向けてくる。背中のファスナーを上げろ、と暗に告げてきていた。
「本当、いつもすまないねぇ婆さんや……あだっ!?」
いつも世話になっていることも含めて、茶化し気味になっても感謝を伝えたかったのだが、最後の一言が余計だったらしい。いつの間にか飛んできた姫香の手に、睦月は頭を叩かれてしまう。
「たく…………じゃ、細かい話はまた決まってからな」
叩かれた頭を掻きながら立ち上がった睦月に、着替え終えた姫香は化粧箱から中身を取り出しつつ、再三頷いた。
「何にせよ……一ヶ月後の話だ。大まかでいいから、日程調整は頼むぞ」
その言葉を聞いた姫香は、化粧箱から抜き取ろうとした口紅を一度戻すと睦月の方を向き、両手の掌を自分に向けてから手首を返してきた。
「【暇】」
「…………え、他に依頼ないの? 精査中も含めて?」
姫香の四度目の首肯が、睦月にはどことなく、圧となって返ってきたように思えてならなかった。
仕事柄、収入が不定期になることも多い。だが、それでも蓄えはあるし、必要となれば昔の伝手を使って営業も行っている。
しかし、姫香の返事は圧を加えた『暇』、なのだ。今日明日、とまではいかずとも、なるべく早い段階で仕事を得なければならない。最悪麻薬組織狩りでもすれば収入的には問題ないが、それこそ『運び屋』の名折れだ。むしろ拘らなければ、その稼業を続ける意味がない。
「不景気なのはどこも一緒だな……」
仕方がないと、化粧中の姫香の横で睦月はスマホを取り出し、適当な知り合いに連絡して営業を掛けようとした。
……途端に、電話が鳴り響いた。
姫香と別れた後、由希奈は彩未と共に買い物へ行こうと、総合運動公園を後にしていた。
すぐ目の前にある停留所からバスに乗り、駅まで向かう為に、だ。
「とりあえず服と……靴もかな?」
「下着も、合わせた方がいいんでしょうか……?」
「それは着る服次第、かな?」
目的地に到着したバスを降り、駅から電車へと乗り込む道すがら。彩未から振られる質問に答える形で、由希奈は今日購入する物を纏めていく。
「肩とか出すなら合わせる必要があるけど……ああ、でももう暑くなってくるか」
季節柄、薄着にならざるを得なくなってくる。
ただ薄着になる分にはいいが……問題は、下着が透けて見えやすくなるということだった。
男物ならまだしも、女性向けは少しの油断が露出へと繋がりやすい。ゆえに、下着も服に合わせて、見えないようにする工夫が必要となってくる。
「ちなみに由希奈ちゃん、どんな服が着たいの?」
「どんな、ですか……」
電車を降り、到着した駅から十五分程歩いた先には、大きなショッピングモールがある。偶然にもそこは、以前睦月が姫香とのデート用の衣服を見繕った場所でもあった。
「……あまり肌は見せずに、できれば胸のところは強調して、」
「こらこら。最後まで行く気?」
どうしても気持ちが昂ってしまう由希奈に、彩未は宥めるように諫めてきた。正直それがなければ、気が逸って最後の一線を越えかねない勢いで。
「仕方ない……由希奈ちゃん、今日は下着も買おっか。先に服決めてからだけど」
「それは、いいんですけど……服によっては別にいいんじゃあ?」
ようやく到着したショッピングモールに入り、軽くエアコンの冷気に当たって火照った身体を冷ます二人。その後、彩未は由希奈の手を引き、入ってすぐにあるチェーンの衣料量販店を無視して、少し奥の方にある休憩用のベンチに並んで腰掛けた。
「ちょっとした睦月君情報を教え、」
「何ですか?」
由希奈は喰い気味に、彩未へと言葉と共に詰め寄った。
若干引きつつも、一応人の眼があるからと彩未はそのまま由希奈の耳元に口を寄せ、ある情報を告げる。
「睦月君…………紫の下着が駄目なんだよ」
一瞬、彩未が何を言っているのか、由希奈は理解することができずにいた。
「…………へ?」
思わず間の抜けた声を出してしまう由希奈に、彩未は顔を離してから、続きを話し聞かせてくる。
「本人もまったく心当たりがないらしいんだけどね……何でか萎えちゃうんだって」
「そう、なんですか……」
むしろ、普通に売られているような量産品だったとしても、紫はその色だけで扇情的な印象が強いと、由希奈は思っている。実際、これまで色事とは縁遠い人生だったので、手持ちの下着ではギリギリ青色が、一番艶やかさがあった。
ゆえに、この機会に挑戦してみてもいいかと、頭の片隅で思ってはいたものの……その考えを知ってか知らずか、彩未は念の為にと紫を勧めてくる。
「睦月君も、あの性格だから強引に迫らないとは思うけど……何かあった時の為に、紫にしといた方が無難じゃないかな?」
「かえって、煽ってる気がするんですけれど……」
「いや、本当だから。何なら姫香ちゃんに確認取ってくれてもいいし」
彩未の言葉だけではあまり信じられないものの、特に疑う理由もないので、由希奈は一先ず信じることにした。
「まあ……肝心の睦月君を誘わなきゃ、意味ないんだけどね」
「ぅ、…………頑張ります」
少し呻きつつも、由希奈は了承した。まずは服を揃え、合わせて下着も購入しようと、二人はベンチから立ち上がった。
「……ちなみに濃い青って、セーフですか?」
「多分、大丈夫じゃない? 私よく水色着けてるし」
青が好きなの? と問い掛けられ、頷こうとした時だった。突然、由希奈のスマホが鳴り出したのは。
「由希奈ちゃん、電話?」
「みたい、です……ちょっと待ってて下さい」
再び腰掛けた由希奈は、取り出したスマホの画面に表示された名前を見て、思わず首を傾げてしまう。
「あれ? 今、仕事中じゃあ……」
分からないものの、とりあえず画面をスライド操作して通話状態にする由希奈。電話してきたのは、自身の姉、菜水だった。
「お姉ちゃん? どうしたの?」
そう問い掛ける由希奈の耳に、今日は出勤しているはずの、菜水の声が飛んでくる。
『あ、由希奈? 急で悪いんだけど……今から睦月君と連絡取れない?』
その次に出てきた言葉は、妹の由希奈からこれまで聞いた中で一番……
「…………あ゙」
……ドスの利いた声だったと、姉の菜水は後に語った。
「前提条件――レースに勝つこと。それ以外は、今は考えなくていい」
自分以外の言葉は挟まれない。睦月の認識が、勇太の要望に沿っているからだ。
「制限時間――……レースの日時は?」
「約一ヶ月後、来月の半ば頃だ」
睦月の質問に、聞かれた勇太は用意していた回答を返してくる。
「敵対勢力――あの女は、いつも一人で行動しているのか?」
「分からん。だが……他の奴は俺がどうにかする。だから、今は考えるな」
思考を剪定するかの如く、睦月が余計な考えにまで脳を回さないよう、勇太が言葉で刈り取ってくる。
「所持戦力――車の詳細な性能は?」
「今送る。スマホを見てくれ」
動画と同様に、睦月のスマホに勇太からの情報が飛んでくる。一度手を解いてから取り上げたスマホの内容を一瞥し、一先ず保留とばかりに次へと移行した。
「戦場状況――レースはどこでやるんだ?」
「山間部の方の溜まり場。一番カーブの多い、テクニカルサーキットだ」
「あそこか……」
そこは『走り屋』時代に、睦月が散々乗り回していた場所の一つだった。スタート直後に連続で襲い来るカーブが厄介だったので、特に印象に残っている。
「戦闘手段――あ……そういえば、肝心なことを聞き忘れてた」
「何だ?」
一度スマホを仕舞い、再び手を合わせた睦月は、虚空を見つめながら問い掛けた。
「……この車じゃなきゃ、駄目なのか?」
依頼内容は『レースに勝つ』ことであり、『用意された車でレースに勝つ』ことではない、はずだった。その条件を確認する為、あえてそう問い掛ける睦月。
実際、普段仕事で使っている国産スポーツカーでも、十分レースに耐えられる。性能に多少の差があったとしても、いきなり用意された機体よりは明らかに信用できた。
「後出しになって悪いが……」
睦月の問い掛けに……勇太は、首を横に振った。
「……駄目だ。この車で勝て」
「となると……」
条件は全て出尽くした。睦月は一度目を閉じ、脳内で機体を駆る。
かつて走り込んだコースと、先程の動画を基に想定した相手の技量と機体性能。そして、自らが運転することを踏まえた上での模擬操縦を繰り返していく。
「…………」
少しして、結論が出た睦月は、最後の言葉を口にした。
「以上を踏まえて、依頼を達成させる為の絶対条件――……何の憂いもなく、レースに集中するしかなさそうだな」
今の睦月にできることは、事前準備で不安の芽を可能な限り潰しておくことだった。
レース自体は一時間にも満たないだろうが、本番の為に練習や準備を重ねるのは、どこの誰もが行っている工程だ。ゆえに、それを削ること自体が間違っている。
「勇太……経費は全額、お前持ちだろうな?」
「一応な。だが……無駄は省くぞ」
運営費を含めた管理が、かつてのチーム内では勇太の役割だった。当時から彼が認めなければ、たとえペットボトル一本だろうと却下されてしまう。
しかし、勇太が納得するならば……部品等の高額申請も、あっさりと承諾してくれる。そこだけはまだ、睦月は信用することができた。
「これからメモを送る。全部用意できるなら……必ず勝ってやる」
「どれどれ……」
睦月から送られてきたリストを見流していく勇太。特に問題ないのか、スライド操作する指が止まらずにいたのだが……最後の項目を見て、急に眉を顰め出した。
「……最後のやつ、手配する時には俺も立ち会うぞ」
「むしろ、そっちの方が助かる。他はどうだ?」
睦月に見つめられながら、勇太はスマホを持った手ごと腕を組み、そして答えた。
「問題なしだ」
「分かった……請けるよ」
少し休んでから、睦月の要望を手配する段取りを組むことにした。
車体に腰掛け、睦月の代わりに眺めてくる弥生の視線を浴びながら……勇太は独り言ちた。
「本当……手間が省けたんだけどな」
……身体の一部が、動かなくなる。
たとえ、言葉を発するのに必要な器官だけの話だとしても……緘黙症の症状が現れた時の感覚は、その表現が一番近い。
(…………?)
最初、姫香が目を覚ました時は、自分が金縛りにでもあったのかと思った。
しかし、その原因がベッド近くにある座椅子に腰掛けた男のせいだと気付いた後は、いつもの緘黙症だと分かり、逆に落ち着いてきてしまう。
「……ああ、起きたか」
座椅子越しに振り返ってくる睦月に向けて、姫香は右手の拳をこめかみに当ててから、傾けた首を戻すと同時に右腕を倒した。
「【おはよう】」
「おはよう……時間前に起きてくれて良かったよ」
倒した右手を伸ばし、取り上げたスマホの画面に姫香は視線を降ろした。
レストランの予約の時間まで、準備を含めても一時間位の余裕がある。表示された時刻を見て、帰ってからほんの数時間程、眠ってしまっていたことが分かった。
スマホの画面には時刻と共に、複数の着信通知が表示されていた。それで返事がないからと、早めに来た睦月が合鍵を使って入ってきたのだろう。
「ちょっと余裕があるけど、どうする? 酒入れたいなら、先に車戻してこないと……」
睦月の言葉が、途中で遮られてしまう。姫香が、自らの唇で覆ったからだ。
ベッドから起き上がった勢いをそのままぶつけた姫香は、床に倒した睦月にドサッ、と覆い被さる。
抵抗はない。ただ、睦月の掌が姫香の顔を覆い、軽く髪を掻き上げてきたが。
「……泣いていたのか?」
「…………」
姫香は(当然話せないのだが)無言で、首を横に振った。
こればかりは姫香も少し、意地になっていた。先程まで、昔の睦月を思い出しながら寝入ってしまったのだ。できれば、そのことは目の前の男に気付かれたくなかった。
「…………」
「黙ってても、分かんねえよ……まあ、いつものことか」
手を除け、睦月の胸板を枕にして頭を乗せる姫香。そんな少女の我儘を、青年はただ静かに受け入れてくれた。
「……時間までには、ちゃんと起きろよな」
(このまま寝ちゃいたい……)
せっかく取ったレストランの予約もあるし、このままだと睦月の方が寝てしまう可能性が高い。
(……ま、仕方ないか)
計画したのは自分だ。だから少しだけ、睦月の心臓の鼓動を聞いてから……姫香はゆっくりと身体を起こした。
「……今回の依頼は、レースの運転手だ」
起き上がった姫香が服を脱ぎ、目の前で着替えているのを眺めながら、睦月は弥生達と別れてから姫香の自宅に来るまでの出来事を話して聞かせた。
「昔、俺が『掃除屋』や『偽造屋』と組んで、『走り屋』をしていたのは、前に話したよな?」
少しだけ手を止めた姫香は一度睦月の方を向き、首を縦に振ってくる。
「その繋がりで来月、レースをすることになった。問題は……その相手が、前の件でぶつかった『犯罪組織』のメンバーだってことだ」
依頼内容は『指定の車でレースに勝て』、その通りにする分にはいい。だが、それ以外の問題が起きる可能性もある。
「一応、保険は掛けておいたが……それ以外にも用心しておきたい」
だから睦月は、今回の件ではあえて……姫香を外すことにした。
「レースの間は別行動で頼む。問題なければいいが……何かあれば、すぐ動けるようにしておいてくれ」
バサッ、と普段のVネックとは違うワンピースを着た姫香は再び頷き、そして背中を睦月の方へと向けてくる。背中のファスナーを上げろ、と暗に告げてきていた。
「本当、いつもすまないねぇ婆さんや……あだっ!?」
いつも世話になっていることも含めて、茶化し気味になっても感謝を伝えたかったのだが、最後の一言が余計だったらしい。いつの間にか飛んできた姫香の手に、睦月は頭を叩かれてしまう。
「たく…………じゃ、細かい話はまた決まってからな」
叩かれた頭を掻きながら立ち上がった睦月に、着替え終えた姫香は化粧箱から中身を取り出しつつ、再三頷いた。
「何にせよ……一ヶ月後の話だ。大まかでいいから、日程調整は頼むぞ」
その言葉を聞いた姫香は、化粧箱から抜き取ろうとした口紅を一度戻すと睦月の方を向き、両手の掌を自分に向けてから手首を返してきた。
「【暇】」
「…………え、他に依頼ないの? 精査中も含めて?」
姫香の四度目の首肯が、睦月にはどことなく、圧となって返ってきたように思えてならなかった。
仕事柄、収入が不定期になることも多い。だが、それでも蓄えはあるし、必要となれば昔の伝手を使って営業も行っている。
しかし、姫香の返事は圧を加えた『暇』、なのだ。今日明日、とまではいかずとも、なるべく早い段階で仕事を得なければならない。最悪麻薬組織狩りでもすれば収入的には問題ないが、それこそ『運び屋』の名折れだ。むしろ拘らなければ、その稼業を続ける意味がない。
「不景気なのはどこも一緒だな……」
仕方がないと、化粧中の姫香の横で睦月はスマホを取り出し、適当な知り合いに連絡して営業を掛けようとした。
……途端に、電話が鳴り響いた。
姫香と別れた後、由希奈は彩未と共に買い物へ行こうと、総合運動公園を後にしていた。
すぐ目の前にある停留所からバスに乗り、駅まで向かう為に、だ。
「とりあえず服と……靴もかな?」
「下着も、合わせた方がいいんでしょうか……?」
「それは着る服次第、かな?」
目的地に到着したバスを降り、駅から電車へと乗り込む道すがら。彩未から振られる質問に答える形で、由希奈は今日購入する物を纏めていく。
「肩とか出すなら合わせる必要があるけど……ああ、でももう暑くなってくるか」
季節柄、薄着にならざるを得なくなってくる。
ただ薄着になる分にはいいが……問題は、下着が透けて見えやすくなるということだった。
男物ならまだしも、女性向けは少しの油断が露出へと繋がりやすい。ゆえに、下着も服に合わせて、見えないようにする工夫が必要となってくる。
「ちなみに由希奈ちゃん、どんな服が着たいの?」
「どんな、ですか……」
電車を降り、到着した駅から十五分程歩いた先には、大きなショッピングモールがある。偶然にもそこは、以前睦月が姫香とのデート用の衣服を見繕った場所でもあった。
「……あまり肌は見せずに、できれば胸のところは強調して、」
「こらこら。最後まで行く気?」
どうしても気持ちが昂ってしまう由希奈に、彩未は宥めるように諫めてきた。正直それがなければ、気が逸って最後の一線を越えかねない勢いで。
「仕方ない……由希奈ちゃん、今日は下着も買おっか。先に服決めてからだけど」
「それは、いいんですけど……服によっては別にいいんじゃあ?」
ようやく到着したショッピングモールに入り、軽くエアコンの冷気に当たって火照った身体を冷ます二人。その後、彩未は由希奈の手を引き、入ってすぐにあるチェーンの衣料量販店を無視して、少し奥の方にある休憩用のベンチに並んで腰掛けた。
「ちょっとした睦月君情報を教え、」
「何ですか?」
由希奈は喰い気味に、彩未へと言葉と共に詰め寄った。
若干引きつつも、一応人の眼があるからと彩未はそのまま由希奈の耳元に口を寄せ、ある情報を告げる。
「睦月君…………紫の下着が駄目なんだよ」
一瞬、彩未が何を言っているのか、由希奈は理解することができずにいた。
「…………へ?」
思わず間の抜けた声を出してしまう由希奈に、彩未は顔を離してから、続きを話し聞かせてくる。
「本人もまったく心当たりがないらしいんだけどね……何でか萎えちゃうんだって」
「そう、なんですか……」
むしろ、普通に売られているような量産品だったとしても、紫はその色だけで扇情的な印象が強いと、由希奈は思っている。実際、これまで色事とは縁遠い人生だったので、手持ちの下着ではギリギリ青色が、一番艶やかさがあった。
ゆえに、この機会に挑戦してみてもいいかと、頭の片隅で思ってはいたものの……その考えを知ってか知らずか、彩未は念の為にと紫を勧めてくる。
「睦月君も、あの性格だから強引に迫らないとは思うけど……何かあった時の為に、紫にしといた方が無難じゃないかな?」
「かえって、煽ってる気がするんですけれど……」
「いや、本当だから。何なら姫香ちゃんに確認取ってくれてもいいし」
彩未の言葉だけではあまり信じられないものの、特に疑う理由もないので、由希奈は一先ず信じることにした。
「まあ……肝心の睦月君を誘わなきゃ、意味ないんだけどね」
「ぅ、…………頑張ります」
少し呻きつつも、由希奈は了承した。まずは服を揃え、合わせて下着も購入しようと、二人はベンチから立ち上がった。
「……ちなみに濃い青って、セーフですか?」
「多分、大丈夫じゃない? 私よく水色着けてるし」
青が好きなの? と問い掛けられ、頷こうとした時だった。突然、由希奈のスマホが鳴り出したのは。
「由希奈ちゃん、電話?」
「みたい、です……ちょっと待ってて下さい」
再び腰掛けた由希奈は、取り出したスマホの画面に表示された名前を見て、思わず首を傾げてしまう。
「あれ? 今、仕事中じゃあ……」
分からないものの、とりあえず画面をスライド操作して通話状態にする由希奈。電話してきたのは、自身の姉、菜水だった。
「お姉ちゃん? どうしたの?」
そう問い掛ける由希奈の耳に、今日は出勤しているはずの、菜水の声が飛んでくる。
『あ、由希奈? 急で悪いんだけど……今から睦月君と連絡取れない?』
その次に出てきた言葉は、妹の由希奈からこれまで聞いた中で一番……
「…………あ゙」
……ドスの利いた声だったと、姉の菜水は後に語った。
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