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◆第三章◆
*4* 溺れる者はカナヅチも掴む。
しおりを挟む一瞬何を言われたのか理解するために、寒さで凍える脆弱すぎる身体をグングニルで支えながら言葉を咀嚼する。しかし只でさえ元からあまり血の巡りがよくない頭では、睨み付けたところでニヤニヤとした表情を崩さない男の内面など読めるものでもない。
「はっ、取引だと……? そもそも貴様と私で何を取引する必要があるのだ。第一近寄らせたくないというがな、こちらも最初から近寄ろうと思って近付いたわけではない。あれがお人好しすぎただけのことだ」
ようやっと気力を振り絞ってそう答えたものの、十一月の海に体温を奪われた身体から出る声は情けなくも震えていた。そんな私の言葉にさも可笑しそうに嗤う男に、カチカチと歯の根が合わずに立つ耳障りな音が聞こえないように食いしばる。
しかしそんな痩せ我慢をする姿すら相手にとっては愉悦でしかないのか、目を細めた“団長”は「取り敢えず海から上がれ。今の身体の私やお前さんにとって、そこは揺り籠にはなりえんよ」と笑う。
深みのある声はまるでこちらが脅威になるとは思ってもみない余裕を感じさせ、そのことにも腹が立つ。けれど確かに男の言うように身体の内側からも上がる悲鳴に舌打ちを一つ、覚束ない足取りで海から砂浜へと戻った。
水から上がれば上がったで、今度は海風が容赦なく吹き付ける。その寒さに耐えながら羽織ってきた厚手の上着を着ようとしたところで、不意に上着を手から取り上げられた。
「おい、何のつもりだ貴様。それを返せ」
「あーあー、うるさいお嬢ちゃんだ。そんなに震えていたら袖に腕を通せんだろうが。私が持っておいてやるからさっさと腕を通してしまえ」
意外にもその声には飄々としたものが含まれてはおらず、むしろ苛立ちを滲ませている。だからだろうか、あまり無駄に言い合う気にならず持ち上げられた上着に腕を通した。
こちらが上着を羽織った姿を確認した“団長”は、自らが首に巻いていた襟巻を外して頭にぐるりと巻き付けてくると、眉根に皺を刻んで「何でサメ族はこうも馬鹿ばかりなんだろうなぁ」と呆れた風に溜息を吐く。
否定しようにも現状その“馬鹿なこと”をやらかしている身としては、何も言い返せる言葉がない。短絡的で先が読めないのがサメ族の血だ。それ故に人魚の固有種族としての数は非常に少ない。
……理由は簡単に馬鹿だから死にやすいという点でしかないのだが。
元・同族にそう指摘されて居心地が悪くなった私が「貴様、取引だとか抜かしていたが……いったいこちらに何の益があって、そちらに何の狙いがあるんだ?」と話を切り出した。
けれどかなり尖り気味な声になった自覚があったにも関わらず、相手はまたニヤリと掴み所のない笑みをその顔に浮かべて、言った。
「なぁに、取引とは言っても難しいことが苦手な同族相手だ。そう肩肘張るようなことを言い出すわけじゃない。うちのオズヴァルトに里帰りをするように仕向けて欲しいんだわ。それが出来たらこんな時間に毎晩悩んでいるらしいお前さんの困りごとを、一つだけ解決してやろう」
すでに魔女の呪いをこの身に宿した立場から見ても、明らかに怪しいその誘い。しかしそんな誘いに抗うことが出来ないほどには、今のこの身は詰んでいたのだ。
***
――あれから六日。
上に下に、フワフワと突き上げたり沈み込んだり。懐かしい心地に翻弄される私の横では、屍と化したオズヴァルトが時折呻きながら寝込んでいる。昨夜まではまだ青ざめているといってよかった顔色も、今は蝋のように白い。
脂汗が滲む額に張り付いた前髪を指先ではがしてやりながら、船員からもらってきたチャプチャプと踊るボウルの真水に布を浸して拭う。この季節の水は人間にはかなり冷たい。おかげで“船酔い”している奴にとっての気付け効果はありそうだ。
大きな身体を質素な寝台の上で堅く丸めて呻くだけの姿は、かなり哀愁を誘う。出立前に団長から事前に、コイツが幼い頃に海難事故にあってから船が苦手だと聞かされていたがここまでとはな……。
揺れない地面の上では相当な武力を誇る人間がこうも弱るとは、心的外傷(トラウマ)というのは侮れないものだ。そんなことを考えながら水を絞った布で汗を拭ってやる。
けれどそれでも誰かに付き添われている分まだ少しは安心しているのか、一日目に比べれば夜の譫言も減った。
そもそもここまで酷い症状ならば、せめて陸路で行かせてやれば良いのにとは思ったものの、陸路は海路に比べて迂回路が多いらしく、片道で三日も余分にかかるという。
だからこそオズヴァルトは帰郷を渋ったのだろうし、だからこそ私は海路経由での帰郷を勧めた。
あの晩食えない男から出された取引内容は、確かに話を聞くだけならば、怪しいなりにも“それだけ?”と首を傾げるような内容だった。
選べる立場になかった私は即座に『やる』と答えはしたのだが……まさかその間に“不仲な母”と“十数年ぶりの帰郷”という言葉が挟まるとは思ってもみなかったのだ。そんな六日前の浅慮な自分に心底呆れつつも、時間がないことで背に腹は代えられなかったのだと言い訳をする。
実際翌日には【偶然】街中で一緒になってしまった風を装ってオズヴァルトに近づき、驚くコイツを連れてその足でエレオノーラの店に向かい、驚く彼女に目配せをして話を合わせてくれるように頼んだ。
食事をしながら『俺の記憶にあった景色は、どうもあの街ではなかったようでな。だったらこの国にある街を虱(しらみ)潰しに当たろうかと思ったんだ』と適当な内容を口にした。
そんな嘘の近況報告をしていく内に【偶然】オズヴァルトの故郷の話題に触れ、態とらしいほど記憶のないことを強調し、大袈裟に故郷があることを羨ましがって見せた。そうすると当初はその話題に難色を示していたオズヴァルトも段々と態度を軟化させていく。
勿論そこに至るまでの話の導線や何やかやは、全て胡散臭いあの男に与えられた筋書きだが、お人好し故に同情的な気分になってしまったのだろう。その隙を逃さずガンガン攻め込めば『奇遇だな。ちょうど団長にも帰郷を勧められていたところだったんだ』と苦笑した。
私の頭では用意された筋書きを一夜漬けするだけでも骨だったが、おかげで怪しまれずに会話をしながら家族の話、ひいては途中までは一緒に行くからと帰郷を促す流れに軟着陸出来たのだ。
だが手段を選んでいる場合ではなかったとはいえ、やはりこの状態のオズヴァルトを目にすると罪悪感が頭をもたげる。団長にどんな海難事故だったのかは訊ねなかったが、これほどまでに弱るからにはそれなりに大きな事故だったに違いない。
果たして本当にこれで良かったのだろうかと今更すぎる疑問を持ちつつ、ひとまずは看病に専念することに決めた。出来ればこれを期に少しでも船に慣れないものだろうかと都合の良いことも考えてしまう。
何度目になるか分からない水に濡らした布を額に当ててやっていると、不意に手首を掴んだオズヴァルトが「……すまない、アルバ。お前にもやるべきことがあるのに、こんな私事に付き合わせてしまった」と弱々しく囁く。
「いいさ、気にするな。偶然向かう方角が被ったんだ。元・同僚のよしみとして船酔い野郎の面倒ぐらい見てやる」
そう言って罪悪感を押し隠して肩を竦めてみせると、オズヴァルトは弱々しく「……助かる」と答えたきり、再び目蓋を閉じて眠り始めた。浅い眠りに微かな寝息が混じり合う二人用の船室は、罪悪感に苛まれる私が吐く溜息でほんの僅かに室温を上げる。
予定している到着日は明日の昼頃。
願わくばどうかこの里帰りが、コイツにとって何か少しでも良い結果をもたらしてくれますように。
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