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076 走り屋共が夢の跡
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理沙が睦月と初めて会ったのは、『走り屋』のチームが根城にしていた、古びた五階建てビルの一室で、だった。
『……勇太、そいつは?』
『俺の義妹の理沙だ。よろしくな』
潰れた店舗が残されている四、五階の一つは、小さなクラブだった。かつては接客用として使われていたソファの一つに腰掛けていた睦月は、長髪をツインテールにした少女の肩に腕を回したまま、入って来た理沙達の方を向いてくる。
『義妹、ね……』
『睦月はすぐ、誰か忘れそうだけどね~』
同じくこちらを向いてきた少女はすぐに視線を切り、睦月を茶化しだした。
『ほっとけ。元々、人の顔を覚えるのが苦手なんだよ……』
『ただ自分の記憶力に自信がないだけでしょう。ちゃんと直しなさいよね……私と別れた後、どうするつもりよ?』
『……何とかなんだろ』
当時の睦月の彼女、續木絵美は出会った当初から、ずけずけとものを言うタイプだった。
それすらもいつものことなのか、睦月も勇太も、絵美の言動を気にする様子はなかった。
元々はクラブだったので、キャストが隣に腰を降ろしやすいU字型のソファがいくつも残されている。睦月と勇太、そして今はいない『偽造屋』で、それぞれが席を勝手に決めて独占していた。
その内の一つに座っている睦月達の向かい側に、理沙は勇太と並んで腰を降ろした。
『というか……もうすぐチームが解散するのに、わざわざ紹介する必要あるか?』
『チームじゃなくて、これからの営業の為だ……ところで創は?』
『作業場。今日は仕事があるんだと』
そう言った睦月はグラスを持ち、注いであるジンジャーエールに口を付けていた。
『ということは……他の連中もか?』
『そ。絵美もこの後、専門学校に用事だと』
それだけ聞くと、チームの集まりが悪くなったので解散するのだろうかと、理沙は思った。しかし今後の付き合いも視野に入れている為か、誰一人として解散に悲観的な様子はなかったが。
『何だ、せっかく近くに来たから顔を出したのに……仕方ない、日を改めるか』
『そうしてくれ。俺もこれからお楽しみ、っ!?』
『生理だから嫌』
本当か嘘かは知らないし興味もないが、少なくとも絵美は腕を抓って拒絶し、睦月はそれを無言で受け入れていた。
女にだらしなく、しかも尻に敷かれるままで非情に情けない。それが、理沙が睦月に対して、最初に抱いた印象だった。
手短に用事を済ませた勇太と共に、理沙はかつてのクラブを後にする。
『……口だけとかは?』
『睦月のって、大きいから疲れちゃうのよね……』
そんな会話や、事前に聞いていた睦月の職業。そして、当人の実力を知る機会がなかった為に……
……理沙は、彼を見縊ってしまった。
「…………」
季節により徐々に上向く気温とは違う、恐怖の記憶からくる冷や汗が、磨き抜かれた裸体を伝っていく。就寝時には何も身に着けない理沙は、ベッドの脇に置いた椅子の背もたれからタオルを取り、滑り気を帯びた寝汗を拭った。
「シャワーは……後でいいか」
起床後の、理沙の朝の習慣は決まっていた。
就寝中に不足した水分を摂り、朝の運動をする。シャワーはその後だ。でなければ二度手間になる。
「ふぅ……」
タオルを置き、同じく椅子の座面に置いていた下着を身に着けた理沙は、広過ぎて何もない部屋の中央に移動し、朝の戦闘訓練を開始した。
「…………」
眼前に向かい合うのは仮想敵。その場にはいないが、理沙は存在すると仮定し、身体を構えた。
想定するのは常に、自らよりも格上の相手……まだ勝利していない者に限られる。
「ぅん…………ふしゅっ!」
最初に拳を振るう。しかしいきなり、全力で打ち込むことなはい。
サンドバックでもあれば、そのまま打ち込み続けていただろうが……今はただの想定練習だ。次は拳ではなく肘、さらには足も合わせて、攻撃を組み立てていく。
ただ……それでもまだ、相手には届かない。
「ふぅ…………」
理沙自身も、理解していた。相手が久芳姫香であれば、同様の訓練を受けていたので、手の内は分かる。後は読み合いでも力任せでも、自力で先手を勝ち取ればいい。
実際、それで引き分けることはできた。
「……意味がない、か」
義兄である勇太から聞く限り、徒手空拳であればすでに理沙の方が上だ。けれども、眼前の仮想敵は、まずその土俵に立とうとすらしてこない。
相手が素手なら武器を。ナイフなら銃を。武装していれば人を雇うし、堅牢な要塞に立て籠もれば容赦なく兵糧攻めを行う。
一度目的を定めてしまえば、幾通りもの手段を考案し……過程を問わずに必ず成果を得る。
「仕方ない……またあいつにするか」
……相手が悪過ぎた。
だから理沙は、仮想敵を睦月から姫香へと切り替えた。
「ここも変わんないな……」
夕焼けに染まる五階建ての古びたビル。
かつては『走り屋』のチームで、四階の店を根城にしていたのだが……本来の持ち主は『偽造屋』だ。ビルの地下一階にあるバー『Alter』を仕事の受付にして、当人は作業場に引き籠っている。
開店した当初は勇太自身が通っていたのだが……今は別の人間を介して、依頼するようになった。仕事が忙しくなったとか、立場があるから、という理由もあるが……一番はやはり、ある男と出くわす可能性を考慮して、かもしれない。
「さて……あいつはもう来てるかな?」
相手は基本的に、時間前に用意を終えて周到に準備する質なので、もう来ていることだろう。
そう考えた勇太はビルの中に入り、普段は使われることのないエレベーターに乗り込む。『走り屋』時代であれば散々使っていたが、今では使う人間が少ないのかゴミはないものの、軽い埃や汚れ程度であれば放置しているようだった。店も開いておらず、ましてや上の階に用事のある人間は、もうほとんどいない。
適当なチンピラ辺りが乗り込んでいてもおかしくはないだろうが、大体は地下の営業中の店に目が行くので、逃げ込むか隠れ家を探す用途でなければ、まずここには来ないだろう。
(そしていつも、贔屓にして貰ってます……と)
目的の階に到着し、勇太はエレベーターから降りた。
廊下を進んですぐにある、元は潰れたクラブとして使われていた一室。
……かつての、勇太達の溜まり場だった。
勇太は躊躇うことなく中へと入り、すでに来ていた相手に驚くことなく、声を掛けた。
「やっぱり先に来てたか……睦月」
「…………ああ」
昔と同じ定位置、埃で汚れていたのを拭ってか、積もり方に差のあるソファに腰掛けた睦月は、ペットボトルのコーヒーを飲んでいた。
「なんだ、ジンジャーエールじゃないのか?」
「昔程、飲まなくなっただけだ。炭酸飲むとゲップとかして、様にならないしな……」
そこは一人で車に乗る『走り屋』と、誰かを乗せることが多い『運び屋』との違いなのかもしれない。ただ飽きただけかもしれないが、いつも飲んでいるものじゃないと個人的に違和感があったので、勇太は睦月にそう問い掛けただけだが。
「で、創はまた仕事か?」
「今回あいつも関わってたか? 地下の雇われ店長に根城の鍵預けてたから、今日は顔どころか声すら聞いてないんだが……」
「顔はともかく、声もか……多分寝てるな。あいつ」
普段から昼夜逆転生活を送っている相手だと知っているので、別段驚きはしない。
仕事自体は昼間の作業で問題ないのだが、夜職の人間に需要が多いからと、合わせて逆転してしまっているのだ。
「まあ、いい……頼まれていたやつは最後を除いて、全部用意した。車もいつ、引き取りに来ても問題ない」
「分かった。レース当日の一週間前に取りに行く」
依頼した日、睦月から受け取ったリストの大半は車に関することだった。必要な部品から細かいタイヤ等の位置調整、さらにはその車を運ぶ為の、鍵付きトラックの購入費用に当日の運転手の手配まで。おまけにレースの一週間前に車を取りに来るということは、極端に細工を警戒し、事前に確認する為だろう。
過去を思えば、仕方がないのかもしれないが……勇太に思惑があることは、すでに睦月に気付かれていると考えるのが自然だ。
「じゃあ、最後の仕上げといくか……」
……勇太は『掃除屋』だ。
職業病とも言うべきか、現場の汚れ具合を見れば大体の状況を把握することができる。
「居るんだろう…………英治」
エレベーターに乗った際、埃の積もり具合から二人の人間が移動に使ったことは、すぐに分かった。このビルの所有者である創には会っておらず、睦月の話が本当ならば、ここには他に誰も来ていない。今日ここで話すことになったのも、事前に予定していた最後の手配――いざという時の、睦月側の護衛役を雇う打ち合わせの為だ。
「……久し振りだな、勇太」
勇太の発言が正解だとばかりに、英治は物陰から出て来た。
気配を感じて振り向いた視界の端で、英治が右手をレッグホルスターに納めた回転式拳銃の銃床に載せているのを確認した後、勇太は再び睦月の方を向いた。
昨日『表』稼業で営業していても、それで翌日が休みになるわけではない。
鍵の都合で地下一階に人が入るギリギリのタイミング、バー開店前の夕暮れ時に、睦月は勇太と打ち合わせをすることにした。
……事前に貸しのある、英治を護衛にして。
「ずっと、引っ掛かってたんだよ……」
勇太の視線は、英治を確認した後はずっと、睦月から逸れることはない。その為、無防備に背中を見せた状態になっている。だから二人に挟まれた時点で、相手に逃げ道はなかった。
膠着状態になることを読んでいた睦月は、ペットボトルの蓋を閉めてからテーブルの上に置き、改めて勇太に話し掛ける。
「『何で指定された車じゃなきゃ駄目なのか?』、ってな。 相手が『犯罪組織』だろうと、所詮は車両規定なしのストリートレースだ……車も込みで、俺に依頼すればいいだけの話じゃないのか?」
勇太は『掃除屋』であり、『運び屋』以上に車の知識があるわけではない。むしろ、整備士を担当していた『偽造屋』の方が詳しい位だ。
それでも勇太は、車を指定した上で『レースに勝て』と依頼をしてきた。と、いうことは……機体そのものが目的だと考えるのが自然だ。
「そうなると、真っ先に気にするべきは…………昔の伝手だ」
依頼された日、睦月は『古巣』からの依頼かと問い掛けたが、勇太は『昔の伝手』としか、答えなかった。
最初は古巣のことを『ストリートレーサーの溜まり場』かと思っていた睦月だったが、もし勇太が故意に、昔の伝手の解釈を換えていたのであれば……話はまるで違ってくる。
だから睦月は、昨日の営業帰りに商店街へと立ち寄り、『傭兵』に声を掛けたのだ。以前の買い出しの時の貸しを使い、護衛役として仕事を依頼する為に。
すぐに殺す理由も必要もないので、安い貸しを清算するには丁度良かった、というのもあるが。
「まったく……事前に呼んどいてくれれば、手間も省けたのに」
「だから、都合良く考えるなっての」
前回の時に、英治と会えなかったことを言及してくる勇太。無論、その時は挨拶だけで終わらせるつもりはなかったのだろう。
しかし、そんなことは睦月には関係ない。
「そろそろ話せよ……本当の目的、ってやつをな」
ペットボトルを持っていた手が、懐に伸びる。無論、そこには睦月の自動拳銃が、ホルスターの中で眠っていた。
二人掛かり、しかも『傭兵』に背中を取られた状態の勇太に、抗う術はない。おまけに、ここに英治が居るということは……
「そうだな。役者も揃ったから良いタイミングだし……何より、」
きっさまぁああああ……と、どこかから、甲高い少女の叫び声が飛んでくる。
「……理沙がお前んとこの女と戦り合ってんのを、早く止めないといけないしな」
「だから嫌なんだよ、勇太と組むの。信用以前に、色気のない女同士の取っ組み合いなんて、誰が見たいんだよ……」
「女性陣にとっても、いい迷惑だろうな……」
この場に英治の連れが居なくて良かったとでも考えているのか、勇太の後ろでは簡単に事情を聞いていた英治が、呆れたように溜息を吐いている。
「じゃあ、要点だけさっさと伝えるか……」
いまさら両手を挙げるような真似をせず、勇太は腰に手を当ててから答えてきた。
「……今回の依頼人と、その目的をな」
勇太からの話を聞き終えた後……睦月は思わず、天を仰いでしまった。
一方、ビルの外のすぐ裏手では……
「だから貴様っ! 何で初手が毎回バックドロップなんだっ!?」
感情的な引っ掻き合いではなく、本気の肉弾戦が繰り広げられていた。
それぞれ、伏兵として待機させられてはいたものの……侵入箇所が限られてしまえば、必然的にかち合ってしまう。
「相変わらず元気だな~、この娘達……」
その様子を、少し離れたところで開店前の煙草休憩をしながら、バー『Alter』の雇われ店長こと抽冬淳は、特段気負うことなく眺めていた。
『……勇太、そいつは?』
『俺の義妹の理沙だ。よろしくな』
潰れた店舗が残されている四、五階の一つは、小さなクラブだった。かつては接客用として使われていたソファの一つに腰掛けていた睦月は、長髪をツインテールにした少女の肩に腕を回したまま、入って来た理沙達の方を向いてくる。
『義妹、ね……』
『睦月はすぐ、誰か忘れそうだけどね~』
同じくこちらを向いてきた少女はすぐに視線を切り、睦月を茶化しだした。
『ほっとけ。元々、人の顔を覚えるのが苦手なんだよ……』
『ただ自分の記憶力に自信がないだけでしょう。ちゃんと直しなさいよね……私と別れた後、どうするつもりよ?』
『……何とかなんだろ』
当時の睦月の彼女、續木絵美は出会った当初から、ずけずけとものを言うタイプだった。
それすらもいつものことなのか、睦月も勇太も、絵美の言動を気にする様子はなかった。
元々はクラブだったので、キャストが隣に腰を降ろしやすいU字型のソファがいくつも残されている。睦月と勇太、そして今はいない『偽造屋』で、それぞれが席を勝手に決めて独占していた。
その内の一つに座っている睦月達の向かい側に、理沙は勇太と並んで腰を降ろした。
『というか……もうすぐチームが解散するのに、わざわざ紹介する必要あるか?』
『チームじゃなくて、これからの営業の為だ……ところで創は?』
『作業場。今日は仕事があるんだと』
そう言った睦月はグラスを持ち、注いであるジンジャーエールに口を付けていた。
『ということは……他の連中もか?』
『そ。絵美もこの後、専門学校に用事だと』
それだけ聞くと、チームの集まりが悪くなったので解散するのだろうかと、理沙は思った。しかし今後の付き合いも視野に入れている為か、誰一人として解散に悲観的な様子はなかったが。
『何だ、せっかく近くに来たから顔を出したのに……仕方ない、日を改めるか』
『そうしてくれ。俺もこれからお楽しみ、っ!?』
『生理だから嫌』
本当か嘘かは知らないし興味もないが、少なくとも絵美は腕を抓って拒絶し、睦月はそれを無言で受け入れていた。
女にだらしなく、しかも尻に敷かれるままで非情に情けない。それが、理沙が睦月に対して、最初に抱いた印象だった。
手短に用事を済ませた勇太と共に、理沙はかつてのクラブを後にする。
『……口だけとかは?』
『睦月のって、大きいから疲れちゃうのよね……』
そんな会話や、事前に聞いていた睦月の職業。そして、当人の実力を知る機会がなかった為に……
……理沙は、彼を見縊ってしまった。
「…………」
季節により徐々に上向く気温とは違う、恐怖の記憶からくる冷や汗が、磨き抜かれた裸体を伝っていく。就寝時には何も身に着けない理沙は、ベッドの脇に置いた椅子の背もたれからタオルを取り、滑り気を帯びた寝汗を拭った。
「シャワーは……後でいいか」
起床後の、理沙の朝の習慣は決まっていた。
就寝中に不足した水分を摂り、朝の運動をする。シャワーはその後だ。でなければ二度手間になる。
「ふぅ……」
タオルを置き、同じく椅子の座面に置いていた下着を身に着けた理沙は、広過ぎて何もない部屋の中央に移動し、朝の戦闘訓練を開始した。
「…………」
眼前に向かい合うのは仮想敵。その場にはいないが、理沙は存在すると仮定し、身体を構えた。
想定するのは常に、自らよりも格上の相手……まだ勝利していない者に限られる。
「ぅん…………ふしゅっ!」
最初に拳を振るう。しかしいきなり、全力で打ち込むことなはい。
サンドバックでもあれば、そのまま打ち込み続けていただろうが……今はただの想定練習だ。次は拳ではなく肘、さらには足も合わせて、攻撃を組み立てていく。
ただ……それでもまだ、相手には届かない。
「ふぅ…………」
理沙自身も、理解していた。相手が久芳姫香であれば、同様の訓練を受けていたので、手の内は分かる。後は読み合いでも力任せでも、自力で先手を勝ち取ればいい。
実際、それで引き分けることはできた。
「……意味がない、か」
義兄である勇太から聞く限り、徒手空拳であればすでに理沙の方が上だ。けれども、眼前の仮想敵は、まずその土俵に立とうとすらしてこない。
相手が素手なら武器を。ナイフなら銃を。武装していれば人を雇うし、堅牢な要塞に立て籠もれば容赦なく兵糧攻めを行う。
一度目的を定めてしまえば、幾通りもの手段を考案し……過程を問わずに必ず成果を得る。
「仕方ない……またあいつにするか」
……相手が悪過ぎた。
だから理沙は、仮想敵を睦月から姫香へと切り替えた。
「ここも変わんないな……」
夕焼けに染まる五階建ての古びたビル。
かつては『走り屋』のチームで、四階の店を根城にしていたのだが……本来の持ち主は『偽造屋』だ。ビルの地下一階にあるバー『Alter』を仕事の受付にして、当人は作業場に引き籠っている。
開店した当初は勇太自身が通っていたのだが……今は別の人間を介して、依頼するようになった。仕事が忙しくなったとか、立場があるから、という理由もあるが……一番はやはり、ある男と出くわす可能性を考慮して、かもしれない。
「さて……あいつはもう来てるかな?」
相手は基本的に、時間前に用意を終えて周到に準備する質なので、もう来ていることだろう。
そう考えた勇太はビルの中に入り、普段は使われることのないエレベーターに乗り込む。『走り屋』時代であれば散々使っていたが、今では使う人間が少ないのかゴミはないものの、軽い埃や汚れ程度であれば放置しているようだった。店も開いておらず、ましてや上の階に用事のある人間は、もうほとんどいない。
適当なチンピラ辺りが乗り込んでいてもおかしくはないだろうが、大体は地下の営業中の店に目が行くので、逃げ込むか隠れ家を探す用途でなければ、まずここには来ないだろう。
(そしていつも、贔屓にして貰ってます……と)
目的の階に到着し、勇太はエレベーターから降りた。
廊下を進んですぐにある、元は潰れたクラブとして使われていた一室。
……かつての、勇太達の溜まり場だった。
勇太は躊躇うことなく中へと入り、すでに来ていた相手に驚くことなく、声を掛けた。
「やっぱり先に来てたか……睦月」
「…………ああ」
昔と同じ定位置、埃で汚れていたのを拭ってか、積もり方に差のあるソファに腰掛けた睦月は、ペットボトルのコーヒーを飲んでいた。
「なんだ、ジンジャーエールじゃないのか?」
「昔程、飲まなくなっただけだ。炭酸飲むとゲップとかして、様にならないしな……」
そこは一人で車に乗る『走り屋』と、誰かを乗せることが多い『運び屋』との違いなのかもしれない。ただ飽きただけかもしれないが、いつも飲んでいるものじゃないと個人的に違和感があったので、勇太は睦月にそう問い掛けただけだが。
「で、創はまた仕事か?」
「今回あいつも関わってたか? 地下の雇われ店長に根城の鍵預けてたから、今日は顔どころか声すら聞いてないんだが……」
「顔はともかく、声もか……多分寝てるな。あいつ」
普段から昼夜逆転生活を送っている相手だと知っているので、別段驚きはしない。
仕事自体は昼間の作業で問題ないのだが、夜職の人間に需要が多いからと、合わせて逆転してしまっているのだ。
「まあ、いい……頼まれていたやつは最後を除いて、全部用意した。車もいつ、引き取りに来ても問題ない」
「分かった。レース当日の一週間前に取りに行く」
依頼した日、睦月から受け取ったリストの大半は車に関することだった。必要な部品から細かいタイヤ等の位置調整、さらにはその車を運ぶ為の、鍵付きトラックの購入費用に当日の運転手の手配まで。おまけにレースの一週間前に車を取りに来るということは、極端に細工を警戒し、事前に確認する為だろう。
過去を思えば、仕方がないのかもしれないが……勇太に思惑があることは、すでに睦月に気付かれていると考えるのが自然だ。
「じゃあ、最後の仕上げといくか……」
……勇太は『掃除屋』だ。
職業病とも言うべきか、現場の汚れ具合を見れば大体の状況を把握することができる。
「居るんだろう…………英治」
エレベーターに乗った際、埃の積もり具合から二人の人間が移動に使ったことは、すぐに分かった。このビルの所有者である創には会っておらず、睦月の話が本当ならば、ここには他に誰も来ていない。今日ここで話すことになったのも、事前に予定していた最後の手配――いざという時の、睦月側の護衛役を雇う打ち合わせの為だ。
「……久し振りだな、勇太」
勇太の発言が正解だとばかりに、英治は物陰から出て来た。
気配を感じて振り向いた視界の端で、英治が右手をレッグホルスターに納めた回転式拳銃の銃床に載せているのを確認した後、勇太は再び睦月の方を向いた。
昨日『表』稼業で営業していても、それで翌日が休みになるわけではない。
鍵の都合で地下一階に人が入るギリギリのタイミング、バー開店前の夕暮れ時に、睦月は勇太と打ち合わせをすることにした。
……事前に貸しのある、英治を護衛にして。
「ずっと、引っ掛かってたんだよ……」
勇太の視線は、英治を確認した後はずっと、睦月から逸れることはない。その為、無防備に背中を見せた状態になっている。だから二人に挟まれた時点で、相手に逃げ道はなかった。
膠着状態になることを読んでいた睦月は、ペットボトルの蓋を閉めてからテーブルの上に置き、改めて勇太に話し掛ける。
「『何で指定された車じゃなきゃ駄目なのか?』、ってな。 相手が『犯罪組織』だろうと、所詮は車両規定なしのストリートレースだ……車も込みで、俺に依頼すればいいだけの話じゃないのか?」
勇太は『掃除屋』であり、『運び屋』以上に車の知識があるわけではない。むしろ、整備士を担当していた『偽造屋』の方が詳しい位だ。
それでも勇太は、車を指定した上で『レースに勝て』と依頼をしてきた。と、いうことは……機体そのものが目的だと考えるのが自然だ。
「そうなると、真っ先に気にするべきは…………昔の伝手だ」
依頼された日、睦月は『古巣』からの依頼かと問い掛けたが、勇太は『昔の伝手』としか、答えなかった。
最初は古巣のことを『ストリートレーサーの溜まり場』かと思っていた睦月だったが、もし勇太が故意に、昔の伝手の解釈を換えていたのであれば……話はまるで違ってくる。
だから睦月は、昨日の営業帰りに商店街へと立ち寄り、『傭兵』に声を掛けたのだ。以前の買い出しの時の貸しを使い、護衛役として仕事を依頼する為に。
すぐに殺す理由も必要もないので、安い貸しを清算するには丁度良かった、というのもあるが。
「まったく……事前に呼んどいてくれれば、手間も省けたのに」
「だから、都合良く考えるなっての」
前回の時に、英治と会えなかったことを言及してくる勇太。無論、その時は挨拶だけで終わらせるつもりはなかったのだろう。
しかし、そんなことは睦月には関係ない。
「そろそろ話せよ……本当の目的、ってやつをな」
ペットボトルを持っていた手が、懐に伸びる。無論、そこには睦月の自動拳銃が、ホルスターの中で眠っていた。
二人掛かり、しかも『傭兵』に背中を取られた状態の勇太に、抗う術はない。おまけに、ここに英治が居るということは……
「そうだな。役者も揃ったから良いタイミングだし……何より、」
きっさまぁああああ……と、どこかから、甲高い少女の叫び声が飛んでくる。
「……理沙がお前んとこの女と戦り合ってんのを、早く止めないといけないしな」
「だから嫌なんだよ、勇太と組むの。信用以前に、色気のない女同士の取っ組み合いなんて、誰が見たいんだよ……」
「女性陣にとっても、いい迷惑だろうな……」
この場に英治の連れが居なくて良かったとでも考えているのか、勇太の後ろでは簡単に事情を聞いていた英治が、呆れたように溜息を吐いている。
「じゃあ、要点だけさっさと伝えるか……」
いまさら両手を挙げるような真似をせず、勇太は腰に手を当ててから答えてきた。
「……今回の依頼人と、その目的をな」
勇太からの話を聞き終えた後……睦月は思わず、天を仰いでしまった。
一方、ビルの外のすぐ裏手では……
「だから貴様っ! 何で初手が毎回バックドロップなんだっ!?」
感情的な引っ掻き合いではなく、本気の肉弾戦が繰り広げられていた。
それぞれ、伏兵として待機させられてはいたものの……侵入箇所が限られてしまえば、必然的にかち合ってしまう。
「相変わらず元気だな~、この娘達……」
その様子を、少し離れたところで開店前の煙草休憩をしながら、バー『Alter』の雇われ店長こと抽冬淳は、特段気負うことなく眺めていた。
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