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109 夏休みを有意義にする為には(その2)
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――ガラッ
「いや、失礼。みっともないところを見せてしまい……」
「大丈夫ですよ。俺もバイトしていた時に、似たような手合いによく出くわしましたし」
「同じく……」
洋一と共に戻ってきた裕に、睦月と拓雄は続けざまに答えた。あまり気を遣わせるのもどうかと考え、間を空けずについ、経験談を話し出してしまう。
「個人的な考えにはなりますけど……その手合いは話が通じないって、最初から割り切った方が早いですよ」
職業柄、様々な手合いと顔を合わせることの多かった睦月は、裕をはじめとした面々に、そう持論を述べた。
「精神的な問題以前に、一人で行動していた時間が長すぎる分、そういう人間は大体共感力が低いんですよ」
人間が意思疎通を量る際に、重要だと言われているものの一つが、共感力である。論理的な理解ではなく、相手がどう思っているかの感情を推し量る為の能力だ。
人間が理屈ではなく、感情を優先させてしまいやすい生き物だとしても、相手の思考を精密に忖度できるわけではない。ましてや、違う個体同士で価値観を合わせることは難しいだろう。
話し合いで物事が解決できない主な原因は、お互いの価値観がずれた状態で強引に行ってしまうからだ。
その価値観を擦り合わせる為に、相手の思考や感情を推し量る共感力が互いに必要となるのだが……哀しいことに、それは相手の気持ちを理解できなければ意味がない。だからこそ、あらゆる力で分かりやすく、物事を解決しようと企てる者が後を絶たないのだ。
「バイト先に派遣会社の社員もよく来ていましたけれど……ただ漠然と大学を卒業した人程、共感力が低い場合が多かったですね。まあ、未だに高学歴な考えが根付いてる社会なのに、多くの企業から選考の段階で弾かれてるんですから、価値観が違い過ぎるのは当たり前なんですけどね」
「本来なら、学校等の集団生活で『協調性』を身に付けながら共感力も高めていくはずが……好成績に高学歴、有名学校への入学が人生の社会的地位だと考えている人間は多く、今も増え続けている。その結果、目的が完全に逸れてしまい、共感力の低い人間があちこちに生まれてしまった」
睦月の説明に拓雄も、こればかりは仕方ないと肯定の意を示してきた。
「『力で解決しよう』とも『話し合いで解決しよう』とも、価値観を押し付け合うのなら同列で意味がない。相手の気持ちを理解しようと努力するべきだが、お互いが『努力したい』と思えるようにならない限り……気持ちの擦れ違いと争いは、今後も続いていくだろうな」
由希奈は純粋に聞いているようだが、本職だと疑いを持っている面々は睦月を含めて、拓雄の言葉の重みを実感していた。
(結局……まったく同じ人間が居ないから、こうなるんだよな)
とはいえ、互いの価値観を擦り合わせようと努力さえできれば、共感力は自然と高まってくる。要は、相手を受け入れられるかどうかだ。現に、意思疎通を量ることに失敗した者の中にも、自省して変わろうと努力する人間だっている。
けれども、かつて睦月が『背負う価値もない命』と断じた者が……努力を放棄した愚者達が居ることも、また事実だった。
「けど……結構、楽な部分も有りますよ?」
腰掛けたまま腕を組む拓雄が振り向いてきた後、睦月は改めて口を開いた。
「共感力の低い相手程、孤立主義で意思疎通を最低限で済ませる場合が多いですからね。しっかり報連相しながら働いて、かつ余計な口さえ叩いてこなければ……コミュ障気味な俺には結構、付き合いやすかったりしますから」
しかし、その余計な口が揉め事の原因だと気付ける人間はいったい、何人いるのだろうか? むしろ……そこに着目できるかが、共感力の高低を判断する材料なのかもしれない。
「前から偶に、思ってたんだけど……」
そこで、この教室で六つ目の声……成績通知表を配布した担任の紅美が、口を挟んできた。
「……この教室に担任、必要?」
『いや職務放棄っ!』
たしかに、生徒間で問題を解決してしまっているが……その揉め事が拗れた時に必要なのが、教師という仲裁役である。その部分は忘れないでいただきたい。
「見守ることも立派な仕事だから、な?」
「はい…………」
生徒に担任が諭されるという……ある意味情けない光景もまた、この教室での一幕だと皆が考える中、終業式は終了した。
下校後、担任の紅美を含めた成人クラスの面々は、二手に分かれた。
一組は紅美の退勤を待ってから、裕のストレス発散も兼ねて痛飲に。もう一組である由希奈は睦月に連れられて、階下の喫茶店へと足を運んでいた。
「彩未から聞いたんだが……裏社会の住人になって、どうする気だ?」
「あれから、色々と考えました……」
最初はただ、免許を取得すればいいと考えていた。
『それで最低限だぞ?』
そう言われたことを後々になって思い出し、何が必要なのかを自分なりに考えてみた結果……真っ先に思い浮かんだのは、睦月の為に運んだ銃器類の入った鞄だった。
「私には……身を守る術が、ありません」
もし、揉め事に巻き込まれた際、自分は自分の身を守れるのだろうか?
睦月も姫香も、場合によっては助けてくれるかもしれないが……自分から危険に飛び込むのであれば、甘えていられない。だから由希奈は、裏社会の住人になる方法を彩未に相談した。
結果的には先送りとなり……今日、睦月に呼び出されてしまったわけだが。
「だから……裏社会の住人になる方法を、彩未に聞いたのか」
「はい、甘えたく……縋りたく、ありませんから」
由希奈には厳しいかもしれないし、単なる我儘なのかもしれない。
それでも、由希奈にとっては必要なことだからこそ……最初は同じ素人だった彩未に相談したのだ。
「だから夏休みの内に、身に付けたいんです。免許と一緒に……その、方法を」
「…………」
睦月は一度、アイスコーヒーを口に流し込んでから……少しだけ、目を閉じてしまった。
(さて……どう答えたものか)
再び瞼を開いた時、視界が横に長く感じた。しかしすぐ、単に目を細めているだけだと、睦月は気付いた。
「まず確認なんだが……由希奈はまず、何がしたい?」
「え、あの……だから、睦月さん達と一緒に、」
「何の仕事をしたいか? そう聞いているんだ」
少し、厳しい物言いになってしまっている自覚はある。
それでも、由希奈が抱えている漠然とした悩みは、睦月にも経験のあることだ。だからこそ、はっきりさせておく必要があった。
「前に、話したことがあったよな? 勝手に仕事を請けて、親父と揉めた時の話を」
「は、はい……」
「……今の由希奈は多分、その時の俺に近い悩みを抱えている」
自分の身を守る。その考え自体は正しい。社会の表裏を問わず、必要となってくる。
……問題なのは、その方法だ。
「『前提条件と優先順位――依頼を達成する為の絶対条件を忘れるな』と言われるまで、俺はやり方にも拘ってしまっていたが……由希奈の場合は、やり方自体が分からないと思っている。ここまでは、合っているか?」
「…………はい」
だから由希奈は、裏社会の住人になる方法という、どう解答すればいいのかが分かり辛い質問しか、できずにいる。少なくとも睦月は、そう考えていた。
「いい機会だから……夏休みの内に一度、なりたい職業について考えた方がいいんじゃないか?」
「え、それって……」
「……別に、由希奈の考えを拒絶しようとか、そういうものじゃない」
怯えている由希奈に対して首を振るものの、睦月にとっては本当に一度、全てを忘れた状態で考えるべきだと思っている。
将来……後悔しない為にも。
「こいつは俺の持論だが……どんな職業にも貴賤は有る。何の罪もない人間を犠牲にしているかどうか、だ」
法を犯す、だけでは物足りない。たとえ抜け道を掻い潜ってでも、望むのであれば自ら進んで卑しく、誰かの人生を貪ろうとする。自覚があろうとなかろうと、それが卑賎な者の真理だ。
その一点こそが、職業の貴賤を決める基準だと、睦月は考えていた。
「働き方次第で、その気になれば誰でも法を犯せるんだ。相手の尊厳を踏み躙った時点で、どんな真っ当な職業だろうと……そこらの破落戸と同じになってしまう」
薬も量を間違えれば、毒へと変わる。目的の為に手段を選ばないダークヒーローが持て囃されるのは、犠牲になるのが悪人だからに過ぎない。もし被害者が善人、ないしは無関係な一般人だとすれば……ただの悪役へと成り下がる。
その成れの果てが……本当の意味での、裏社会の住人なのだろう。
「実際、彩未もただの大学生だったけど……専攻している情報科学を武器にして、今の立場を得た。大事なのは、自分が何をしたいか? それだけなんだよ」
そういえば、と前置きした上で、睦月は由希奈に問い掛けた。
「高校を卒業した後は、どうするつもりだったんだ?」
「……いいえ」
首を横に振り、由希奈は静かに答えて来た。
「ただ漠然と、大学に進むつもりでした」
それを恥ずかしいとでも思っているのか、由希奈は徐々に顔を伏せようとしている。だから睦月は、意識的に口調を元に戻そうと一息吐いてから、ゆっくりと話し掛けた。
「別に、気にする必要もないだろう。やりたいことが見つかっていない人間にとっては、それを探す為に進学することもある。それが普通だ」
睦月自身もまた、『家業を継ぐ』程度の理由をきっかけにして『運び屋』の道を選び、現在に至っている。結局のところ、最後に自分が納得して進められれば、それでいいのだ。
「だからまず、進路から考えてみたらどうだ? 自分に何ができるのか、自分が何をしたいのか……それを知ってからでも、生き方を決めるのは遅くない」
結果、由希奈が睦月の元を選ばない可能性もある。しかし、それでも良かった。
「……分かりました」
大事なのは……由希奈自身の、気持ちなのだから。
高校と大学では、長期休暇の時期がずれている。地域や同列の学校でも統一されているわけではないのだから、教育機関が違えば夏休みの開始日も必然的に変わってくる。
そして当然……試験の時期も、ずれてしまうことになるのだ。
「姫香ちゃん、ここの訳教えて、」
「『ただデータ化することだけを考えればいいわけじゃない。組織に有益なデジタル手段を構築することが重要である』ことにいいかげん気付け、この間抜け」
「……最後は絶対要らないでしょう? 特に『間抜け』の部分」
彩未とて全部ではないものの、大まかな日本語訳は感覚で理解していた。その上で、自分より格上の語学力を持つ姫香に確認として聞いているのだが……終始この有様である。
「そもそも英語なんて、大まかに合っていれば普通に通じるのよ。教科書通りの訳しかできない教員にでも当たらない限り、今の彩未なら問題ないんじゃない?」
「日常会話での試験はともかく……専門的な論文だと、そうもいかないんだよね~」
愚痴だと分かりつつも、向かいに腰掛けて『スッポン』用の餌を作っている姫香に対して、彩未はそう返した。
「日本人だって、日本語の論文でもけっこう誤用してるじゃん。英語圏の人間も同じように、英語の論文で普通に誤用してるし。それが学生ならなおさら……むしろ、英語圏以外の人の英論文の方が、綺麗に訳しやすいよ?」
「……綺麗に翻訳サイトで変換しやすい、じゃなくて?」
「正しいかどうかの判断位はできますぅ~!」
開き直った彩未に対して、姫香は興味を無くしたかのように餌作りを終わらせ、道具を片付け始めていた。
「えっと次は、…………ん?」
ふと、姫香の声が途絶えていることに気付いた。今は黙って勉強していたので、またスマホでも覗き込んでいるのかと思っていたのだが……彼女は彩未の目の前で黙って立ち上がると、そのまま玄関の方へと歩いて行った。
「ああ……帰って来たんだ」
自身にはその経験がないので、緘黙症の詳細については分からないものの……姫香が話せなくなる条件は知っている。その状況を見て、彩未は家主が帰ってきたことに、ようやく気付いた。
(にしても……)
――ガチャ
「ただいま。あ~……疲れた」
帰宅した睦月に対して、手話で『お帰りなさい』と伝える姫香の後ろ姿を見つめていた彩未は、次第にその視線を、彼女のVネックワンピースのスカートの端にまで降ろした。
(姫香ちゃんに尻尾があったら……スカートが捲れる程、激しく揺れてないかな?)
「彩未も来てたのか……彩未? どうかしたのか?」
「ん? ……ああ、ごめんごめん。お邪魔してま~す」
中に入って来た睦月に挨拶してから、ちょっと気になることができた彩未は、指を動かして耳を近づけるように指示した。
「どうした?」
「あのさ、睦月君……」
訝しげな眼で見てくる姫香には聞こえないよう気を付けながら、彩未は睦月に問い掛けた。
「姫香ちゃんってさ…………犬と猫、どっちだと思う?」
「……お前何言ってんだ?」
一瞬、何を言われたのかが分からなかった為か、睦月は本気で首を傾げていた。
後程、彩未の質問の意図を把握した睦月は、姫香についてこう答えた。
「どちらかといえば、ギリギリ犬だけど……(赤)色のイメージが強すぎて、他の動物の方が似合いそうな気がする」
「あ~……たしかに」
姫香に対する陰口になりかねないで、二人の話はこの辺で。
「いや、失礼。みっともないところを見せてしまい……」
「大丈夫ですよ。俺もバイトしていた時に、似たような手合いによく出くわしましたし」
「同じく……」
洋一と共に戻ってきた裕に、睦月と拓雄は続けざまに答えた。あまり気を遣わせるのもどうかと考え、間を空けずについ、経験談を話し出してしまう。
「個人的な考えにはなりますけど……その手合いは話が通じないって、最初から割り切った方が早いですよ」
職業柄、様々な手合いと顔を合わせることの多かった睦月は、裕をはじめとした面々に、そう持論を述べた。
「精神的な問題以前に、一人で行動していた時間が長すぎる分、そういう人間は大体共感力が低いんですよ」
人間が意思疎通を量る際に、重要だと言われているものの一つが、共感力である。論理的な理解ではなく、相手がどう思っているかの感情を推し量る為の能力だ。
人間が理屈ではなく、感情を優先させてしまいやすい生き物だとしても、相手の思考を精密に忖度できるわけではない。ましてや、違う個体同士で価値観を合わせることは難しいだろう。
話し合いで物事が解決できない主な原因は、お互いの価値観がずれた状態で強引に行ってしまうからだ。
その価値観を擦り合わせる為に、相手の思考や感情を推し量る共感力が互いに必要となるのだが……哀しいことに、それは相手の気持ちを理解できなければ意味がない。だからこそ、あらゆる力で分かりやすく、物事を解決しようと企てる者が後を絶たないのだ。
「バイト先に派遣会社の社員もよく来ていましたけれど……ただ漠然と大学を卒業した人程、共感力が低い場合が多かったですね。まあ、未だに高学歴な考えが根付いてる社会なのに、多くの企業から選考の段階で弾かれてるんですから、価値観が違い過ぎるのは当たり前なんですけどね」
「本来なら、学校等の集団生活で『協調性』を身に付けながら共感力も高めていくはずが……好成績に高学歴、有名学校への入学が人生の社会的地位だと考えている人間は多く、今も増え続けている。その結果、目的が完全に逸れてしまい、共感力の低い人間があちこちに生まれてしまった」
睦月の説明に拓雄も、こればかりは仕方ないと肯定の意を示してきた。
「『力で解決しよう』とも『話し合いで解決しよう』とも、価値観を押し付け合うのなら同列で意味がない。相手の気持ちを理解しようと努力するべきだが、お互いが『努力したい』と思えるようにならない限り……気持ちの擦れ違いと争いは、今後も続いていくだろうな」
由希奈は純粋に聞いているようだが、本職だと疑いを持っている面々は睦月を含めて、拓雄の言葉の重みを実感していた。
(結局……まったく同じ人間が居ないから、こうなるんだよな)
とはいえ、互いの価値観を擦り合わせようと努力さえできれば、共感力は自然と高まってくる。要は、相手を受け入れられるかどうかだ。現に、意思疎通を量ることに失敗した者の中にも、自省して変わろうと努力する人間だっている。
けれども、かつて睦月が『背負う価値もない命』と断じた者が……努力を放棄した愚者達が居ることも、また事実だった。
「けど……結構、楽な部分も有りますよ?」
腰掛けたまま腕を組む拓雄が振り向いてきた後、睦月は改めて口を開いた。
「共感力の低い相手程、孤立主義で意思疎通を最低限で済ませる場合が多いですからね。しっかり報連相しながら働いて、かつ余計な口さえ叩いてこなければ……コミュ障気味な俺には結構、付き合いやすかったりしますから」
しかし、その余計な口が揉め事の原因だと気付ける人間はいったい、何人いるのだろうか? むしろ……そこに着目できるかが、共感力の高低を判断する材料なのかもしれない。
「前から偶に、思ってたんだけど……」
そこで、この教室で六つ目の声……成績通知表を配布した担任の紅美が、口を挟んできた。
「……この教室に担任、必要?」
『いや職務放棄っ!』
たしかに、生徒間で問題を解決してしまっているが……その揉め事が拗れた時に必要なのが、教師という仲裁役である。その部分は忘れないでいただきたい。
「見守ることも立派な仕事だから、な?」
「はい…………」
生徒に担任が諭されるという……ある意味情けない光景もまた、この教室での一幕だと皆が考える中、終業式は終了した。
下校後、担任の紅美を含めた成人クラスの面々は、二手に分かれた。
一組は紅美の退勤を待ってから、裕のストレス発散も兼ねて痛飲に。もう一組である由希奈は睦月に連れられて、階下の喫茶店へと足を運んでいた。
「彩未から聞いたんだが……裏社会の住人になって、どうする気だ?」
「あれから、色々と考えました……」
最初はただ、免許を取得すればいいと考えていた。
『それで最低限だぞ?』
そう言われたことを後々になって思い出し、何が必要なのかを自分なりに考えてみた結果……真っ先に思い浮かんだのは、睦月の為に運んだ銃器類の入った鞄だった。
「私には……身を守る術が、ありません」
もし、揉め事に巻き込まれた際、自分は自分の身を守れるのだろうか?
睦月も姫香も、場合によっては助けてくれるかもしれないが……自分から危険に飛び込むのであれば、甘えていられない。だから由希奈は、裏社会の住人になる方法を彩未に相談した。
結果的には先送りとなり……今日、睦月に呼び出されてしまったわけだが。
「だから……裏社会の住人になる方法を、彩未に聞いたのか」
「はい、甘えたく……縋りたく、ありませんから」
由希奈には厳しいかもしれないし、単なる我儘なのかもしれない。
それでも、由希奈にとっては必要なことだからこそ……最初は同じ素人だった彩未に相談したのだ。
「だから夏休みの内に、身に付けたいんです。免許と一緒に……その、方法を」
「…………」
睦月は一度、アイスコーヒーを口に流し込んでから……少しだけ、目を閉じてしまった。
(さて……どう答えたものか)
再び瞼を開いた時、視界が横に長く感じた。しかしすぐ、単に目を細めているだけだと、睦月は気付いた。
「まず確認なんだが……由希奈はまず、何がしたい?」
「え、あの……だから、睦月さん達と一緒に、」
「何の仕事をしたいか? そう聞いているんだ」
少し、厳しい物言いになってしまっている自覚はある。
それでも、由希奈が抱えている漠然とした悩みは、睦月にも経験のあることだ。だからこそ、はっきりさせておく必要があった。
「前に、話したことがあったよな? 勝手に仕事を請けて、親父と揉めた時の話を」
「は、はい……」
「……今の由希奈は多分、その時の俺に近い悩みを抱えている」
自分の身を守る。その考え自体は正しい。社会の表裏を問わず、必要となってくる。
……問題なのは、その方法だ。
「『前提条件と優先順位――依頼を達成する為の絶対条件を忘れるな』と言われるまで、俺はやり方にも拘ってしまっていたが……由希奈の場合は、やり方自体が分からないと思っている。ここまでは、合っているか?」
「…………はい」
だから由希奈は、裏社会の住人になる方法という、どう解答すればいいのかが分かり辛い質問しか、できずにいる。少なくとも睦月は、そう考えていた。
「いい機会だから……夏休みの内に一度、なりたい職業について考えた方がいいんじゃないか?」
「え、それって……」
「……別に、由希奈の考えを拒絶しようとか、そういうものじゃない」
怯えている由希奈に対して首を振るものの、睦月にとっては本当に一度、全てを忘れた状態で考えるべきだと思っている。
将来……後悔しない為にも。
「こいつは俺の持論だが……どんな職業にも貴賤は有る。何の罪もない人間を犠牲にしているかどうか、だ」
法を犯す、だけでは物足りない。たとえ抜け道を掻い潜ってでも、望むのであれば自ら進んで卑しく、誰かの人生を貪ろうとする。自覚があろうとなかろうと、それが卑賎な者の真理だ。
その一点こそが、職業の貴賤を決める基準だと、睦月は考えていた。
「働き方次第で、その気になれば誰でも法を犯せるんだ。相手の尊厳を踏み躙った時点で、どんな真っ当な職業だろうと……そこらの破落戸と同じになってしまう」
薬も量を間違えれば、毒へと変わる。目的の為に手段を選ばないダークヒーローが持て囃されるのは、犠牲になるのが悪人だからに過ぎない。もし被害者が善人、ないしは無関係な一般人だとすれば……ただの悪役へと成り下がる。
その成れの果てが……本当の意味での、裏社会の住人なのだろう。
「実際、彩未もただの大学生だったけど……専攻している情報科学を武器にして、今の立場を得た。大事なのは、自分が何をしたいか? それだけなんだよ」
そういえば、と前置きした上で、睦月は由希奈に問い掛けた。
「高校を卒業した後は、どうするつもりだったんだ?」
「……いいえ」
首を横に振り、由希奈は静かに答えて来た。
「ただ漠然と、大学に進むつもりでした」
それを恥ずかしいとでも思っているのか、由希奈は徐々に顔を伏せようとしている。だから睦月は、意識的に口調を元に戻そうと一息吐いてから、ゆっくりと話し掛けた。
「別に、気にする必要もないだろう。やりたいことが見つかっていない人間にとっては、それを探す為に進学することもある。それが普通だ」
睦月自身もまた、『家業を継ぐ』程度の理由をきっかけにして『運び屋』の道を選び、現在に至っている。結局のところ、最後に自分が納得して進められれば、それでいいのだ。
「だからまず、進路から考えてみたらどうだ? 自分に何ができるのか、自分が何をしたいのか……それを知ってからでも、生き方を決めるのは遅くない」
結果、由希奈が睦月の元を選ばない可能性もある。しかし、それでも良かった。
「……分かりました」
大事なのは……由希奈自身の、気持ちなのだから。
高校と大学では、長期休暇の時期がずれている。地域や同列の学校でも統一されているわけではないのだから、教育機関が違えば夏休みの開始日も必然的に変わってくる。
そして当然……試験の時期も、ずれてしまうことになるのだ。
「姫香ちゃん、ここの訳教えて、」
「『ただデータ化することだけを考えればいいわけじゃない。組織に有益なデジタル手段を構築することが重要である』ことにいいかげん気付け、この間抜け」
「……最後は絶対要らないでしょう? 特に『間抜け』の部分」
彩未とて全部ではないものの、大まかな日本語訳は感覚で理解していた。その上で、自分より格上の語学力を持つ姫香に確認として聞いているのだが……終始この有様である。
「そもそも英語なんて、大まかに合っていれば普通に通じるのよ。教科書通りの訳しかできない教員にでも当たらない限り、今の彩未なら問題ないんじゃない?」
「日常会話での試験はともかく……専門的な論文だと、そうもいかないんだよね~」
愚痴だと分かりつつも、向かいに腰掛けて『スッポン』用の餌を作っている姫香に対して、彩未はそう返した。
「日本人だって、日本語の論文でもけっこう誤用してるじゃん。英語圏の人間も同じように、英語の論文で普通に誤用してるし。それが学生ならなおさら……むしろ、英語圏以外の人の英論文の方が、綺麗に訳しやすいよ?」
「……綺麗に翻訳サイトで変換しやすい、じゃなくて?」
「正しいかどうかの判断位はできますぅ~!」
開き直った彩未に対して、姫香は興味を無くしたかのように餌作りを終わらせ、道具を片付け始めていた。
「えっと次は、…………ん?」
ふと、姫香の声が途絶えていることに気付いた。今は黙って勉強していたので、またスマホでも覗き込んでいるのかと思っていたのだが……彼女は彩未の目の前で黙って立ち上がると、そのまま玄関の方へと歩いて行った。
「ああ……帰って来たんだ」
自身にはその経験がないので、緘黙症の詳細については分からないものの……姫香が話せなくなる条件は知っている。その状況を見て、彩未は家主が帰ってきたことに、ようやく気付いた。
(にしても……)
――ガチャ
「ただいま。あ~……疲れた」
帰宅した睦月に対して、手話で『お帰りなさい』と伝える姫香の後ろ姿を見つめていた彩未は、次第にその視線を、彼女のVネックワンピースのスカートの端にまで降ろした。
(姫香ちゃんに尻尾があったら……スカートが捲れる程、激しく揺れてないかな?)
「彩未も来てたのか……彩未? どうかしたのか?」
「ん? ……ああ、ごめんごめん。お邪魔してま~す」
中に入って来た睦月に挨拶してから、ちょっと気になることができた彩未は、指を動かして耳を近づけるように指示した。
「どうした?」
「あのさ、睦月君……」
訝しげな眼で見てくる姫香には聞こえないよう気を付けながら、彩未は睦月に問い掛けた。
「姫香ちゃんってさ…………犬と猫、どっちだと思う?」
「……お前何言ってんだ?」
一瞬、何を言われたのかが分からなかった為か、睦月は本気で首を傾げていた。
後程、彩未の質問の意図を把握した睦月は、姫香についてこう答えた。
「どちらかといえば、ギリギリ犬だけど……(赤)色のイメージが強すぎて、他の動物の方が似合いそうな気がする」
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