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人魚の憧憬
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蝉が鳴き始めたな、となんとなく思った夜だった。
プールサイドに立って、足元を見下ろした。
真っ黒な鏡。そこに映る私の表情は、風に煽られてよく見えない。
それくらいが、ちょうどよかった。
鏡を見るのは苦手だから。
ゆらゆらと揺れる、不安定な輪郭に呑み込まれるように、私はその冷たさに身を沈めていった。
視界の端を揺れるのは、縛りなさいといつも言われる、長い髪。
毎日まとわりついてくる制服のスカートは、重さを失くして揺蕩い始める。
耳元で思考を埋める音は次第に小さく、遠く消えて、そうして初めて、私は私でなくなった。
目を閉じて、何が見える。
きっとそれは真昼の、太平洋。
私は両手を目一杯広げて、踊るように水を掻き、謳いながら柔らかな笑みで、腰から伸びる美しいヒレを靡かせる。
それに合わせるように、色鮮やかな魚たちも舞い、海藻ですら体を揺らして、遊びに来たイルカたちが笑う。
そう。私はなんだって出来る。なんにだって成れる。
音のないこの世界で、私はこんなにも自由だ。
だけど、長くは続かない。
息苦しさに目を開ければ、一瞬で孤独に様変わりだ。
その上誰かが、私を無理やり引き上げる。
どうあがいたって、留まらせてはくれない。
そして、世界の境界線に置き去りにして、ようやく力を緩めるのだ。
眼下に沈む音のない世界は夜よりも真っ暗で、求める様に腕を伸ばしても、何も掴めはしなかった。
ため息を吐ける息も残っておらず、しょうがなく身体ごと振り向けば、随分と高い場所から、月が嗤っているではないか。
ばーか、と短く悪態を吐いてみたが、何も変わりはしなかったので、小さく息を吐いて目を逸らした。
私は力なく目を伏せ、夜をさまよう。
頬を撫でる冷たい風も、木々の低いささやきも、なんだかとても遠く思えた。
くぐもったバイクの音も、丸くなった蝉の声も、意識の外へと遠ざかっていく。
身体を動かす力もなく、気もなく、ただただ一人、心だけが当てもなく漂う感覚。
ああ、そうか。これをきっと、虚しいと呼ぶのだ。
数分前まで、確かに私は人魚だった。
それが今は、このざまだ。
嘲笑するように、短く息が漏れる。
半分沈んだ両脚から、あの美しいヒレはなくなってしまった。
もう、太平洋は見えない。
あの世界が恋しかった。
あの世界にいる私はきらきらと輝いていた。
心も身体も重さを無くして、何もかもに満ち足りた顔で、微笑んでいた。
だから私は、どうして物語の人魚姫が人になりたがったのか、分からない。
代償などなくとも、この世界での歩みは痛くて重くて。
戻ることも許されなくて、止まることも許されなくて。
自由になんて歩けない。自由になんて謳えない。
見えない鎖で身体が重くて、両手だって満足に広げられない。
あの美しい世界に、勝るものなんて―。
どのくらいそうしていたのだろう。
頭が優しく壁に触れて、ようやく私はプールサイドに上がることにした。
髪も制服も水を吸って、罰とでも言うかのように重たい。
しかも身体中に張り付いて、うっとおしいことこの上ない。
やっぱりこの世界は、とても生き辛い。
私は靴を指に引っ提げて、ひたひたと黒い足跡を残しながら、プールを後にする。
だって私に、魔女の知り合いはいない。
私には、そうすることしか出来ない。
なんとなく、振り返った。
―――蝉が鳴き終わる季節には、あの世界から足を洗えるのだろうか。
真っ黒な鏡の中で、まだ月は嗤っている。
プールサイドに立って、足元を見下ろした。
真っ黒な鏡。そこに映る私の表情は、風に煽られてよく見えない。
それくらいが、ちょうどよかった。
鏡を見るのは苦手だから。
ゆらゆらと揺れる、不安定な輪郭に呑み込まれるように、私はその冷たさに身を沈めていった。
視界の端を揺れるのは、縛りなさいといつも言われる、長い髪。
毎日まとわりついてくる制服のスカートは、重さを失くして揺蕩い始める。
耳元で思考を埋める音は次第に小さく、遠く消えて、そうして初めて、私は私でなくなった。
目を閉じて、何が見える。
きっとそれは真昼の、太平洋。
私は両手を目一杯広げて、踊るように水を掻き、謳いながら柔らかな笑みで、腰から伸びる美しいヒレを靡かせる。
それに合わせるように、色鮮やかな魚たちも舞い、海藻ですら体を揺らして、遊びに来たイルカたちが笑う。
そう。私はなんだって出来る。なんにだって成れる。
音のないこの世界で、私はこんなにも自由だ。
だけど、長くは続かない。
息苦しさに目を開ければ、一瞬で孤独に様変わりだ。
その上誰かが、私を無理やり引き上げる。
どうあがいたって、留まらせてはくれない。
そして、世界の境界線に置き去りにして、ようやく力を緩めるのだ。
眼下に沈む音のない世界は夜よりも真っ暗で、求める様に腕を伸ばしても、何も掴めはしなかった。
ため息を吐ける息も残っておらず、しょうがなく身体ごと振り向けば、随分と高い場所から、月が嗤っているではないか。
ばーか、と短く悪態を吐いてみたが、何も変わりはしなかったので、小さく息を吐いて目を逸らした。
私は力なく目を伏せ、夜をさまよう。
頬を撫でる冷たい風も、木々の低いささやきも、なんだかとても遠く思えた。
くぐもったバイクの音も、丸くなった蝉の声も、意識の外へと遠ざかっていく。
身体を動かす力もなく、気もなく、ただただ一人、心だけが当てもなく漂う感覚。
ああ、そうか。これをきっと、虚しいと呼ぶのだ。
数分前まで、確かに私は人魚だった。
それが今は、このざまだ。
嘲笑するように、短く息が漏れる。
半分沈んだ両脚から、あの美しいヒレはなくなってしまった。
もう、太平洋は見えない。
あの世界が恋しかった。
あの世界にいる私はきらきらと輝いていた。
心も身体も重さを無くして、何もかもに満ち足りた顔で、微笑んでいた。
だから私は、どうして物語の人魚姫が人になりたがったのか、分からない。
代償などなくとも、この世界での歩みは痛くて重くて。
戻ることも許されなくて、止まることも許されなくて。
自由になんて歩けない。自由になんて謳えない。
見えない鎖で身体が重くて、両手だって満足に広げられない。
あの美しい世界に、勝るものなんて―。
どのくらいそうしていたのだろう。
頭が優しく壁に触れて、ようやく私はプールサイドに上がることにした。
髪も制服も水を吸って、罰とでも言うかのように重たい。
しかも身体中に張り付いて、うっとおしいことこの上ない。
やっぱりこの世界は、とても生き辛い。
私は靴を指に引っ提げて、ひたひたと黒い足跡を残しながら、プールを後にする。
だって私に、魔女の知り合いはいない。
私には、そうすることしか出来ない。
なんとなく、振り返った。
―――蝉が鳴き終わる季節には、あの世界から足を洗えるのだろうか。
真っ黒な鏡の中で、まだ月は嗤っている。
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