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いまはむかし。
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むかし、むかし、あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました。
おじいさんは今日も満員電車に揺られながら、俯いてタブレットでニュースを読んでいました。
おばあさんは、洗濯物を干して、パート先のファミレスの制服を持って、自転車に乗りました。
御年73歳のおじいさんは、もうスマートフォンではニュースが読めません。
文字の大きなタブレットでないと、新調した老眼鏡でも、ピントが合わせ辛いのです。
御年68歳のおばあさんは、自転車を度々降りるようにして、パート先に向かいます。
歩道と車道の段差が膝や腰に響いて、乗り越えることも、スピードを出すことも難しいのです。
おじいさんは、背筋をきっちり伸ばした、まだ皺もよっていないスーツを着た若者を見て、それはそれは哀れむよう目で、足早に人混みを抜けていく背中を見ていました。
おばあさんは、パート先で孫のように可愛らしい、元気いっぱいの同僚と挨拶を交わして、ロッカールームのパイプ椅子に、ゆっくりと腰を掛け、深く息を吐きました。
おじいさんは、エスカレーターの片側で立ち止まり、ただ身を任せるようにして改札階へと登っていきます。若者たちは、おじいさんのことなど見向きもせず、ただすいすいと隣を追い抜いていきます。
おばあさんは、パイプ椅子に腰をかけたまま、ただじっと座り、時間が来るまで着替えている同僚たちを眺めます。高い声の同僚たちは、おばあさんでは聞き取りにくい早口言葉で、笑いながらひたすらに話しあっています。
おじいさんは、思いました。
きっとこの若者たちは、まさか自分が、70歳を越えても働くことになろうなどと思っていないだろう、と。
それは、かつてのおじいさん自身を、見ているようでした。
おじいさんも若い頃は、自分はきっと、30代で結婚して、会社でせっせと働いて、気付けば65歳で定年して、毎日リビングのソファーで、新聞を見ながら猫の背を撫でるような毎日が続くのだと、思っていたのです。
貯金と年金と退職金で、贅沢ではないにしろ、不自由のない毎日を、一緒に歳を過ごしてきた女性と過ごす。
ゆっくりゆっくり、小学生の夏休みのような、田舎で静かな余生を過ごすのだと、思っていたのです。
おばあさんは、思いました。
きっとこの眩しい笑顔の同僚たちは、まさか自分が、70歳目前にしても働くことになろうなどと思っていないだろう、と。
それは、かつてのおばあさん自身を、見ているようでした。
かつてはおばあさんも、自分はきっと、20代で素敵な男性に出会い、身内だけの小さいものでも、ずっと記憶に残るような結婚式を挙げて、いずれは子供を授かるのだと、思っていたのです。
時には夫と喧嘩もし、子供が大きくなったら、夫と二人だけで世界一周の旅行へ行き、子供の結婚式に涙し、初孫を抱いて。
会うたび会うたび、大きくなっていく孫の成長を楽しみに、季節の変化をじっくりと待つのだと、思っていたのです。
おじいさんは、思いました。
そう思えば、思い描いていた理想と同じなのは、30代で素敵な女性に巡り逢えたことだけではないのかと。
おばあさんは、思いました。
そう思えば、思い描いていた理想と違うのは、夫と二人だけで、世界一周の旅行へ行けていないことではないのかと。
おじいさんは、思いました。
今日は早く帰ろうと。
おばあさんは、思いました。
今日はおじいさんの好きなものを、たくさん作ってあげようと。
その晩のことです。
いつもより豪勢な食卓に、おじいさんは驚きました。
どうしたんだ、とおばあさんに問いかけると、おばあさんは照れ臭そうに笑いました。
「あなたには、若いころの私の理想をたくさん叶えていただいていたのに、私はその有難味をすっかり忘れていたのです。
世界一周の旅行へだけは、行けなかったけれど、たくさんの宝物をくれたあなたに、少しでも恩返しがしたいと思って」
おじいさんは、そうか、と言いました。
何故か分からないけど、ありがとう、と言うのが、とても照れ臭かったのです。
おばあさんは言いました。おじいさんは、若い頃、どんな理想を描いていましたか、と。
おじいさんは、少し考えて、ゆっくりと、零すように言葉を口にし始めました。
「猫を、飼いたいと思っていたんだ。
それから、歳をとって、退職したら、夏になると蝉のうるさい、どこか懐かしい田舎の町で、静かに暮らしたいと」
おばあさんは、まぁ、と嬉しそうに言いました。
そして、皺だらけの手を合わせると、目を細めて、薄くなった唇で笑います。
「猫ちゃんも、田舎暮らしも、これから叶えられることで良かったわ」
二人はいただきます、と両手を合わせて、おじいさんの好きな、鯖の味噌煮と、蛸の酢の物と、イカの塩辛に白米と、豆腐の味噌汁を、食べ始めました。
おじいさんは味噌汁を飲んで、ほっと息を吐きました。
おばあさんの味噌汁は、昔から丁度いい、体にじんわりと馴染んでいくような、懐かしい味がするのでした。
うまい、とおじいさんが一言いうと、おばあさんは黙ったまま、にっこりと笑います。
コトン、と震える手で味噌汁の器を置いて、おじいさんは言いました。
「世界一周の旅行は無理だが、今度淡路島にでも、旅行に行こうか」
「あら素敵、うず潮のクルージングに、乗ってみたいわ」
おじいさんは、素敵な女性に巡り合えたことを、おばあさんには伝えませんでした。
それでもおばあさんは、旅行の約束だけで、十分でした。
おじいさんと一緒に歳を過ごしてきたおばあさんは、おじいさんの行動だけで、その心の内が、分かってしまうような、素敵な女性になっていたのでした。
二人で働く、過酷な日々は続きます。
それでも、今度はどこへ旅行に行こうかと話す二人の距離は、猫一匹分にまで、縮まったのでした。
めでたし、めでたし。
おじいさんは今日も満員電車に揺られながら、俯いてタブレットでニュースを読んでいました。
おばあさんは、洗濯物を干して、パート先のファミレスの制服を持って、自転車に乗りました。
御年73歳のおじいさんは、もうスマートフォンではニュースが読めません。
文字の大きなタブレットでないと、新調した老眼鏡でも、ピントが合わせ辛いのです。
御年68歳のおばあさんは、自転車を度々降りるようにして、パート先に向かいます。
歩道と車道の段差が膝や腰に響いて、乗り越えることも、スピードを出すことも難しいのです。
おじいさんは、背筋をきっちり伸ばした、まだ皺もよっていないスーツを着た若者を見て、それはそれは哀れむよう目で、足早に人混みを抜けていく背中を見ていました。
おばあさんは、パート先で孫のように可愛らしい、元気いっぱいの同僚と挨拶を交わして、ロッカールームのパイプ椅子に、ゆっくりと腰を掛け、深く息を吐きました。
おじいさんは、エスカレーターの片側で立ち止まり、ただ身を任せるようにして改札階へと登っていきます。若者たちは、おじいさんのことなど見向きもせず、ただすいすいと隣を追い抜いていきます。
おばあさんは、パイプ椅子に腰をかけたまま、ただじっと座り、時間が来るまで着替えている同僚たちを眺めます。高い声の同僚たちは、おばあさんでは聞き取りにくい早口言葉で、笑いながらひたすらに話しあっています。
おじいさんは、思いました。
きっとこの若者たちは、まさか自分が、70歳を越えても働くことになろうなどと思っていないだろう、と。
それは、かつてのおじいさん自身を、見ているようでした。
おじいさんも若い頃は、自分はきっと、30代で結婚して、会社でせっせと働いて、気付けば65歳で定年して、毎日リビングのソファーで、新聞を見ながら猫の背を撫でるような毎日が続くのだと、思っていたのです。
貯金と年金と退職金で、贅沢ではないにしろ、不自由のない毎日を、一緒に歳を過ごしてきた女性と過ごす。
ゆっくりゆっくり、小学生の夏休みのような、田舎で静かな余生を過ごすのだと、思っていたのです。
おばあさんは、思いました。
きっとこの眩しい笑顔の同僚たちは、まさか自分が、70歳目前にしても働くことになろうなどと思っていないだろう、と。
それは、かつてのおばあさん自身を、見ているようでした。
かつてはおばあさんも、自分はきっと、20代で素敵な男性に出会い、身内だけの小さいものでも、ずっと記憶に残るような結婚式を挙げて、いずれは子供を授かるのだと、思っていたのです。
時には夫と喧嘩もし、子供が大きくなったら、夫と二人だけで世界一周の旅行へ行き、子供の結婚式に涙し、初孫を抱いて。
会うたび会うたび、大きくなっていく孫の成長を楽しみに、季節の変化をじっくりと待つのだと、思っていたのです。
おじいさんは、思いました。
そう思えば、思い描いていた理想と同じなのは、30代で素敵な女性に巡り逢えたことだけではないのかと。
おばあさんは、思いました。
そう思えば、思い描いていた理想と違うのは、夫と二人だけで、世界一周の旅行へ行けていないことではないのかと。
おじいさんは、思いました。
今日は早く帰ろうと。
おばあさんは、思いました。
今日はおじいさんの好きなものを、たくさん作ってあげようと。
その晩のことです。
いつもより豪勢な食卓に、おじいさんは驚きました。
どうしたんだ、とおばあさんに問いかけると、おばあさんは照れ臭そうに笑いました。
「あなたには、若いころの私の理想をたくさん叶えていただいていたのに、私はその有難味をすっかり忘れていたのです。
世界一周の旅行へだけは、行けなかったけれど、たくさんの宝物をくれたあなたに、少しでも恩返しがしたいと思って」
おじいさんは、そうか、と言いました。
何故か分からないけど、ありがとう、と言うのが、とても照れ臭かったのです。
おばあさんは言いました。おじいさんは、若い頃、どんな理想を描いていましたか、と。
おじいさんは、少し考えて、ゆっくりと、零すように言葉を口にし始めました。
「猫を、飼いたいと思っていたんだ。
それから、歳をとって、退職したら、夏になると蝉のうるさい、どこか懐かしい田舎の町で、静かに暮らしたいと」
おばあさんは、まぁ、と嬉しそうに言いました。
そして、皺だらけの手を合わせると、目を細めて、薄くなった唇で笑います。
「猫ちゃんも、田舎暮らしも、これから叶えられることで良かったわ」
二人はいただきます、と両手を合わせて、おじいさんの好きな、鯖の味噌煮と、蛸の酢の物と、イカの塩辛に白米と、豆腐の味噌汁を、食べ始めました。
おじいさんは味噌汁を飲んで、ほっと息を吐きました。
おばあさんの味噌汁は、昔から丁度いい、体にじんわりと馴染んでいくような、懐かしい味がするのでした。
うまい、とおじいさんが一言いうと、おばあさんは黙ったまま、にっこりと笑います。
コトン、と震える手で味噌汁の器を置いて、おじいさんは言いました。
「世界一周の旅行は無理だが、今度淡路島にでも、旅行に行こうか」
「あら素敵、うず潮のクルージングに、乗ってみたいわ」
おじいさんは、素敵な女性に巡り合えたことを、おばあさんには伝えませんでした。
それでもおばあさんは、旅行の約束だけで、十分でした。
おじいさんと一緒に歳を過ごしてきたおばあさんは、おじいさんの行動だけで、その心の内が、分かってしまうような、素敵な女性になっていたのでした。
二人で働く、過酷な日々は続きます。
それでも、今度はどこへ旅行に行こうかと話す二人の距離は、猫一匹分にまで、縮まったのでした。
めでたし、めでたし。
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