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45 証拠写真
しおりを挟む「ただいま……。はあー、マジで寒すぎだろ」
玄関の扉が軋む音とともに、噂の張本人の声が家の静寂を破った。
その瞬間、室内の空気がぴんと張りつめる。
(まさか、倫太郎が帰ってきたの……!?)
だるそうにブランド物のマフラーを外しながら、倫太郎が居間に入ってくる。
黒地の高級そうなコートが、彼の身なりの異様なほどの整いを際立たせていた。
――友人から借りたお金の使い道は、自分の身なりを磨くためだったの……?
信じられない思いで見つめていると、倫太郎はソファに座る私を見つけ、息を呑んだ。
「……つ、紬……!? なんで!? まさか、俺に会いたくて……!?」
倫太郎はぱっと表情が明るくなり、迷いなくこちらへ歩み寄ってくる。
家族がどんな顔をして彼を見つめているかなど、露ほども気づいていなかった。
「神崎さんと、うまくいかなかったんだな?」
「…………はい?」
小さくつぶやかれたその言葉に、私は思わず倫太郎の顔を凝視してしまった。
「まあ、神崎さんは芸能人並みにモテるからなー。俺は、最初から釣り合ってないと思ってたんだよ。ああいう人は結局、もっと上のレベルの女を選ぶからさ。それなのに、あの人は紬に夢だけ見させて……本当、悪い男だよな」
どうやら倫太郎は、私が利仁さんと別れたと勝手に思い込んでいるらしい。
しかも、私たちが破局したと信じて疑わず、表情は喜びを隠しきれていない。
(……本気なの?)
心底うんざりした気持ちが胸に広がる。
私はソファから立ち上がり、まっすぐ倫太郎を見据えた。
「おかげさまで、利仁さんとは順調よ。今日は、ふたりで貯めた結婚資金を、返してもらうためにきたの」
「なっ……」
その一言に、倫太郎は何かの冗談だと言わんばかりに瞳を揺らす。
私がお金を返してと言うとは思わなかったらしい。
もう結婚することはないのだから、当たり前のことなのに。
(もしかして、自分のものだとでも思っていた……?)
もしそうなら、倫太郎の中で私はどこまでも都合の良い女だったようだ。
その事実に、今更ながら胸に刺さる。
そのとき、倫太郎が縋るように手を伸ばし、腕に触れようとしてきた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ、その話は――」
私は迷いなく腕を振り払う。
「もうみんな知ってるよ。嘘つかないで」
はっきり伝えると、倫太郎の表情が引きつり、急激に青ざめていった。
その様子を、里佳子さんも奈緒子さんも、黙って見つめている。
「倫太郎」
光太郎さんの静かな声が、刀のように空気を切る。
「紬ちゃんに、まだ嘘をつくつもりか?」
「はっ!? ……嘘なんて――」
「十年記念のディナーも旅行も、全部嘘。ウェディングドレスの予約も、嘘なんだろう? お前、どこまで紬ちゃんを巻き込む気だ?」
「っ、父さんがなんでそのことを!? い、いや、ち、違うんだって……!」
追い詰められた倫太郎は、突然ばっと鞄をあさり、震える指でスマートフォンを取り出した。
光太郎さんに責められるのが怖いのか、画面を操作する手つきは明らかに動揺している。
「ほ、ほら、これ! 証拠写真! 本当に行ったんだって!!」
画面に映っていたのは、私が見たことのない豪勢なディナー。
煌びやかなホテルのロビー。
絵に描いたようなリゾートの絶景。
どれも“本物らしい”写真だった。
――ただし、人物はどこにもいない。
「そんな写真、今どきネットからいくらでも拾えるじゃない。父さんも母さんも、簡単に騙されないでよ」
奈緒子さんの鋭い追及に、倫太郎が狼狽える。
「なっ……! 本当に、俺がハワイに行って撮ってきたんだって」
「それなら、アンタか紬ちゃんが映ってるはずでしょ? それを見せなさいよ」
「そ、それはっ……」
言葉が出てこない。
代わりに視線だけが忙しなく泳ぎ、逃げ道を探すように部屋の隅々を彷徨っていた。
(これ以上、嘘を重ねても、自分が惨めになるだけなのに……)
私は静かに息を吐き、ひとつの推測を投げかけた。
「豪華なディナーや旅行自体は、きっと嘘じゃないんでしょう? ただ……相手が、私じゃなかっただけで」
「…………」
倫太郎は沈黙する。
否定しないということは、肯定しているのと同じだった。
「信じられない……私は紬ちゃんだからお金を出したのに……知らない女に使われていたなんて……」
里佳子さんが天井を仰いだ。
その声は震え、息はかすれていた。
裏切られた悔しさと、自らの息子への失望が入り混じっていた。
倫太郎はというと、母親の反応をビクビクと横目でうかがっている。
その目は子どもじみた怯えに満ちていた。
ゆっくりと立ち上がった里佳子さんが、無言のまま倫太郎へ歩み寄る。
――パァーーンッ!!
家中に響く、乾いた大きな音。
倫太郎の身体がはじかれたように倒れ込む。
里佳子さんが、迷いなく平手を振るったのだ。
「謝りなさい。今までご迷惑をおかけした方々に、誠心誠意謝罪しなさい。許してもらえるまで――。でなければ、私はあなたと家族の縁を切るわ」
「っ、」
“親に殴られたことがないのが自慢”だった倫太郎。
左頬を押さえ、呆然と目を見開きながら、里佳子さんを見上げる。
(きっと、自分が何をしても里佳子さんは許してくれるって、甘い考えを持っていたのね……)
頬の痛みより、母親に手を上げられたという事実のほうが倫太郎を強く打ちのめしたのだろう。
自分に降りかかった現実を理解できずに、ただ呆然と震えていた。
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