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四畳半のシェルター
しおりを挟む四畳半の私の部屋にあるのは、狭いベッドと、スマホと、テレビと、綿の寄った、くたくたのイルカのぬいぐるみ。
あとはただ床に落ちているだけのガラクタたち。
いつか脱いでそのままにした服も、何が入っているのか思い出せないくたびれたカバンも、斜めに削れた芯が少し出たままのシャープペンシルも、何も書かれていないのに何故か薄汚れたノートも、スパンコールの鈍く光るアイドルのグッズも、注文カードの刺さったままの題名の分からない小説も、巻数が揃っていない積み上げられたマンガたちも、今開けたと言わんばかりに、口を開いたままずっと放置されている段ボール箱も。
みんなみんな、ガラクタだ。
おかしいな。
服を買ったのも、カバンを選んだのも、何かを書こうとしたのも、追っかけをしていたのも、本屋で手に取ったのも、通販で注文したのも、私だったはずなのに。
本来の役目を果たすこともなく、ただそこにあることが、私の中で当たり前になってしまった。
ぎゅうっと抱きしめたイルカのぬいぐるみは、苦しそうに身体を曲げて天井を仰いだ。
部屋をわずかに照らす、オレンジ色の丸い光。電気のスイッチには手が届かないから、もうずっと、白い光がつくことも、オレンジ色の光が消えることもなかった。
この部屋では朝も昼も夜もない。締め切った遮光カーテンの向こう側から太陽がこちらを覗き見ても、私には関係ない。
カーテンは愚か、窓を開ける気もない。たぶん錠が錆びきっていて、開かないに違いない。確かめたことも、確かめるつもりもないけれど。
唯一の出入口は、下から微かに廊下の光が差し込む、部屋の扉だ。
内側から鍵をかけているから、誰も入っては来れない。誰も入って来てくれるな。
四畳半のシェルター。
何を守っているかも分からないが、そんな言葉が、ぴったりだと思った。
私は今日も、くたくたのイルカとともに横たわり、時折水を飲み、少しだけ甘い気がするクッキーを食べ、楽しそうに笑い声の上がるテレビの下の、もう何年も動いていない、埃の被ったゲーム機を眺めていた。
コンコン、と控えめなノックが聞こえた。
私は胸の、ちょうどクッキーを飲み込んだあとに水が通った場所が、かっと熱くなったのを感じた。
手元にあったマンガを、斜めに起き上がった体でぶん投げる。
バン、と一際大きな音がすると、ドアの隙間から覗いた影は、黙って消えた。
マンガはドアの前に落ちると、ハの字になって力なく横たわる。綺麗な色使いの表紙に一目惚れして買ったが、それが何色をしていたかはまるで思い出せなかった。
喉元に残った熱い何かが消えなくて、私は頭突きでもするかのように、枕に頭を埋めた。
ぎゅうっと力の限りイルカを抱きしめても、消えない。
それどころか何だか熱を増しているような気さえした。
テレビの笑い声が煩わしい。私は枕元にあったリモコンで電源を切った。
ぶつん、とあっさり閉じた黒い画面の向こうで、薄っすらとイルカを抱いて横になる私が見えた。
音もなく頬を伝って耳を濡らした涙に、燻る熱は溢れ出るように、嗚咽に、涙に、鼻水に形を変えて、部屋を埋め尽くした。
どうしてこうなってしまったんだろう。
こんな風になりたかったわけじゃないのに。
誰のせいだ。あいつのせいだ、あの子のせいだ、学校の先生の、お母さんの、お父さんの、みんなみんなみんな。
ずび、と何とも情けない音を立てて、鼻水が溢れ出た熱に栓をするように、私の呼吸を塞いだ。
鼻が詰まって息が詰まって、酸素の薄さに頭痛がし出して、私はようやく少しの冷静さを取り戻した。
脚にイルカを挟んだまま、半身をベッドからおろして、床に落ちているへこんだティッシュ箱をすくう。
あぐらをかいてだらだらの鼻水を目一杯の力で絞り出すも、鼻も息も変わらず詰まったままだ。
ほんとは全部、私のせいだなんて、そんなこと分かってるよ。
胸の熱は少し温度を下げたみたいだった。
その代わり、頭がぼうっとして、目が重たくて、喉が締まって、耳の奥が痛くて、鼻が詰まって、呼吸がしにくくて、ああもう何だか。
いっそこのまま、死んでしまえたら、楽なのに。
腫れぼったい目は意識せずとも勝手に閉じていった。
ガラクタばかりが目に入る視界が細くなり、消えて行く。
そんなことを言ったら、怒られてしまうね。
頭の中で、誰かが言った。もうずいぶんと聞いていない、私の声だ。
一体誰が怒るというのだろう。
価値のない人間なんて、いなくったって世界は廻るじゃないか。
私がいたって、いなくったって、何にも変わらないじゃないか。
私が生きている意味なんて、どこにもないじゃないか。
身体は段々と、自分のものじゃなくなったかのように、重たくなっていった。
イルカを抱きしめているはずの腕も足も、感覚がない。動こうとしない。
私は枕よりももっとずっと奥の、暗く底の見えない奈落に沈んでいくみたいに、ゆっくりと、遠く遠く離れて行った。
理不尽な誰かへの憤りも、その奥に隠れている自分への失望も、考える力はなくなっていた。
落ちるところまで落ちていけばいい。
抗う力もない私は、ひたすらどこかへ沈んでいく感覚に、身を委ねることしか出来なかった。
おばあちゃん家みたいな、中古の本屋さんのような、古臭い、埃臭い匂いがした。
目を落としていた私は、紫色の座布団の上に座っていた。
向き合うように、誰かが同じように座っていた。
白くて長い髪に、淡いピンクの模様が入った着物。中性的な顔立ち。
向かいのその人は見覚えがなかった。思わず顔を逸らしてしまったけれど、たぶん知り合いじゃないから、その人の目を、横目に見返すことが出来た。
「だ、れ」
絞り出すような声はかすれていた。自分でもみっともないなと思った。
だけどその人はそうだなぁ、と首を傾げていて、私のそんな様子など、気にも留めていないようだった。
「君の、親みたいなもんかな」
そんなわけがないだろう、と思った。
私の親は、もう随分姿を見ていない気がするが、母は、もっと背が低くて、少し太っていて、白髪を隠すように茶髪に染めている。
父はもっと大柄で、腹の形が服の上からでも分かるし、無精ひげを生やしていたはずだ。
どちらとも似て取れないくせに、私の親だなんて、どの口が物を言っているんだ。
私は思ったことを一つも言葉に出来なかったが、その人は表情一つ変えず、私をじっと見ていた。
ぼさぼさに絡まった髪も、よれよれで色の褪せた柄のTシャツも、長く伸びた黄色い爪も、どこかべたつく身体も、隅から隅をじっと、その人は表情を一つも変えずに、ただ薄く微笑んで、見ていた。
私は急に、何だか居ても立っても居られない焦燥に、立ち上がった。
絹のような髪を背中に流して、汚れ一つない白い着物を着て、膝の上で、健康的なピンク色の爪を揃えて、その人を語るのに美しい以外の言葉が見つからなかった。
そんな人が、こんな汚い私を見て、何を思うのだろう。
嘲笑っているんだろう、馬鹿にしているんだろう、哀れんでいるんだろう。
手が震えた。燻る気持ちのままに、何かを投げつけたかった。
だけどここは私の部屋ではなかった。手元に投げつけられるようなマンガはなかった。
かさついた唇をきつく噛みしめて、私は自分の後ろにあった扉へと向かう。
ギシギシと木の床が音を立てる。やけに自分の鼻息が、煩く聞こえた。
「帰るなら、出口はあっちだよ」
扉に手をかけた私の背中に、その人は言った。
冷静なその声にすら、何だかとても腹が立った。
帰るなら自分の横を通りなさい、とでも言いたげな、挑戦的なしたり顔に、私は一層膨らんだやり場のない熱を、木の扉を力任せに叩いて、少しだけ発散した。
「まぁ座りなさい。ここには何もないけど、おいしいお茶だけはあるから」
そう言ってその人は、肩で息をする私のことなど構いもせずに、呑気にお茶を入れ始めた。
急須にお湯を注ぐ動作すら美しい。ただ美しいということに、どうしてこんなに腹が立つのか、私は分からなかった。
丁寧に急須の中のお湯を回すその人の横を、私は足音を鳴らして通り過ぎた。
この人の前にいたくなかった。自分が何だか、とても哀れに思えたのだ。
その人が出口だと言った扉に真っ直ぐに向かう。後ろで、やたらゆっくりと、お茶を注ぐ音が聞こえた。
「どこに帰るの?自分の部屋?」
扉を引こうとする手が止まった。二つ目の湯吞に、お茶が注がれている。
あと少し力を入れれば開くのに、もう扉を開く気力はなかった。だらん、と手が落ちる。
同時に顔が歪んで、涙が止まらなかった。
私は図星をつかれたような、情けない気持ちになっていた。
怒りでいっぱいだったはずの胸は、今はもう、何だか悔しい気持ちでいっぱいだった。
その人がどういう意味で言ったか、私は分かってしまったのだ。あそこは私の部屋でも何でもない。
私がかき集めたガラクタで埋め尽くしただけの、親に与えられた部屋だ。
他人のものを、勝手に自分のものであるかのように見せているだけだ。
自分の部屋、と、即座に返せなかったことが、悔しかった。
何の勝負かも分からなかったけど、確かに負けたと思った私は、黙って元いた座布団に、正座して俯いた。
「君はさ、神様って信じているかい?」
差し出されたお茶をじっと見つめながら、私は首を振った。
昔は神頼みとか、よくしたものだった。大体は、想像した未来と逆方向に、事態は転がっていくものだった。
だから今は、そんなもの信じていない。
神様がいるなら、なんでこんなにも不平等で、生き辛い世界を作ったのか、理解が出来なかった。
神様がいるなら、どうして救いを求める人を助けてくれないのかと、どうして蔓延る悪に天罰を与えないのかと、理解が出来なかった。
なんで、どうして。
そう考えるたびに、神様なんて本当はいないからさ、と、囁く声に、妙に納得していた。
「自分に都合がいい時は神様を信じて、都合が悪い時は信じないなんて、自分勝手な人間だな」
ぎゅっと心臓を掴まれたような気がした。その人はふふ、と小さく笑うと、何事もなかったかのようにずずずっと音を立てて、お茶をすする。
私を自分勝手な人間と言うあなたは、自分勝手な人間じゃないのか。
そう言いたい気持ちだけが、言葉にならずに喉の奥で詰まった。
詰まった言葉は出てこなかった。私が自分勝手な人間なのを、私が一番よく分かっていた。
正座した脚がしびれ始めていたけど、動かせない。
膝の上で握った掌に、やたら伸びた爪が食い込んで、痛い。
お茶を飲み干したその人が、ことりと湯吞を置いた。私は顔を上げられなかった。
よっこいせ、とその人が立ち上がって、汚れ一つない足袋と、白い着物の裾が視界の隅に映る。
ギシっと床を軋ませて、その人は私の後ろに回った。私は首を竦めたまま、少しだけ、握りしめた手に力を込めた。
「人間てのはね、自分勝手なように出来ているんだから、悪いことなんて何一つありやしないよ」
意図せず跳ね上がった肩を、その人はゆっくりと撫でた。
ひと撫でするごとに凝り固まった心が払われていくようで、私は静かに、正座していた足を崩した。
「髪や爪が伸びるのは、生きているということでね。死んだ人間は時間が止まるのさ」
シャキン、シャキン、と規則正しい音とともに、ひと房、またひと房と、絡まった髪が私の横に落ちた。
傷んだ髪。何日も洗ってなくて、たぶん脂まみれで、汚い。自分でも触りたくないくらい。
それをどうしてこの人は、こんなに優しい手つきで、切ってくれているんだろう。
借りてきた猫さながら、動けずされるがままになっていた私の顔を、その人は突然、自分のほうへ無理矢理動かした。
骨の鳴った音に思わず、痛、と声が漏れて、その先で目が合ったその人は、少し驚いた顔をした後で、愉快そうに笑い声をあげた。
「これはね、あなたのためにしているんじゃあ、ないよ。私がしたいからしているだけのことさ」
シャキシャキと、鋏が小刻みに動く音がした。ぱらぱらと髪が、首筋をくすぐりながら落ちていく。
私のため、だなんて言ってくれなくてよかったと思った。
きっとそんなことを言われたら、頼んでもないのに恩着せがましい、と、思ってしまうと思った。
「ほら出来た。さぁ服を脱いで、風呂にお入り」
肩に乗ったままの髪を雑な手つきで払って、その人は私のTシャツを脱がせようと引っ張った。
私は自分でもびっくりするような、素っ頓狂な声を上げて、Tシャツを下に引っ張る。
鏡なんか見なくても分かるくらい顔が真っ赤で、何だか湯気でも出ているんじゃないかと思う私を他所に、その人は面白がっているのか、さっきと同じように、何故かとても愉快そうに笑った。
私はむず痒い、恥ずかしさにその人を睨んだ。それすらも、その人は笑った。
「おおお、お風呂くらい、一人ではいれる」
「そうかそうか。でも髪と背中くらい、流させなさいな」
「い、いやだ、自分で出来る」
「出来る出来ないの話じゃないのさ、私がそうしたいだけだからな」
「いやだ、この、自分勝手」
「ああそうさ、自分勝手なもんだからな、人間てのは」
その人は私の汚い部屋着を無理やり剥いで、風呂場に押し込んだ。
抵抗も出来ず、ただ背中を丸めて前を隠す私のことなんて問答無用とでも言うように、お湯をかける。
目に水が入って、私はぎゅうっと目を瞑った。わしゃわしゃと撫で繰り回される頭から、いい香りのする泡が顔に流れてきたりして、もう目は開けられない。隙を見て呼吸をするのが精一杯だ。
そのまま背中をこすられて、腰当たりからお腹周りに手が伸びてきて、私はまた、素っ頓狂な叫び声を上げた。
確信犯だったのか、愉快そうなその笑い声は、ひゅっと手を引っ込めると、文句が止まらない私の口を、頭からお湯をかぶせることで塞いだ。
ちょっと、と叫ぶ私は、手探りでお湯を探し当て、顔の泡を流してようやく目を開けた。
その頃には愉快な笑い声は扉の向こうに遠くなっていて、やり場のない怒りに、手元にあった泡だらけのスポンジを振りかぶった。だけど、何だか、投げる気も、お湯が流していってしまったみたいだった。
見るからに安物のそのドライヤーは、とても風力が弱い。
私が乾かしたいのさ。そう言ったその人は、私の髪を撫でるように触り、その弱い風を当てた。
「人間てのはさぁ、誰かのため、あなたのため、という言葉が好きよのう」
聞き取りにくい風の中、独り言のようにその人は漏らした。
私は聞こえていないフリをした。それでも構わず、その人は続けた。
「本当は、自分がしたいだけだというのを、何で人のためと言うのかねぇ」
「誰かのため、という言葉が、そんなに綺麗なものなのかのう」
「自分のため、という言葉が、そんなに汚いものなのかのう」
私は下を向いたままだ。その人の疑問に、答えられなかった。
誰かのために、という言葉は、綺麗で、正しくて、そうあるべきだと、私は思うからだ。
自分のために、という言葉は、我儘で、間違いで、多くの人間が暮らす社会で生きるために、そうあってはいけないと、思うからだ。
だから、誰かのために生きられない自分は、自分のためにしか生きられない自分は、間違いで、社会の中で生きることは出来ないのだと、思う。
社会の中で生きられないなら、どうして生きているんだろうとさえ、思う。
生きている価値はどこにあるんだろうと、思う。
風が止んだ。私ははっと、沈みかけていた心が戻ってきたのを感じた。
思わず振り返った私に、その人は薄く笑いかけると、愛おしそうに、手に取った木の櫛を私に見せた。
「これはね、椿の油を練り込んだ櫛でね、特別なものなのさ。とても綺麗になれる」
私を無理矢理前に向かせると、その人は、私の、肩くらいにまで短くなった髪を、すっと撫でた。
絡まらなくなった髪は櫛がすっと通る。何かをそぐように、何度も何度も、私の髪を撫でる。
「誰かのためにというのは、本当は所詮自分のためさ」
「人間というのは、なにをするにも大義名分が欲しい生き物でさ」
「それが誰かのためであるなら、美徳だとみんなが思いこんでいる」
すっ、すっ、と、音もなく、櫛が頭に当たっては、首元へ抜けていく。
誰かに髪を梳いてもらうのは、小学生ぶりだろうかと、ぼんやりと思った。
「自分のために生きることは、悪いことでも何でもないのさ」
「それを悪いというやつは、本当は人に何かをしてもらいたいだけの自分を、見つめることも出来ないやつでさ」
「自分のために、自分が何かをすることは自分勝手だと言う人がいるだろう」
「だけど、自分のために、誰かに何かを望むことが、本当の自分勝手だとは思わないかい」
髪を梳き終えたその人は、椿の櫛を大事そうに箱に仕舞って、私の肩に手を置いた。
私はじっと、その色素の薄い瞳を見つめた。頭の中は空っぽだった。
その人は呆けた私の手を取り、指をつまんだ。私は黄色く伸びた爪を、黙って見下ろす。
見上げれば、髪色と同じ色をした長いまつげが、ぱちぱち、と瞬いた。
「生き物は、生まれたときから死に始めているんだ」
「誰もがみんな、いずれは死んでいくことが決まってるんだ」
「寿命も命も取って代わるなんて出来ない、神様が決めた、唯一のルールさ」
「生が死へ向かうこと。それ以外のことはね、誰かが自分のために決めた、本当は意味なんてないことばかりなのさ」
パチン、パチンと、その人は私の爪に、刃を当てた。
私の爪が長すぎるから、痛くないようにと、少しずつ切ってくれているのが分かる。
それでもこの人は、私が痛くないようにではなく、自分がそうしたいからさ、と笑うのだろうか。
「だけどね、人間がルールを決めたのは、それがあると生きやすいからってだけでね」
「本当に人間がしてはいけないことと、唯一他人のためにしてやれることが、なにか分かるかい」
私は答えなかった。代わりに、まだ黄色い爪の伸びた左手を差し出した。
その人は、顔を上げることもせず、黙って私の左手の親指を取った。
だけど何だか、爪切りを当てる、俯いた顔は、微笑んでいる。
「本当にしてはいけないのは、無下に命を奪うこと」
満腹なライオンは狩りをしないのさ、と可笑しそうにその人は笑った。
だけど人間は余計な感情が多すぎるからと、呟いた声は、少しだけ寂しそうだった。その人は顔はあげなかったから、どんな顔をしているかは見えなかった。
「…誰かのために、してやれることは?」
パチン、と私の爪を切る音が止んだ。
黄色い爪がなくなっただけで、何でかとても、綺麗な指になったものだと、思った。
「誰かを悼むことさ」
それこそ、残された人間の、エゴじゃないのか。
そう言おうとした私の言葉は、色素の薄い瞳に射抜かれて、砕け散った。
動けない私を立たせて、風呂場に押し込んだ時よりも遥かに優しく、その人は私を出口へと導く。
私は肩越しに振り返ったまま、優しく目を細めるその人を、じっと見ていた。
「さぁ、綺麗な御人。もうおいき」
扉を引いたその人は、とん、と私の背中を押した。
私ははっとして、勢いよく身を起こした。
ガチャンと音を立てて、テレビのリモコンが落ちた。イルカのぬいぐるみが、苦しそうに潰れた顔でこっちを見ている。
夢か。寝ていたのか。
そう思ったと同時に、コンコン、と控えめなノックが聞こえた。
私は上手く働かない頭で、薄暗い部屋の中、床に散らばるガラクタたちを踏みながら、歩みを進めた。
そしてドアの下に落ちていた、八の字に開いたマンガを巻き込みながら、ゆっくりと扉を開けた。
何となく、夢に出てきた、あの色素の薄い人が、立っているんじゃないかと思ったのだ。
だけど違った。立っていたのは、もっと背が低くて、少し太っていて、茶髪の生え際が少し白い、母だった。当たり前だ、あれは夢だったのだから。
私は母と目が合うと、すぐに顔をそむけた。
ぼさぼさに絡まった髪も、よれよれで色の褪せた柄のTシャツも、長く伸びた黄色い爪も、どこかべたつく身体も、隅から隅をじっと、母は茫然とした顔で見ていた。
こんな汚い私を見て、何を思うのだろう。
哀れんでいるのだろうか。
震える手で私はドアを閉めようとした。
だけどそれは、今まで扉を開けようとしてこなかった母によって、阻まれた。
「なに、すんの」
「来なさい」
母は問答無用と言わんばかりに私を部屋から連れ出し、新聞紙の上に座らせた。
無言で髪を切られ、服を剥ぎ取られ、風呂場に放り込まれてお湯をかけられ、髪を洗われる頃には、私はもう抵抗する力を失くしていた。
たぶん強引さが、あの人に似ていたせいだ。
本当は誰かに連れ出して欲しかったのかもしれない。今更一人、素直になるのは難しすぎた。
風呂から出たまんまの、びしょびしょな私の髪に、母は黙ってドライヤーを当てた。
さも、まるで今までそうしてきたかのように。私の髪を乾かすなんて、小学生ぶりのくせに。
私は文句もお礼も言わず、黙って乾かされていた。あの人よりも乱暴な母の手つきは、少し懐かしかった。
母はささっと短くなった私の髪に櫛を通すと、今度はバチン、と黄色く伸びた爪を切り始めた。少し痛かったけど、文句は言わなかった。
あの人より雑だな、と思って、私は自分を、自分勝手なやつ、と蔑んだ。
母はあの人じゃないんだから、そんなの当たり前だ。母にあの人を望むのは、違う。
バチン、と下に敷いた紙の外へ吹っ飛んでいった汚い爪を母が拾った時に、ねぇ、と私は声をかけた。
「お母さんは、私のために爪を切ってるの?お母さんがしたいから、爪を切ってるの?」
母は私を一瞥して、だけど黙ったまま、私の足の爪を切り始めた。
指よりも伸びていない爪は、存外早く切り終わる。母は左足の小指の爪を切り終えて、初めて、そうね、と口を開いた。
「私があんたにしてやりたいから、してるのよ」
終わり、と母は、汚い爪をなかったもののように、紙と一緒に丸めてゴミ箱に放り込んだ。
ゴミ箱から覗く絡まった髪も、紙からこぼれた黄色く曲がった爪も、見ていると、何だかそれが伸びていた間の私を、捨ててしまえたような気がした。
「人間はさ、生まれた時から死に始めているんだって」
そう呟いた私に、カウンターキッチンの向こうへ行った母は、ふぅん、と興味なさ気に言った。
「価値のある人間にならなきゃとか、生きる意味を見つけなきゃとか、誰かのために何かをしなきゃとか、そうでなきゃいけない、それが正しいことなんだって言い始めた人は、きっと、そうしなきゃ生まれてただ死んでいくだけの自分が怖かったんだろうね」
母は黙っていた。何となく、聞こえていないフリをしているだけだと、思った。トントンと、何かを切る包丁の音が、無言になった二人の間の気まずさを刻む。
誰かが勝手に言ったことなのに、そうなれない私を、私が拒否する必要なんて、どこにもなかったんだね。
そう言った私に、母はそうね、とだけ短く返した。
「人間がさ、他人のためにしてやれるのは、その人を悼むことだけなんだって」
へぇ、と母は、上の空を装ったまま、興味なさ気に言った。
口を挟まれることも、話を遮られることもないのは、なんだかとても、久しぶりだった。
「どうして悼むことだけ、してあげれるんだろう」
トントンと、包丁の音が止んだ。
私はカウンターキッチンの向こうの、母を見ていた。
母は白くなった髪の生え際を私に見せたまま、包丁を器用に使って、野菜を笊に移しているようだった。
「…悼むことは、その人が安らかに眠れるように祈るということでしょ」
母はまた別の何かを切りながら、ぽつりと零すように言った。
その目は何かを思い出しているように見えた。
「どんなに自分のために生きても、死んでしまったら自分のためには祈れないのよ」
たぶん、と母は付け加えた。
死んだことないから分からないわね、という母は、恐らく無意識に、ため息を吐いた。
私はそんな母を見て初めて、母も人知れず死へと向かっている人間なのだと、自覚した。
「お母さんのことは、私が悼んであげるよ」
そう、と母は、顔色一つ変えずに言った。
そんな母がようやく私の方を向いたのは、私がカウンターキッチンの入り口に立った時だった。
「そのためには、お母さんより長生きしなきゃいけないからさ。
…料理の一つくらい、教えてよね」
母は目を丸くして私をじっと見つめていた。
私は何だか、とても気恥ずかしい思いで、思わず目を逸らした。
だから私は、この時母がとても優しく微笑んでいたことを、知らない。
「…そうね。老後に食べられないものを出されたんじゃ、たまらないものね」
そう言った母に向き直ったら、見たこともないような、泣きそうな顔で私を見ていた。
私もなぜか、胸の奥が熱を持って、喉が締まって、零れてしまいそうだった。
ネギが目に染みるわね、そう言って息を吐いた母に、私はうん、とだけ、短く答えた。
その週末、私はいつの間にか無精ひげのなくなっていた父と、部屋のガラクタたちを一掃した。
シェルターはすっかりなくなった。四畳半って、意外と広いんだな、と思った。
変わらず私の傍にあるのは、広くなったベッドと、スマホと、テレビと、綿の寄った、くたくたのイルカのぬいぐるみ。
それさえあれば、もう一度あの人に会える気がした。願掛けみたいなもんだった。今度は私が、人間の話とか、生きることとか、死んでいくこととか、そういう話をたくさんして、どっちが正しいとか、間違ってるとか、そんな話になったら自分勝手だなぁなんて笑い合って、それで帰る時に、さり気なく一言お礼を言ってやろうと、そんなことを思っていた。
自分に都合がいい時は神様を信じて、自分勝手な人間だな。
ふふ、と小さく、仕方なさそうに、誰かが笑ったような気がした。
神様は意地悪だから、自分勝手なあの人に会えるのは、もう少し先のような気がした。
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