さようなら、初めまして

れい

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スイカの食べ方

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梅雨が明けた。あと一週間もすれば七月だ。八月には夏休みだ。高校二年生の夏休み。最高だ、早く来い、私の素敵な時間。ああ、乾いた靴下で歩くことの、なんと素晴らしいことか。
一転、ため息。馬鹿を言うな。そんな余裕ないわ、と私は一人心の声に芸人ばりのノリツッコミを入れ、燦々と煌めく太陽に毒づいた。
背中のリュックが暑い、重たい、端的に年齢相応らしく言うと、うざい。
夏休みは楽しみだ、そりゃもう何をしようかどこへ行こうか今から計画を立てるほどには楽しみだ。だけどそのご褒美の前には、期末テストとかいう訳の分からないイベントが待っている。
この間まで体育祭で筋肉痛で、そのちょっと前が中間テストだったのに、なぜまた勉強を迫られているのか。
学生なのだから当たり前だ。私たちの本分は学業だ。分かっている。分かっているけど、やっぱり意味が分からない。分かりたくない。
だけど、長期休みというご褒美が欲しければ、過酷な試練は乗り越えなければならない。乗り越えられなかったらどうなるか?単純だ。エアコンもない補修という名の灼熱地獄に身を投じ、貴重な時間を食い潰すことになるだけだ。
その地獄だけは何としても避けなければならない。何故なら、下手をすれば、夏期講習参加という二重の拷問を受ける羽目になるからだ。今朝新聞の下から覗く、大手塾の夏期講習、という文字のある広告を、母親が眺めていたのを私は気付いていた。
普段はロッカーや机の中に置き去りにしている教科書たちは珍しく私とともに帰宅していた。持って帰りすぎて、肩が痛い。もうご老体だ。リュックを机に置くと痛そうにゴン、と鈍い音を立てた。八つ当たりとかじゃない、単純に重みに慣れていないだけだった。
昨夜の流行りのドラマは見ていない。いわゆる録画勢だ。女子高生は忙しいが、私にとって優先されるべきは夏休みの確保だった。

先週の水曜日から私の運気はたぶんだだ下がりだった。みんなが雨続きでうんざりしている中、その日のロングホームルームは、珍しく和気あいあいとしていた。席替えだ。喜ぶものと、文句をいうもの。
一番後ろの席で、しかも彼女が隣だった私は、後者だった。でも不満の声を上げたところで、変わらない。どうせいつかは席替えするのだ。
先生の用意した、先端に番号の振られた割り箸で、私たちは机の中身だけ入れ替わる。
また彼女と隣の席になったりしないかな、という儚い願いは見事に打ちのめされた。私は教室のど真ん中の位置を引いた。彼女はまた一番窓側の、ただし今度は最前列。
隣人が誰であろうとどうでもよかった。今は彼女と離れてしまったことが心にきていた。たぶん、恋する乙女が好きな人の隣になれなかった時と、同じ気持ち。
私は、芯の出ていないシャーペンで、机の右上に細く刻まれたバカ、の文字を、溜息を吐きながらなぞった。この文字を刻んだ人は、どんな思いで刻んだのだろう。

「しょんぼりしてる」

昼休み、彼女の前の教壇に腰かけた私を、彼女は笑った。
彼女にしてみたら、こんなチョークの粉まみれのところに座っている私はかなりあり得ないだろう。
だけど、彼女の隣の席になった男子が席を立たないから、私はそこに座って、膝の上でお弁当を広げていた。

「授業中、寝てても意外とばれない位置だけどね」

「だめだよ授業は聞かないと。だから期末テストに苦しむことになるんだよ」

ふふふ、と彼女は笑った。ぐぅの音も出ない正論に、私はウインナーを口に入れた。タコさんウインナーは、中学生のお弁当時にお別れして以来、再会していない。
勉強教えようか、という珍しく彼女から歩み寄った提案に、私は玉子焼きを落としそうになった。

「え、あ、じゃあさ、今日からうち来てよ、テストまでお泊まりしよう」

お弁当を落とさない、ぎりぎりの前のめりで、私は彼女に提案した。明らかにびっくりしている彼女を見て、男子高校生がデートに誘うのに失敗したような、ちょっとした気恥ずかしさを覚えた。

「あ、いや、待って、だめだ、部屋掃除機かけてない」

勉強に精を出すと、部屋は汚さを増す。厳密に言うと、勉強しているのを見れば、部屋を片付けていなくても、母親は私に何も言ってこないのであった。…うん、今のは完全に母親のせいにした。悪いのは部屋を片付けず、汚す一方の私だ。
私が慌てて発言を撤回したが、予想と違い、彼女はいいよ、と笑った。

「え、大丈夫なの?」

うん、と彼女は、ちぎった梅干を小さく乗せた白米を口に運ぶ。私の視線は、彼女の手袋を追っている。彼女も、それを意味するのは、分かっていたようだ。

「大丈夫だよ、きっと綺麗だから」

本当に汚いんだけど、と冷や汗を流した私は、すぐさま母親に救難信号のLINEを飛ばした。
そのLINEに既読がついたのは私たちが昇降口を出る時だ。母親は今日15時まで、食品加工のパートの仕事だったのを、私は完全に忘れていた。









私たちは一旦彼女の家に寄って、それから私の家に向かった。
彼女に言われ、玄関のドアの横で待っていたのだが、人の家に玄関だけでも入るのは久しぶりだった。高校生になってから、学区という概念がなくなったから、友達の家に遊びに行くことはみんなめっきりなくなっていた。
お待たせ、という彼女はまさかのキャスター付きのカバンを引きずっている。その大荷物に旅行みたいだ、と思ったけど、私の家は一応ぎりぎり他県に当たるので、彼女からしたらちょっとした旅行に違いなかった。
駅に向かう途中、友達の家に行くのは初めてだという彼女は、どきどきするね、と胸を押さえて、深く息を吐いた。なんだかつられて、私も緊張する。中学生の頃、友達の家に招かれることは多かったが、招くことは下手したら小学生ぶりだ。
そういうと、なんだ、初体験ではないのか、と少し拗ねたように、彼女は意地悪を言った。

どうしよう、と思ったのは、駅の改札でだ。

いつもの私なら気付いていただろうか、そんなことを考えても遅い、何にせよ今日はそこまで気が回らなかった。たぶん浮かれていたのだ。初めて彼女と丸一日一緒にいられることに。
彼女は電車の中で、気分が悪そうに、顔を顰めていた。心配した駅員が話しかけてきたが、それすら嫌だというような気配を感じたので、私は代わりに大丈夫です、と口早に答える。大丈夫ではなかったが、駅員に構っているような余裕は、もっとない。
帰宅ラッシュよりも少し早い時間なのと、上りの電車であることが幸いして、電車は座席が疎らに空くくらいには空いていた。だけど彼女は座るどころか、吊り革も、手すりも、指紋で曇ったドアにも、まるで近付こうとはしない。私たちは一番前の車両の、運転手の後ろの少し広く空いたスペースを陣取った。席も空いているし、人も来ないといいのだけど。
私は相変わらず気分の悪そうな、難しそうな顔をしている彼女に、なんて声をかけたらいいか分からずただただ電車に揺られながら、突っ立っていた。不思議なもので、彼女が何にも触ろうとしないからか、それが伝播してか、多少大きく揺れようが、私も吊り革を掴もうとは思わなかった。線路をがたがたと進んでいく、電車の音だけが鼓膜を震わす。そこに、少し高い金属音が差し込んで、電車は停止した。

「停止信号です、停止信号です」

電車は、住宅街のど真ん中に緩やかに停止した。二分もしないうちに、がたん、と少し大きく揺れて、小さく唸りながらまた速度を速めていく。油断していた。やってしまった。私は、発車時にバランスを崩した彼女の腕を、反射的に捕まえていた。

「ごめん、」

彼女の手をすぐさま離して、私は数時間前の自分を呪った。こんなことなら、電車に乗らなくてはいけない私の家ではなく、徒歩で行ける彼女の家を懇願すればよかったのに。
だけど予想に反して、彼女は私の腕を、自分から少し強めに握った。白い手袋にしわが寄る。え、という私に、彼女は絞り出すように声を出した。

「吊り革は無理だから、掴まらせて」

それだけ言うと、彼女は押し黙った。万が一にも転ばないように、慣性の法則に逆らって踏ん張っているのだ。私の体は混乱する頭を他所に、必死でバランスを取った。
いまいち基準がよく分からなかった。そりゃそうだ、彼女と似ている部分があっても、私は潔癖症ではないのだ。








何とか無事に最寄り駅まで帰ってきた。正直途中から、帰れるかすら不安に感じていた。私も彼女もへとへとだ。いや、たぶん彼女のほうが心も体もへとへとだ。長い息を吐きだしたが、ハンドタオルを敷いてでも腰をおろせるような場所はない。
傍から見てもぐったりしている私たちの顔を上げさせたのは、短く二回鳴らされたクラクションだった。
見慣れた黒いワゴンカーの運転席で、母親が私に手を振っている。
こっち、と私は、電車の中から繋いだままだった彼女の手を引いた。

「もうちょっと考えて行動しなさいよねー」

文句を言いながらも、母親は案外用意周到だった。
まさか後ろの座席に、未使用のビニールのゴミ袋が用意されているとは思わないではないか。彼女はすみません、と軽く頭を下げたが、後部座席にゴミ袋を敷いて、その上に座った。彼女が潔癖症だということは、既読のついた救難信号の後に、念の為言っておいたのだ。正解だった。母親は気にしないで、と彼女に手を振って、車を発進させる。私は彼女の右隣に座ったのだが、ルームミラー越しに母親と目があった。私は十数年間見てきた母親が、初めて潔癖症に僅かでも理解がある人間だということを知った。僅かでも、といったのは、わざとだ。
だって僅かでなければ、さすがにスイカはないだろう。

「この間おばさんからもらったスイカを冷やしてるのよ、ご飯の後にでも食べる?」

「え、スイカはちょっとどうなの」

私は、彼女がスイカを貪るところなど想像できなかった。あの綺麗な白い手袋がびちゃびちゃになるではないか。それは梅雨の濡れた靴下なんかよりも、たぶん遥かに気持ち悪いと思う。母親はそうかー、と自分の失態を悔やんでいた。ほれみろ、やっぱり、数か月一緒に過ごしてきた私のほうが、彼女に対して理解がある。
そう思ったのに、彼女は数回瞬きをしてから、たぶん大丈夫ですよ、と答えた。え、と振り向いた母親に、私は前!と叫んで運転に集中するように促す。母親も混乱していたが、私も少しだけ混乱していた。
その晩、まさか彼女が、お皿の上で倒れた三角形のスイカを上品なコース料理のお魚でも食べるように、ナイフとフォークで華麗に平らげるとは思ってもいなかった。指先を赤透明に汚しながら食べる私とは違い、口元をティッシュで拭く動作すら、気品漂うものだ。ぽたぽたと私の指から滴る赤い水滴を、彼女は面白そうに眺めている。

「綺麗だね」

えっと、と私は、ためらうようにして、口に溜めていたスイカの種をぽとぽと吐いた。ちなみに彼女は、魚の骨でも取るように、器用にフォークの端に乗せて、お皿の上で揃えている。テーブルマナーも疎かな私はそんな上品な芸当は、持ち合わせていない。

「ごめん、さすがにそれは全然意味わかんないや」

「ふふふ、そりゃそうだ。分からなくていいんだよ」

彼女はまた一口、スイカを口に運んだ。おいしいね、と笑う彼女のスイカは、たぶんもう大分温い。
私は少し赤い部分の残った薄緑色の皮を置いて、手洗ってくるね、と水滴が落ちるよりも早くキッチンに駆け込んだ。
彼女はたぶん、あの体育祭のツーショットの時と同じ目で、私の後ろ姿を見ていた。
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