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◆第三章◆
*3* 溺れる者は敵でも掴む。
しおりを挟む――ショリショリショリショリ。
――ポチャン。
――ショリショリショリショリ。
――ポチャン。
――ショリショリショ、
「あの、ジェルミーナさん?」
「ん……どうしたエレオノーラ?」
「ええと、その、今日の夜はそんなにジャガイモを使う予定はないので、もうそれくらいで皮むきを止めて頂いても大丈夫ですよ?」
ぼーっとジャガイモの下準備をしていた私に、そう困惑と気遣いの言葉をかけてきたのは、雇い主で大家でもあるエレオノーラだった。
その表情が僅かに引きつっているのも当然で、ふと手を止めて足許に置いてあった水を張ったバケツを見ると、そこにはバケツに収まりきらずに溢れたジャガイモと水溜まりが広がっている。
下らないミスに舌打ちをしそうになるのを寸でのところで堪え、剥きすぎた大量のジャガイモを前にどうしようかと悩んでいたら、エレオノーラは小さく噴き出してジャガイモを拾い上げた。
「そんなに心配しないでも大丈夫です。マッシュポテトとポタージュと、くし切りにして揚げても良いですし、ホワイトソースでマッシュした分を伸ばしてチーズやベーコンと一緒に焼けばキッシュにもなります。ジャガイモは献立に困りませんからあっという間になくなりますよ」
本来今夜の予定になかったであろうメニューを、一つ一つ指折り上げていくエレオノーラの姿は頼もしい。この山のようなジャガイモが今夜中に全て使い切れる気がするほどだ。
野菜の皮を剥くようになってから結構経つが、未だに調理をしてみたことはない。だからこそこれほどまでにスラスラと献立を考えつくエレオノーラには、毎度感心を通り越して感動してしまう。
おまけに「心配事がある時に刃物は使わない方がいいですね」と言って、私の手からナイフを取り上げてしまった。途端に手持ち無沙汰になった私に代わりに与えられたのは怪我の心配のない箒とモップ。
そんなエレオノーラからの優しい戦力外通告を受け、夜間営業を前に店内と店先の掃除を行いながら街の人間達の会話に耳を傾ける。仕事の話、家族の話、同僚の話、恋人の話、気候の話。
どの会話内容も他愛ない日々の出来事ばかりだ。こうしてここで働いていると、時々腰から下が大きなサメの尾ヒレでなく、二本の脚であることが当たり前のような錯覚に陥ることがある。
そんな馬鹿なことがあっていいはずがない。たとえ陸に上がろうとも、私は青海の戦士だ。人間のように脆弱な生き物とは違う。長姉たるもの、妹の仇を討つまでに人間に心を許しすぎてはならないだろう。
思わず気負ったせいで、握っていた箒の柄からミシリと嫌な音がした気がしたものの、握った手を開く勇気がない。というか開かなくても分かる。これでもうここで働き始めてから通算四本目の箒が犠牲になった。
掃き掃除ひとつまともに出来ない自分にうなだれていると、背後から「あの、まだちょっと早いんスけど……もうお店ってやってるッスか?」と馴染みのある声がかけられて。振り返った先に立つ、店内のエレオノーラを気にしているファビオに向かってグッと親指を立てる。
最近の楽しみと言えば、この不器用な恋の行方を見守ることだけだ。
そして「か、からかわないで下さいッス」と頬を赤く染めたファビオに、口許だけで微笑みかけてから――……箒の柄を握っていた手をソッとその目の前で離してこの状況を無言で説明する。
すると呆れたように苦笑したファビオが「あ~……またやっちゃったんスか? 良いッスよ。一緒に謝ってあげるッス」と言ってくれたのだった。
***
一日の仕事を終えて夢遊病のようにふらふらと海岸を目指し、いざ砂浜から波打ち際にグングニルを抱えて佇めば、特大の溜息が零れるだけというのも情けない。
どうしようもない結論が出た。
しかもすでに帰還してから十五日目の夜だ。
「やはり私の頭で考えるだけ時間の無駄だな。もう後のことは後のことで考えるとして――……海を割るか、と言えれば良かったんだがなぁ」
その間に弟妹から届いた手紙は一通だけ。
それも“姉上がそちらで孤軍奮闘されているのに、弟妹揃って縋ることしか考えず……申し訳ありません。前回の弱音は忘れて下さい。こちらは私たちで何とかしてみせます”という心配の上塗りにしかならない内容の手紙だ。
――結論は、すでに出た。
私だけではどうすることも出来ないという結論が。
グングニルを送り返したいのなら海を割れば済む。これは間違いない。しかし問題は海を割った時にこの身体では岸に戻れないだけではなく、あることが大きく問題として残るのも間違いないと分かったのだ。
海を割る、周辺の海水が海面が割れたぶん膨張する。さてこの海水がどこにたどり着くかといえば……私の立つ、この波打ち際だ。後ろを振り向けば海に近すぎるザヴィニアの城が見える。直接波を被るのが城だけならば大雑把な復讐としてはありだろうが、あの城の前にあるのは城下町だ。
城下町にはここへきてからだいぶ見知った顔も増えたし、何よりエレオノーラが命と同様に大切にしている店がある。流石に一般人まで巻き込んでの復讐は規模が大きすぎるだろう。
とはいえ無駄だと分かっていてもじっとしていることも出来ず、毎晩肩まで海水に浸かるのだが――……この身体だとそれも厳しい季節になってきた。人魚であるにも関わらず、この程度の水温でもグングニルを握る手が小刻みに震える。夕方には何とも思わなかった二本の脚が海中で波にふらつくことが、今は酷く恨めしかった。
お守り代わりに首にかけている甥っ子達からもらった首飾りは、連なる珊瑚や真珠の幾粒かが旅の路銀に化けてしまった為に、贈られた当初よりもほんの少し短くなってしまっている。
波で水面に押し上げられたり沈んだりしている白や朱の輝きに、ぼんやりと魅入っていたその時――。
「コソコソと夜中に何をしているんだ、小娘。本来の姿ならいざ知らず“人間”の身体でこの季節にこんな馬鹿げたことをしていたら、あっという間に肺を病んで死ぬぞ?」
背後の砂浜からかけられた飄々としたその声に、バシャンと激しく水音を立てて振り返れば、そこには私が騎士団を出て行かなければならない元凶となった男が、ニヤニヤと胡散臭い笑みを浮かべて立っていた。
「……貴様いつからそこにいた?」
多少の油断はしていたかもしれないが、それでも気配を探ることを怠っていたわけではない。それなのに容易く背後を取られたことに底知れないものを感じて、グングニルを握る手に力が籠もる。
「ははは、いつからかって? お前さんが気付いていなかっただけで、最近ずーっと無謀なことをしている姿を見ていたさ。それよりもその剣呑な気配は私とやり合うつもりか?」
相変わらず飄々とした食えない反応だったものの、その瞳が直前に月が雲に隠れて訪れた暗闇に赤く燃える。同族が好敵手を前にした時に見られる鮮血色の瞳に、無用な争いで傷を受けることを避けたい私はグングニルを持つ手から力を抜く。
本心では、一度、思う存分やり合いたい。そんな渇きを憶えるような強者への戦闘欲求には、この脆弱な身体でなければ抗えなかったことだろう。
「そうそう、それでいい。同族(サメ)だから頭は少々弱いようだが素直なのは美徳だな」
「私が騎士団にいることが気に入らないというから出てやったのに、何故こんなところに貴様がいるのだ。答えろ“団長”」
「ふん……頭の弱いお嬢ちゃん。私はお前さんにオズヴァルトに近付いて欲しくないのだよ。あれは今は亡き親友の忘れ形見だ。お前さんみたいな訳ありな輩が傍にいたんじゃあこっちも心配でね」
咄嗟に訳あり度合いで言えばお互い様だろうと返してやろうかと思ったが、わざわざ接触したくないはずの私の前に姿を現した話の本題を知りたくて、黙ったまま睨みつけるだけに留めた。
すると相手は「成程、絶望的な馬鹿ではないか」と失礼な感想を隠しもせずに口にする。……確かにサメ科の人魚は基本拳でしか会話をしないが……元は同族のくせにと思わないでもない。
暗闇の中で赤い双眸が互いに牽制し合っている頭上で、雲に隠れていた月が再び顔を覗かせた。途端に白い光が辺りを柔らかく覆い、世界を優しく彩る。
次の瞬間、月光に僅かに目を眇めた私に向かって無礼な“団長”が口を開いてこう言った。
「どうだお前さん。同族のよしみで私と取引をしてみる気はないか?」
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