思春期を渡る。

れい

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思春期を渡る。

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七月七日。
僕の記憶にあるこの日は、いつも雨だ。


僕の今の気持ちを一言で表すなら、憂鬱、だ。
期末テストのせいでいつもはすかすかの鞄が重たい。
その上、制服の裾は雨を吸って重たいし、肌にまとわりつくような、この湿気。取り憑かれてるんじゃないかと思うくらい、肩が重い。
息を吸うにも胸に重く貯まる空気が気持ち悪い。水溜まりを避ける気力なんて、ベッドの中に置いてきた。どうせローファーの中の靴下は、びしょびしょだから今更水に足を突っ込んでも、たぶんあまり関係ない。
ため息を吐く。吐き切った瞬間、完全に油断していた僕は、後ろからの突然の衝撃につんのめった。

「お、おはよう!」

ぼたぼたと傘の先から滴を落としながら、彼女はそう言った。
僕の幼馴染。……まぁ、いわゆる、腐れ縁、ってやつだ。
顔が少し赤いのは、たぶんこの蒸し暑さのせい。いや、息が少し上がっているから、こいつはこのうざったい雨の中、小学生さながらに走ってきたに違いない。
隣の傘から覗き込んでくる顔に、僕はふい、と反対側を向いた。

「あのさ!……言いたいことがあるんだけど、」

「LINEでいいだろ。一緒に登校なんて、また付き合ってんのかとか、冷やかされる」

別に、嫌だとかそういう本心で言った訳じゃない。分かるだろ、その、なんて言うか、僕だって一人前に思春期ってやつなんだ。
二ヶ月くらい前、友達にからかわれてから、僕はこうやって、彼女と直接会話することを避けていた。その現場に彼女もいたし、何より幼馴染だから、これが僕の本心じゃないのを、分かってくれてると勝手に思い込んでいたのだ。
だけど彼女は黙り込む。僕は反対側を向いていたから、その表情は見えなかった。彼女から洩れた空気を読むには、些か僕は鈍感過ぎた。

「……ふーんだ、じゃあいいもん、ばーか!」

やけくそぶってそう言うと、彼女は傘の柄をくるりと回して、僕に滴を飛ばした。
うわ、っと目をつぶった隙に、彼女は走り出す。
少し透けた白いセーラー服から、水色のキャミソールの肩紐が覗いている。僕は見てはいけないものを見たような気持ちで、彼女から目を逸らした。
数秒経って、そっと盗み見るようにした彼女は、雨の中白い足跡を残しながら、何かから逃げるように、遠く遠く、僕の行く道を先へ先へと走っていっていた。何をそんなに急いでいるんだか。
灰色の景色の中、雨は真っ直ぐ白い線を描いて、まるでカーテンみたいだ。布越しに見るような視界の向こう、彼女の踵から不規則に跳ねる滴がやたらと綺麗に散って見えた。






「お前の幼馴染、転校するんだってな」

僕にそう話しかけてきたのは、二ヶ月前僕と彼女の仲をからかってきた張本人だ。
今日のテスト四教科全てが終わり、僕は用を終えた教科書たちを狭いロッカーに押し込んでいるところだった。期末テストも明日で終わりだ。置き勉される教科書たちはやっといつもみたいに、斜めに横たわることなく、そのでこぼこの背を比べて立てるようになった。

「は?」

「は?って。お前、嫁のことくらい知っとけよな」

別居だな、とにやけながら肘で小突いてくる友達を、僕は半眼で睨んで振り払う。
やめろよ、と低く言っても、友達はそんな僕のことなどお構い無し。同じ部活の連中に名前を呼ばれると、謝罪の一言もなくさっさと廊下へと消えていった。

何なんだよ、あいつ。

生徒がまばらに散る教室も廊下も、昨日より賑わいを増している。たぶん、テスト期間の終わりが見えてきたから、みんな気持ちが少し軽くなっているのだ。
だけど僕の胸の中は、空と同じ、重く暗い灰色だった。
からかってきたあいつのこともむかついたし、朝わざとらしくぶつかってきた彼女のことも思い出したのだ。なんだか喉仏の少し下あたりに、鉛玉が詰まったみたいだ。
僕はラジオノイズのような雨音の下、一人で、帰宅路についた。傘の隙間から彼女の姿を探してみたが、似たような後ろ姿ばかりで見当たらない。
呼んでもない時は飛んで来るくせに。
僕のやるせない気持ちは、帰って自室のベッドにすかすかの鞄を投げ捨てても、消えてくれはしなかった。






残り三教科の期末テスト。夜になっても、僕はまるで勉強に集中出来なかった。
別に気を抜いているわけでも、投げ出したわけでもない。
何なら帰って昼ごはんを食べてから、ずっと机に向かっている。
ただ僕の目はちらちらと、黒い画面のまま微動だにしないスマートフォンを気にしていた。
16時過ぎに、彼女にLINEをしたのだ。話がある、と、一文だけ。
返事はまだきていない。送れば、昼から詰まっていた心のもやもやが少しは晴れるかと思ったが、今度は既読を気にする自分が、思考回路の果てまでつきまとった。僕は僕がこんなにも女々しい奴だとは知らなかった。

『お前の幼馴染、転校するんだってな』

耳元にこびり付いた友達の声が鬱陶しくて、僕は動かないスマートフォンをベッドの枕に思いっ切り投げ付ける。
ボスン、と空気の抜けた音。静まり返った部屋に、少し荒くなった自分の呼吸と秒針の音だけが鳴るもんだから、少し冷静さを取り戻した。
数秒後に、画面、割れてないよな、と、自分で投げたくせに僕はそっと、スマートフォンを覗き込んだ。スマートフォンからしたら、なんて勝手な持ち主だろうか。

ブー、っと、そう文句を言うかのように、僕のスマートフォンは一度だけ、体を揺らした。

僕は飛びかかるようにしてスマートフォンを握った。
たぶん豹が獲物を狩るくらいのスピードだったと思う。
新着メッセージ。彼女からだ。

なに?

たった三文字の返信に、三時間もそわそわしていた自分がアホらしくなって、深いため息が出た。
僕は込み上げてきた怒りに似た感情のままに、気付いたらスマートフォンを引っ掴んで、玄関でサンダルを履いていた。何の感情かは正直よく分からなかった。からかってきたあいつにも、何も言ってこないあいつにも、あいつを雑に扱ってきた自分にも、今こんなにも女々しい自分にも、むかついていたのかもしれない。それか、無限に続くと思い込んでいた時間に唐突に終わりが見えたことに、焦っていたのかもしれない。
もうご飯よ、とリビングから顔を出した母親に、僕は振り返りもせず、後で、とだけ叫んで家を飛び出した。
彼女の家はすぐそこだ。五つ先の交差点を右に曲がった、二軒目。
日はもうすっかり沈んでいた。朝から降っていた雨も止んでいた。僕は道に黒く残る水溜まりも無視して走る。今朝彼女が散らしていたよりも派手に、飛沫が僕の周りで、街灯に照らされて白くきらめいた。
ずっと貯まっていた胸の鉛玉は、呼吸が荒くなって喉が痛み始めた頃にはどこかへ消えていた。何かに急かされるように僕は、呼吸の仕方も、乱れる髪も、汚れていく足もなりふり構わず、誰もいない、静かな夜道を足音を立てながら走っていた。

僕がやっと足を止めたのは、四つ目の交差点の手前だった。
ペラペラのサンダルを履いてきたから、足の裏がじんじんする。自分の荒い呼吸と、脈打つ鼓動しか聞こえない。少し走っただけなのに、だらん、とさげた右手から、汗でスマートフォンが滑り落ちそうだった。

「走ってくると思ってたよ」

彼女の家まではまだなのに、交差点の向こう側で、彼女は笑っていた。
セーラー服じゃなくて、白いワンピースだ。すらっとした細い手足が無防備に晒されている。
彼女の部屋着なのだろうか。僕は彼女の私服を見るのが、中学三年の修学旅行以来だということに、初めて気付いた。

「……なんでそう思ったんだよ」

「さぁ?何となくだよ、これでも幼馴染だもん」

鈴虫が密かに鳴る中、僕らは交差点を挟んだまま、お互い動かなかった。
近所の家が窓を開けているみたいだ。微かにテレビの揃った笑い声が聞こえる。
彼女を上から照らす街灯が、音もなく瞬いた。

「やっと話ができるね」

眉を下げて彼女は笑った。僕は久しぶりに彼女の顔を正面から見た気がした。僕が目を逸らしていた時、彼女はいつもこんなに寂しそうな顔をしていたのだろうか。
僕は深く息を吸って、冷たいような痛いような、勝手にきつく締まる喉で、彼女に叫ぶように聞いた。

「どこに引っ越すの」

「アメリカ」

間髪入れずにあっけからんと彼女は言ったが、僕はこめかみを殴られたような衝撃を受けた。
たぶん無意識に、会いに行く、と言うつもりだったことに気付かされた。とんでもない。そう簡単に会いになんて、いけない距離だ。
僕は思わず彼女から目を逸らした。剥げかけた止まれの文字が、僕に呼びかけている。僕はその通り、確かに、動けないままだ。

「なんて顔してんのさ」

あはは、と彼女は白いワンピースの裾を揺らしながら、お腹を抱えて笑い始めた。
僕はその声に顔を上げた。
こいつ、人の気も知らないで。
僕は少しだけ眉を寄せた。だけど彼女の笑い声が懐かしくて、何故か怒る気も失せた。

ぱた、ぱたぱたぱた。

歩きだそうと前に出した足の甲に、一滴、また一滴と小さな水が落ちた。
彼女が真っ黒な空を見上げて、降ってきちゃったね、と悲しそうに呟いた。

「七夕はいつも雨だね」

次第に強くなる雨に、窓を閉める音が紛れる。テレビの笑い声は遠くなった。
空を見上げていた彼女が、僕に向き直る。
いつもはさらさらの彼女の髪も、走って乱れた僕の髪も、ぺたんこになって水を滴らせ始めていた。

「来年帰ってくるよ。だからさ、来年の今日の、七時に、ここで待ち合わせしよう」

雨音に掻き消されてもおかしくないくらいの小さな声で、彼女は言った。
来年の、七月七日、七時、覚えやすいでしょ、と彼女は濡れた横髪を背中に流す。
僕は答えなかった。だけど僕には聞こえていると、彼女は確信しているみたいに笑った。

「ねぇ見て、天の川みたい」

彼女が手を広げた。僕は彼女の足元に目を落とす。
彼女と僕の上の街灯が、薄く交差点を照らしていた。
僕らをずぶ濡れにしている雨は、交差点の真ん中を横断するように長い水溜まりを作っていた。
黒い道の上で白い滴が遊ぶように跳ねている。白い円が重なり合って、水面が揺らいで、流れるように波紋を描いて、きらめく。

きらきら。そう呟いて彼女は、白いカーテンの向こう側で、交差点を流れる天の川にタンと、踊るような軽い足取りで飛び込んだ。

「来年の七夕は本物が見れるといいなぁ」

彼女は涙を流す空を仰ぎながら、両腕を目いっぱい広げると、くるっと半回転し、僕に背を向ける。
ぴったり彼女の背中に張り付いたワンピースの下に、水色のキャミソールが透けて見えた気がした。
僕は見てはいけないものを見たようで、だけど今度は、白いカーテンを掻き分けるようにして、彼女の元へ踏み込んだ。
僕は彼女の肩が、両腕に収まるほど華奢だったことを、この夜初めて知った。

簡単に飛び込めるくらいの距離なら、良かったのにね。

天の川の中、そう言った彼女の肩は、微かに震えていた。
鈍感な僕でも分かった。空も彼女も、本当にいるか分かんない織姫も彦星も、そして僕も。
たぶん今は、みんな泣いてた。





僕らが次に出会うのは、七月七日の七時ちょうど。
今度はどうか、きらめく天の川の下で。
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