いまはむかし。

れい

文字の大きさ
1 / 1

いまはむかし。

しおりを挟む
むかし、むかし、あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました。

おじいさんは今日も満員電車に揺られながら、俯いてタブレットでニュースを読んでいました。

おばあさんは、洗濯物を干して、パート先のファミレスの制服を持って、自転車に乗りました。

御年73歳のおじいさんは、もうスマートフォンではニュースが読めません。
文字の大きなタブレットでないと、新調した老眼鏡でも、ピントが合わせ辛いのです。

御年68歳のおばあさんは、自転車を度々降りるようにして、パート先に向かいます。
歩道と車道の段差が膝や腰に響いて、乗り越えることも、スピードを出すことも難しいのです。

おじいさんは、背筋をきっちり伸ばした、まだ皺もよっていないスーツを着た若者を見て、それはそれは哀れむよう目で、足早に人混みを抜けていく背中を見ていました。

おばあさんは、パート先で孫のように可愛らしい、元気いっぱいの同僚と挨拶を交わして、ロッカールームのパイプ椅子に、ゆっくりと腰を掛け、深く息を吐きました。

おじいさんは、エスカレーターの片側で立ち止まり、ただ身を任せるようにして改札階へと登っていきます。若者たちは、おじいさんのことなど見向きもせず、ただすいすいと隣を追い抜いていきます。

おばあさんは、パイプ椅子に腰をかけたまま、ただじっと座り、時間が来るまで着替えている同僚たちを眺めます。高い声の同僚たちは、おばあさんでは聞き取りにくい早口言葉で、笑いながらひたすらに話しあっています。

おじいさんは、思いました。
きっとこの若者たちは、まさか自分が、70歳を越えても働くことになろうなどと思っていないだろう、と。
それは、かつてのおじいさん自身を、見ているようでした。
おじいさんも若い頃は、自分はきっと、30代で結婚して、会社でせっせと働いて、気付けば65歳で定年して、毎日リビングのソファーで、新聞を見ながら猫の背を撫でるような毎日が続くのだと、思っていたのです。
貯金と年金と退職金で、贅沢ではないにしろ、不自由のない毎日を、一緒に歳を過ごしてきた女性と過ごす。
ゆっくりゆっくり、小学生の夏休みのような、田舎で静かな余生を過ごすのだと、思っていたのです。

おばあさんは、思いました。
きっとこの眩しい笑顔の同僚たちは、まさか自分が、70歳目前にしても働くことになろうなどと思っていないだろう、と。
それは、かつてのおばあさん自身を、見ているようでした。
かつてはおばあさんも、自分はきっと、20代で素敵な男性に出会い、身内だけの小さいものでも、ずっと記憶に残るような結婚式を挙げて、いずれは子供を授かるのだと、思っていたのです。
時には夫と喧嘩もし、子供が大きくなったら、夫と二人だけで世界一周の旅行へ行き、子供の結婚式に涙し、初孫を抱いて。
会うたび会うたび、大きくなっていく孫の成長を楽しみに、季節の変化をじっくりと待つのだと、思っていたのです。

おじいさんは、思いました。
そう思えば、思い描いていた理想と同じなのは、30代で素敵な女性に巡り逢えたことだけではないのかと。

おばあさんは、思いました。
そう思えば、思い描いていた理想と違うのは、夫と二人だけで、世界一周の旅行へ行けていないことではないのかと。

おじいさんは、思いました。
今日は早く帰ろうと。

おばあさんは、思いました。
今日はおじいさんの好きなものを、たくさん作ってあげようと。

その晩のことです。
いつもより豪勢な食卓に、おじいさんは驚きました。
どうしたんだ、とおばあさんに問いかけると、おばあさんは照れ臭そうに笑いました。

「あなたには、若いころの私の理想をたくさん叶えていただいていたのに、私はその有難味をすっかり忘れていたのです。
世界一周の旅行へだけは、行けなかったけれど、たくさんの宝物をくれたあなたに、少しでも恩返しがしたいと思って」

おじいさんは、そうか、と言いました。
何故か分からないけど、ありがとう、と言うのが、とても照れ臭かったのです。
おばあさんは言いました。おじいさんは、若い頃、どんな理想を描いていましたか、と。
おじいさんは、少し考えて、ゆっくりと、零すように言葉を口にし始めました。

「猫を、飼いたいと思っていたんだ。
それから、歳をとって、退職したら、夏になると蝉のうるさい、どこか懐かしい田舎の町で、静かに暮らしたいと」

おばあさんは、まぁ、と嬉しそうに言いました。
そして、皺だらけの手を合わせると、目を細めて、薄くなった唇で笑います。

「猫ちゃんも、田舎暮らしも、これから叶えられることで良かったわ」

二人はいただきます、と両手を合わせて、おじいさんの好きな、鯖の味噌煮と、蛸の酢の物と、イカの塩辛に白米と、豆腐の味噌汁を、食べ始めました。

おじいさんは味噌汁を飲んで、ほっと息を吐きました。
おばあさんの味噌汁は、昔から丁度いい、体にじんわりと馴染んでいくような、懐かしい味がするのでした。

うまい、とおじいさんが一言いうと、おばあさんは黙ったまま、にっこりと笑います。
コトン、と震える手で味噌汁の器を置いて、おじいさんは言いました。

「世界一周の旅行は無理だが、今度淡路島にでも、旅行に行こうか」

「あら素敵、うず潮のクルージングに、乗ってみたいわ」

おじいさんは、素敵な女性に巡り合えたことを、おばあさんには伝えませんでした。
それでもおばあさんは、旅行の約束だけで、十分でした。
おじいさんと一緒に歳を過ごしてきたおばあさんは、おじいさんの行動だけで、その心の内が、分かってしまうような、素敵な女性になっていたのでした。

二人で働く、過酷な日々は続きます。
それでも、今度はどこへ旅行に行こうかと話す二人の距離は、猫一匹分にまで、縮まったのでした。

めでたし、めでたし。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)

MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。

壊れていく音を聞きながら

夢窓(ゆめまど)
恋愛
結婚してまだ一か月。 妻の留守中、夫婦の家に突然やってきた母と姉と姪 何気ない日常のひと幕が、 思いもよらない“ひび”を生んでいく。 母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。 誰も気づきがないまま、 家族のかたちが静かに崩れていく――。 壊れていく音を聞きながら、 それでも誰かを思うことはできるのか。

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様を書いたストーリーです。

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。 すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。 だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。 イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。 変わり果てた現実を前に、 夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。 深い後悔と悲しみに苛まれながら、 失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。 しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。 贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。 そして、母の心を知っていく子供たち。 イネスが求める愛とは、 そして、幸せとは――。

妻の遺品を整理していたら

家紋武範
恋愛
妻の遺品整理。 片づけていくとそこには彼女の名前が記入済みの離婚届があった。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

貴方なんて大嫌い

ララ愛
恋愛
婚約をして5年目でそろそろ結婚の準備の予定だったのに貴方は最近どこかの令嬢と いつも一緒で私の存在はなんだろう・・・2人はむつまじく愛し合っているとみんなが言っている それなら私はもういいです・・・貴方なんて大嫌い

処理中です...