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074 『表』稼業の営業(その1)
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発達障害の特徴として、『集中力の制御ができない』というものがある。
興味・関心のあることであれば『過集中』状態になる程のめり込み、逆に意識が向かなければ、注意散漫となってしまう。一括りに発達障害で纏められるものではないが、日常生活に支障が出る点であれば、一番分かりやすい特徴だと言える。
だからこそ、睦月にとって『運び屋』は天職だった。案件ごとの規模が大きいので、スケジュール管理さえ間違えなければ、一つ一つに集中して取り組むことができる。
特に依頼内容が被ってなければ、しかも使用する機体が異なるのであれば……今の睦月ならば必ず完遂する。
「とはいえ、今日はただの営業だけどな……」
顔馴染みに対して仕事を求める既存営業とは違い、新規の顧客を開拓するのは、たとえ健常者であっても容易ではない。ただでさえ、初対面の相手と知り合うだけでも切っ掛けが必要となるのに、その上で自他が利益を上げられるよう宣伝しなければ、契約を結ぶことはできないからだ。
「今回は向こうから声を掛けてくれて助かったが……それでもまだ、話をするだけだ」
いきなり自社を宣伝しても、相手のニーズに対応してなければ意味がない。的外れな自慢話どころか、下手をすれば押し売りと同類になってしまう。
だから睦月は、今回は相手から依頼された状況だったとしても……新規開拓の営業を行うのが苦手だった。
普段は秀吉経由で知り合った人脈や、和音からの依頼をこなすことが多いだけに、営業の経験そのものが少ないからだ。ただでさえ、腕前を買われて仕事を依頼されることが多いだけに機会が少なく、むしろほぼないと言っても良かった。しかも、社長である睦月が雇っている社員は緘黙症持ちの姫香のみ。
二人揃えば話せなくなるので必然的に、睦月か姫香のどちらか片方が、営業の席に座らなければならなかった。
「ああ…………不安しかない」
話は数日前、姫香とのディナーデートに向かう前に遡る。
由希奈からの突然の電話。その用件は彼女の姉、菜水の勤め先絡みのものだった。
『……運転代行?』
『はい、旅行バスの運転手が不足しているみたいでして……緊急用の予備人員を何名か、確保しておきたいそうです』
公共交通機関が発達した現在では車を所有する人間は減り、さらには免許を取得する理由も少なくなってきた。おまけに由希奈の話を聞く限り、求められているのは『人を乗せて運び、運賃を貰う』ことを前提としている第二種免許所持者。ますます母数の少なくなる人材だった。
『お姉、……姉の勤めている旅行会社なんですが、『もし良ければ、話だけでもできませんか?』と代理店の店長さんから伝言を頼まれまして……』
『まあ、大型自動車第二種免許も持ってるし、可能といえば可能だけど……』
予備人員ということは、定期的な仕事ではないということだろう。普段の依頼と同様、相手の要望に応じた時に仕事をする形だ。しかも最悪、契約内容如何によってはただ同然に時間を奪われる可能性もある。
いくら仕事を探している最中とはいえ、簡単に請け負うことはできなかった。
『話は分かった。由希奈には悪いけど……こっちの連絡先を伝えるか、もしくは俺の代わりに先方の連絡先を聞いてくれないか? 『面会の約束を取り付けた上で、商談したい』って伝言と一緒に』
『分かりました。では姉に、そう伝えておきます』
レースと旅行会社の二件が重なり……その後の姫香とのデートでは、会話の大半が仕事になってしまった。
「それでも付き合ってくれるんだから……お前には頭が上がらないよ」
ここ最近は使う機会のなかったネクタイを結びながら、そうぼやく睦月。
そこに姫香の手が伸び、一度結んだはずのネクタイが結び直されてしまう。
「……そんなに下手か? 俺」
秀吉の下で修業していた時は顧客との対面が多かったので、その分服装には気を遣っていた。面倒なので礼服にも兼用できる黒のスーツで、ネクタイも単色。
だから睦月もよくネクタイを結んでいたのだが、姫香の基準では『落第』だったらしい。
その証拠に姫香は、右手を左腕に当てると、二の腕から肩の方に沿って跳ね上げてきた。
「【下手くそ】」
「悪かったな……」
仕事用のスーツに普段は使わない書類鞄、名刺入れ等の必要な小物類も揃えた。
「……今度練習するか」
後は商談に臨むだけだが……良い点と悪い点が一つずつ。
良い点は場所だった。
今回仕事を仲介してくれた由希奈の姉、菜水は以前、駅の中にある旅行代理店に勤務していた。妹のリハビリや進学も落ち着いてきたので、現在は元々務めていたそこの本社勤務に戻ってはいるが、それでも仕事上の繋がりは残っている。
その都合もあって、今回睦月に声を掛けてくれたのだろう。
だから商談を行う場所は、その駅中にある旅行代理店だった。仲介した手前、商談には菜水も同席するが、基本的にはそこの店長と話すことになっている。なので移動の手間はなく、自宅からでも徒歩で向かうことができた。
「さて……高校行くか」
悪い点は日時。
先方の都合により平日しか時間が取れず、しかも通信制高校の登校日と被ってしまったので下校後、直接旅行代理店へと向かわなければならない。
「面倒臭いが……まあ、生きてく為だ。仕方がない」
支度を終え、高校用の荷物を纏めた鞄も一緒に持ち上げた睦月は、デニム姿の姫香を伴って玄関を後にした。
学校生活というものは、独自の文化が生まれやすい。
狭い世界に未成熟な人間達が集う。そこでは常に、各家庭で築かれた各々の価値観の差異が溢れている。それらが重なることで、互いの考えをぶつけ合う機会が生まれてしまうのだ。
つまり学校生活とは、そのぶつかり合いの結果、構築された世界で暮らすことを指すのかもしれない。
「おはようございま~す」
そしてそれは、すでに社会人経験のある人間も混ざっている、通信制高校も例外ではなかった。
「おう、おはよう」
「おはよう荻野君」
先に来ていたクラスメイトは三人。最近凝っているのか、早めに来ては将棋を指している洋一と裕が、教室に入って来た睦月に挨拶を返してくる。
「……ああ、おはよう」
そのやりとりが耳に入ってようやく気付いたのか、少し離れたところで無骨なノートPCを操っていた拓雄も一度顔を上げ、睦月に挨拶してきた。
「今日は随分めかし込んでるな……デートか?」
「仕事ですよ。放課後に営業することになりまして……」
「……どこも大変だな」
拓雄の呟きを聞きながら、睦月は空いている席に着いた。これであと一人、由希奈が登校すればクラス全員が揃うことになる。しかし、以前までの足の影響からか、彼女が来るのは始業の少し前になることが多かった。
「ちなみに……景気はどんな感じなんだ?」
「蓄えはあれど不定期、って感じですかね……」
時折、資産運用について話題に挙げる間柄にはなっていたので、睦月は拓雄からの質問にも、正直に答えた。
「今回も、商談が上手くいったとして……仕事口が増える可能性が上がる、ってだけですから」
「なるほど……どこかに就職すれば、定期収入には困らないんじゃないか?」
「性に合わないんですよ……」
拓雄の視線は、ブルーライトカットフィルムで覆われたノートPCの画面に釘付けになっている。空き時間の大半をデイトレードの為に、値動きの推移を見守る為に使っているからだ。しかし今は大きな動きがないので、こうして口だけでも、睦月との会話を続けていた。
「……昔から、そういうのはどうも」
そんなことを話していると、教師含めた(二人しかいない)女性陣が教室へと入って来た。時間的にも始業に近いからか、偶然同じタイミングで入室することになったのだろう。
「……おはようございます」
「おはよう~」
『おはよう(ございます)』
男性陣からの(一斉の)挨拶を受けながら担任の紅美は教壇に、そして……由希奈は拓雄の反対側、睦月を挟む形の席に腰掛けた。
「おはようございます」
改めて来た挨拶に、睦月は由希奈に向けて返す。
「……おはよう」
その様子を、他の大人達が無表情かつ微笑ましげに眺めていたことに……当事者達が気付くことはなかったが。
放課後になっても、すぐに商談の時間となるわけではない。
商談で使う資料を確認する為、睦月は一度駅前にあるチェーンの喫茶店へと来ていた。コーヒー片手に書類を数枚確認している様子を眺めながら、向かいの席に座った由希奈が遠慮がちに、話し掛けてきた。
「大丈夫そう、ですか……?」
「こればっかりは何とも……」
発達障害、とりわけASDの特性がある者であれば、極端な白黒思考を持つことが多い。
曖昧な表現を好まず、全ての物事を良し悪しだけで分けて考える傾向が強いのだ。そのせいで、相手からの評価でたとえ一度でも悪い点を挙げられてしまえば……いくら他に褒められる点があろうとも、否定的な思考に陥りやすくなってしまう。
強すぎる正義感や一意的な思想、とかではなく……曖昧に考えることが難しく、思考に柔軟さを持たせられないからだ。
国によっては『NO』とはっきり言う考え方を持っているので、さほど影響はないのだろうが……ここは世界一ともとれる、曖昧な言語が主流な日本だ。発達障害者にとっては住み辛い土台が、すでに出来上がってしまっている。
だから商談一つ、コミュニケーションの会話一つとっても誤解が生まれやすい。今日睦月が拓雄としたような、『互いが状況を理解している』場合でもなければおそらく、会話のどこかで齟齬が生まれていたことだろう。
「……まあ、営業なんてそんなもんだからな」
ある意味では、開き直りもまた、発達障害者にとっては扱いやすく有効な対処法の一つかもしれない。下手に否定的な思考で脳内を汚染される前に、『そんなもんだ』と割り切ってしまえば、存外どうにかなる。『事前に心配していた程ではなかった』という状況になることは、割と多いのだ。
問題は……自分がその考え方を受け入れられるかどうか、だが。
「こればかりはどうしようもない。やるだけやるさ」
「……睦月さんは、すごいですね」
カフェオレの入ったグラスを手に、由希奈は睦月を見つめながら、そう呟いてきた。
「私だったら、本当は関係ないはずなのに……同席するだけでも、ちょっと……怖い、です」
何を思ったのか、今回由希奈は、睦月と共に商談へと臨む形を取ることになってしまった。
本人は『後学の為』と、連絡を取り次いだだけだというのに、今日の商談に同席を願い出てきたのだ。しかし意外にも、姉の菜水からは許可が出て、中心となって商談をする旅行代理店の店長もまた、それを認めてしまった。
向こうの思惑は分からない。だが、他の列席者と同様に認めた睦月の考えとしては……先程由希奈が言った通り、『関係ない』の一言で済まされてしまう。
よほどのことがない限り、睦月が商談をする上で気にしなければならないのは先方の意向だ。由希奈がどうこう言おうとも、それでこちら側が不利にならなければ、問題にすらならなかった。
それでも案じてしまうのだろうか、由希奈の表情はどこか不安げだった。
「睦月さんは、同じ発達障害なのに……どうして平気なんですか?」
今回同席を願い出た理由は、それを知る為なのかもしれない。
以前みたいなアルバイトを何度も経験することも手だが、その度に不安や勇み足を重ねてしまえば、いずれ気持ちの方が折れてしまう。だからこそ、他の発達障害者がどう考えて行動しているのかを知ろうとしていると、睦月は考えていた。
「いや……俺のはただの慣れだ。多分参考にはならない」
けれども、睦月は由希奈の期待に応えることはできなかった。その代わりとばかりに、少しだけ、過去のことを話し始める。
「親父の後ろについて修行していた時に、何度も似たような状況を見てきた。それこそ商談から運転手同士の常套句……果ては商売敵相手への罵倒の数々だ」
一応人の眼も有るので言葉は伏せているが、由希奈もまた睦月の『状況を理解している』。だから言葉の意味を把握している前提で、さらに話が続いていく。
「たしかに最初は、話す言葉の一言ですら見様見真似だったよ。だから見当違いのことをほざいて揉め事を起こすなんてしょっちゅうだった。だけど……親父はそれを止めなかった」
「何故、ですか……?」
「『取り返せるうちに失敗しておかないと……本番で失敗した時に必ずしくじるから』、だとさ」
おかしな言葉だった。
仕事は失敗しないことが前提だと思っている由希奈にとって、それありきで物事を考えているような言葉に、少し混乱しているのか眉を顰めている。
しかし睦月は、それすらも分かっていたかのように、説明を補足した。
「前にも話しただろ? 結局は結果が全てなんだよ。だから相手の意向にさえ沿っていれば問題ないし……最後の最後で要望に応えられれば、途中の失敗を咎められることはない」
『愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ』、という言葉がある。
その言葉の通り、賢者は他人の経験からも学べるが……愚者は自ら失敗しなければ、何かを得ることはできない。
それこそ……『他者の経験』の学び方も、だ。
そして、睦月達を含めた人類の大半、いやそのほとんどが『愚者』に相当する。未だに戦争をはじめとした、人類の汚点が世界から無くならないのがいい証拠だった。
……だからこそ、人は一度でもいいから、取り返せる範囲で失敗しなければならない。
でなければ、生きている間に得られるのは……たった一人分の経験だけになってしまう。
そういう意味では、睦月は由希奈よりも恵まれていた。
父親が庇える範囲で、『失敗してはならない』という重圧も掛けられないまま……仕事で関わった人間全員の経験を学べたのだから。
「だから一線さえ越えなければ、案外どうとでもなるんだよ。失敗の取り返し方さえ分かっていれば……大なり小なり、本番でも適切に対処できるからな」
話している内に、時間が来てしまった。
最後にそう言い残してから書類を纏め、コーヒーを飲み干した睦月に合わせて、由希奈もまた立ち上がってくる。
会計を済ませて店を出た二人だが、ふと由希奈は、睦月に向けてあることを問い掛けてきた。
「……あの、睦月さん」
「ん?」
立ち止まろうかとも思ったが、時間を気にしてか、由希奈は足を進めている。そこに並びながら、睦月は彼女の言葉を待った。
「先程『一線さえ越えなければ、案外どうとでもなる』って言ってましたよね?」
「ああ……それがどうかしたか?」
何気なく放った言葉だが、何かおかしかったのかと悩む睦月に、由希奈はある疑問をぶつけてきた。
「何で…………『何ものにも縛られない蝙蝠』って、呼ばれているんですか?」
その時、由希奈はようやく、知りたいことが聞けたと思えてならなかった。
何故、まともに取り合おうとすらしないのに、そこまで一線に拘るのか?
何故、法律無用の犯罪者でもあるはずの睦月が、執拗なまでにその一線を気にするのか?
ある意味矛盾した考え方を持つ睦月に、由希奈はずっと疑問を抱いていた。
「ほとんど成り行きなんだけどな……」
そんな由希奈の問い掛けに、睦月はどう答えたものかと視線を彷徨わせている。
「まあ、結局のところ原因は……」
やがて、結論は出たらしいが……旅行代理店が見えてきたこともあってか、睦月はただ一言だけ、由希奈に告げてきた。
「……ただの自己保身だよ」
最初は、それが何を意味するのかが分からなかった。
だから由希奈が、その言葉の意味を理解したのは……少し先の未来で、だった。
興味・関心のあることであれば『過集中』状態になる程のめり込み、逆に意識が向かなければ、注意散漫となってしまう。一括りに発達障害で纏められるものではないが、日常生活に支障が出る点であれば、一番分かりやすい特徴だと言える。
だからこそ、睦月にとって『運び屋』は天職だった。案件ごとの規模が大きいので、スケジュール管理さえ間違えなければ、一つ一つに集中して取り組むことができる。
特に依頼内容が被ってなければ、しかも使用する機体が異なるのであれば……今の睦月ならば必ず完遂する。
「とはいえ、今日はただの営業だけどな……」
顔馴染みに対して仕事を求める既存営業とは違い、新規の顧客を開拓するのは、たとえ健常者であっても容易ではない。ただでさえ、初対面の相手と知り合うだけでも切っ掛けが必要となるのに、その上で自他が利益を上げられるよう宣伝しなければ、契約を結ぶことはできないからだ。
「今回は向こうから声を掛けてくれて助かったが……それでもまだ、話をするだけだ」
いきなり自社を宣伝しても、相手のニーズに対応してなければ意味がない。的外れな自慢話どころか、下手をすれば押し売りと同類になってしまう。
だから睦月は、今回は相手から依頼された状況だったとしても……新規開拓の営業を行うのが苦手だった。
普段は秀吉経由で知り合った人脈や、和音からの依頼をこなすことが多いだけに、営業の経験そのものが少ないからだ。ただでさえ、腕前を買われて仕事を依頼されることが多いだけに機会が少なく、むしろほぼないと言っても良かった。しかも、社長である睦月が雇っている社員は緘黙症持ちの姫香のみ。
二人揃えば話せなくなるので必然的に、睦月か姫香のどちらか片方が、営業の席に座らなければならなかった。
「ああ…………不安しかない」
話は数日前、姫香とのディナーデートに向かう前に遡る。
由希奈からの突然の電話。その用件は彼女の姉、菜水の勤め先絡みのものだった。
『……運転代行?』
『はい、旅行バスの運転手が不足しているみたいでして……緊急用の予備人員を何名か、確保しておきたいそうです』
公共交通機関が発達した現在では車を所有する人間は減り、さらには免許を取得する理由も少なくなってきた。おまけに由希奈の話を聞く限り、求められているのは『人を乗せて運び、運賃を貰う』ことを前提としている第二種免許所持者。ますます母数の少なくなる人材だった。
『お姉、……姉の勤めている旅行会社なんですが、『もし良ければ、話だけでもできませんか?』と代理店の店長さんから伝言を頼まれまして……』
『まあ、大型自動車第二種免許も持ってるし、可能といえば可能だけど……』
予備人員ということは、定期的な仕事ではないということだろう。普段の依頼と同様、相手の要望に応じた時に仕事をする形だ。しかも最悪、契約内容如何によってはただ同然に時間を奪われる可能性もある。
いくら仕事を探している最中とはいえ、簡単に請け負うことはできなかった。
『話は分かった。由希奈には悪いけど……こっちの連絡先を伝えるか、もしくは俺の代わりに先方の連絡先を聞いてくれないか? 『面会の約束を取り付けた上で、商談したい』って伝言と一緒に』
『分かりました。では姉に、そう伝えておきます』
レースと旅行会社の二件が重なり……その後の姫香とのデートでは、会話の大半が仕事になってしまった。
「それでも付き合ってくれるんだから……お前には頭が上がらないよ」
ここ最近は使う機会のなかったネクタイを結びながら、そうぼやく睦月。
そこに姫香の手が伸び、一度結んだはずのネクタイが結び直されてしまう。
「……そんなに下手か? 俺」
秀吉の下で修業していた時は顧客との対面が多かったので、その分服装には気を遣っていた。面倒なので礼服にも兼用できる黒のスーツで、ネクタイも単色。
だから睦月もよくネクタイを結んでいたのだが、姫香の基準では『落第』だったらしい。
その証拠に姫香は、右手を左腕に当てると、二の腕から肩の方に沿って跳ね上げてきた。
「【下手くそ】」
「悪かったな……」
仕事用のスーツに普段は使わない書類鞄、名刺入れ等の必要な小物類も揃えた。
「……今度練習するか」
後は商談に臨むだけだが……良い点と悪い点が一つずつ。
良い点は場所だった。
今回仕事を仲介してくれた由希奈の姉、菜水は以前、駅の中にある旅行代理店に勤務していた。妹のリハビリや進学も落ち着いてきたので、現在は元々務めていたそこの本社勤務に戻ってはいるが、それでも仕事上の繋がりは残っている。
その都合もあって、今回睦月に声を掛けてくれたのだろう。
だから商談を行う場所は、その駅中にある旅行代理店だった。仲介した手前、商談には菜水も同席するが、基本的にはそこの店長と話すことになっている。なので移動の手間はなく、自宅からでも徒歩で向かうことができた。
「さて……高校行くか」
悪い点は日時。
先方の都合により平日しか時間が取れず、しかも通信制高校の登校日と被ってしまったので下校後、直接旅行代理店へと向かわなければならない。
「面倒臭いが……まあ、生きてく為だ。仕方がない」
支度を終え、高校用の荷物を纏めた鞄も一緒に持ち上げた睦月は、デニム姿の姫香を伴って玄関を後にした。
学校生活というものは、独自の文化が生まれやすい。
狭い世界に未成熟な人間達が集う。そこでは常に、各家庭で築かれた各々の価値観の差異が溢れている。それらが重なることで、互いの考えをぶつけ合う機会が生まれてしまうのだ。
つまり学校生活とは、そのぶつかり合いの結果、構築された世界で暮らすことを指すのかもしれない。
「おはようございま~す」
そしてそれは、すでに社会人経験のある人間も混ざっている、通信制高校も例外ではなかった。
「おう、おはよう」
「おはよう荻野君」
先に来ていたクラスメイトは三人。最近凝っているのか、早めに来ては将棋を指している洋一と裕が、教室に入って来た睦月に挨拶を返してくる。
「……ああ、おはよう」
そのやりとりが耳に入ってようやく気付いたのか、少し離れたところで無骨なノートPCを操っていた拓雄も一度顔を上げ、睦月に挨拶してきた。
「今日は随分めかし込んでるな……デートか?」
「仕事ですよ。放課後に営業することになりまして……」
「……どこも大変だな」
拓雄の呟きを聞きながら、睦月は空いている席に着いた。これであと一人、由希奈が登校すればクラス全員が揃うことになる。しかし、以前までの足の影響からか、彼女が来るのは始業の少し前になることが多かった。
「ちなみに……景気はどんな感じなんだ?」
「蓄えはあれど不定期、って感じですかね……」
時折、資産運用について話題に挙げる間柄にはなっていたので、睦月は拓雄からの質問にも、正直に答えた。
「今回も、商談が上手くいったとして……仕事口が増える可能性が上がる、ってだけですから」
「なるほど……どこかに就職すれば、定期収入には困らないんじゃないか?」
「性に合わないんですよ……」
拓雄の視線は、ブルーライトカットフィルムで覆われたノートPCの画面に釘付けになっている。空き時間の大半をデイトレードの為に、値動きの推移を見守る為に使っているからだ。しかし今は大きな動きがないので、こうして口だけでも、睦月との会話を続けていた。
「……昔から、そういうのはどうも」
そんなことを話していると、教師含めた(二人しかいない)女性陣が教室へと入って来た。時間的にも始業に近いからか、偶然同じタイミングで入室することになったのだろう。
「……おはようございます」
「おはよう~」
『おはよう(ございます)』
男性陣からの(一斉の)挨拶を受けながら担任の紅美は教壇に、そして……由希奈は拓雄の反対側、睦月を挟む形の席に腰掛けた。
「おはようございます」
改めて来た挨拶に、睦月は由希奈に向けて返す。
「……おはよう」
その様子を、他の大人達が無表情かつ微笑ましげに眺めていたことに……当事者達が気付くことはなかったが。
放課後になっても、すぐに商談の時間となるわけではない。
商談で使う資料を確認する為、睦月は一度駅前にあるチェーンの喫茶店へと来ていた。コーヒー片手に書類を数枚確認している様子を眺めながら、向かいの席に座った由希奈が遠慮がちに、話し掛けてきた。
「大丈夫そう、ですか……?」
「こればっかりは何とも……」
発達障害、とりわけASDの特性がある者であれば、極端な白黒思考を持つことが多い。
曖昧な表現を好まず、全ての物事を良し悪しだけで分けて考える傾向が強いのだ。そのせいで、相手からの評価でたとえ一度でも悪い点を挙げられてしまえば……いくら他に褒められる点があろうとも、否定的な思考に陥りやすくなってしまう。
強すぎる正義感や一意的な思想、とかではなく……曖昧に考えることが難しく、思考に柔軟さを持たせられないからだ。
国によっては『NO』とはっきり言う考え方を持っているので、さほど影響はないのだろうが……ここは世界一ともとれる、曖昧な言語が主流な日本だ。発達障害者にとっては住み辛い土台が、すでに出来上がってしまっている。
だから商談一つ、コミュニケーションの会話一つとっても誤解が生まれやすい。今日睦月が拓雄としたような、『互いが状況を理解している』場合でもなければおそらく、会話のどこかで齟齬が生まれていたことだろう。
「……まあ、営業なんてそんなもんだからな」
ある意味では、開き直りもまた、発達障害者にとっては扱いやすく有効な対処法の一つかもしれない。下手に否定的な思考で脳内を汚染される前に、『そんなもんだ』と割り切ってしまえば、存外どうにかなる。『事前に心配していた程ではなかった』という状況になることは、割と多いのだ。
問題は……自分がその考え方を受け入れられるかどうか、だが。
「こればかりはどうしようもない。やるだけやるさ」
「……睦月さんは、すごいですね」
カフェオレの入ったグラスを手に、由希奈は睦月を見つめながら、そう呟いてきた。
「私だったら、本当は関係ないはずなのに……同席するだけでも、ちょっと……怖い、です」
何を思ったのか、今回由希奈は、睦月と共に商談へと臨む形を取ることになってしまった。
本人は『後学の為』と、連絡を取り次いだだけだというのに、今日の商談に同席を願い出てきたのだ。しかし意外にも、姉の菜水からは許可が出て、中心となって商談をする旅行代理店の店長もまた、それを認めてしまった。
向こうの思惑は分からない。だが、他の列席者と同様に認めた睦月の考えとしては……先程由希奈が言った通り、『関係ない』の一言で済まされてしまう。
よほどのことがない限り、睦月が商談をする上で気にしなければならないのは先方の意向だ。由希奈がどうこう言おうとも、それでこちら側が不利にならなければ、問題にすらならなかった。
それでも案じてしまうのだろうか、由希奈の表情はどこか不安げだった。
「睦月さんは、同じ発達障害なのに……どうして平気なんですか?」
今回同席を願い出た理由は、それを知る為なのかもしれない。
以前みたいなアルバイトを何度も経験することも手だが、その度に不安や勇み足を重ねてしまえば、いずれ気持ちの方が折れてしまう。だからこそ、他の発達障害者がどう考えて行動しているのかを知ろうとしていると、睦月は考えていた。
「いや……俺のはただの慣れだ。多分参考にはならない」
けれども、睦月は由希奈の期待に応えることはできなかった。その代わりとばかりに、少しだけ、過去のことを話し始める。
「親父の後ろについて修行していた時に、何度も似たような状況を見てきた。それこそ商談から運転手同士の常套句……果ては商売敵相手への罵倒の数々だ」
一応人の眼も有るので言葉は伏せているが、由希奈もまた睦月の『状況を理解している』。だから言葉の意味を把握している前提で、さらに話が続いていく。
「たしかに最初は、話す言葉の一言ですら見様見真似だったよ。だから見当違いのことをほざいて揉め事を起こすなんてしょっちゅうだった。だけど……親父はそれを止めなかった」
「何故、ですか……?」
「『取り返せるうちに失敗しておかないと……本番で失敗した時に必ずしくじるから』、だとさ」
おかしな言葉だった。
仕事は失敗しないことが前提だと思っている由希奈にとって、それありきで物事を考えているような言葉に、少し混乱しているのか眉を顰めている。
しかし睦月は、それすらも分かっていたかのように、説明を補足した。
「前にも話しただろ? 結局は結果が全てなんだよ。だから相手の意向にさえ沿っていれば問題ないし……最後の最後で要望に応えられれば、途中の失敗を咎められることはない」
『愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ』、という言葉がある。
その言葉の通り、賢者は他人の経験からも学べるが……愚者は自ら失敗しなければ、何かを得ることはできない。
それこそ……『他者の経験』の学び方も、だ。
そして、睦月達を含めた人類の大半、いやそのほとんどが『愚者』に相当する。未だに戦争をはじめとした、人類の汚点が世界から無くならないのがいい証拠だった。
……だからこそ、人は一度でもいいから、取り返せる範囲で失敗しなければならない。
でなければ、生きている間に得られるのは……たった一人分の経験だけになってしまう。
そういう意味では、睦月は由希奈よりも恵まれていた。
父親が庇える範囲で、『失敗してはならない』という重圧も掛けられないまま……仕事で関わった人間全員の経験を学べたのだから。
「だから一線さえ越えなければ、案外どうとでもなるんだよ。失敗の取り返し方さえ分かっていれば……大なり小なり、本番でも適切に対処できるからな」
話している内に、時間が来てしまった。
最後にそう言い残してから書類を纏め、コーヒーを飲み干した睦月に合わせて、由希奈もまた立ち上がってくる。
会計を済ませて店を出た二人だが、ふと由希奈は、睦月に向けてあることを問い掛けてきた。
「……あの、睦月さん」
「ん?」
立ち止まろうかとも思ったが、時間を気にしてか、由希奈は足を進めている。そこに並びながら、睦月は彼女の言葉を待った。
「先程『一線さえ越えなければ、案外どうとでもなる』って言ってましたよね?」
「ああ……それがどうかしたか?」
何気なく放った言葉だが、何かおかしかったのかと悩む睦月に、由希奈はある疑問をぶつけてきた。
「何で…………『何ものにも縛られない蝙蝠』って、呼ばれているんですか?」
その時、由希奈はようやく、知りたいことが聞けたと思えてならなかった。
何故、まともに取り合おうとすらしないのに、そこまで一線に拘るのか?
何故、法律無用の犯罪者でもあるはずの睦月が、執拗なまでにその一線を気にするのか?
ある意味矛盾した考え方を持つ睦月に、由希奈はずっと疑問を抱いていた。
「ほとんど成り行きなんだけどな……」
そんな由希奈の問い掛けに、睦月はどう答えたものかと視線を彷徨わせている。
「まあ、結局のところ原因は……」
やがて、結論は出たらしいが……旅行代理店が見えてきたこともあってか、睦月はただ一言だけ、由希奈に告げてきた。
「……ただの自己保身だよ」
最初は、それが何を意味するのかが分からなかった。
だから由希奈が、その言葉の意味を理解したのは……少し先の未来で、だった。
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