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駅前のカラオケルームにて(十)・彼女の、観劇時の着物姿に関する悩みと、祖母の見解。
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…お分かりになりますか?早い話、どの方向から見ても、一見したところでは、きちんとお太鼓を結んでいるように見えるんです。
羽織は洋服のカーディガンみたいな扱いで、基本的にはどこで着ていても構わないものなので、隣や周囲の席の方の目も誤魔化せますし、それに、祖母が言うには、「羽織を派手にすれば、誰もその下の帯結びにまでなんか目が行かない」って。そう言った時の祖母は、何だか、今にもこっそり舌を出しそうな、いたずらっ子みたいな表情でしたけれど…。
それ以来、祖母のお供の時は、半幅帯が定番になりました。帯結びも「矢の字」やら、「貝の口」やら、「歌留多結び」やら、…要するに、どれもボリュームの出ない、平べったい形になる結び方です。また、そういう結び方だと、背もたれのある椅子に座った時に、背中が帯結びで圧迫されないので、非常に楽なんです。
流石に、歌舞伎座やら演舞場やらにたむろする、「着物に目敏い」小母様方には、全く見咎められなかった、なんてことはなかったと思いますけれど、何しろ私の隣には、「こうと」な身なりの祖母がついていましたから、影でどうこう言われる分はともかく、直接面と向かって「変だ、可怪しい」なんて言われることはありませんでした。
ええ、祖母も、「他人が腹の中で考えてることにまで気を磨り減らしてたら、その暇に肝心の自分の人生が終わっちまう」って。…うふふ、本当に似た者同士の祖母と孫、…って言うよりは、多分に私が祖母に影響されてるんでしょうね。
「他人を変えるのは至難の業だ。だから、それに掛ける労力を、自分を良くする方に使った方が良い。それが結果的に他人を変えることもある」って、…ええ、これも祖母が。その伝で言えば、その、祖母の持つ、他人を日の光の差す方へと向くように変える力の影響を、一番身近にいた私は、ずっと受け続けていたってことなんでしょうね。…私は結局、祖母のような「女傑」にはなれていないし、それにこれからもなれそうにないけれど、でも、「女傑」の精神や考え方に、日々間近に触れられたのは、自分にとって、すごく勉強になることだったって思っています。
…ええ…?…女傑は一日にして成らず、ですか?
……うふふふ、そうですね。これから私が歩む先が、いつか「女傑の道」に繋がってたら…。今の私にはそんなこと、全然、それこそ想像も出来ませんけれど…。
でも、…そんな「女傑」の祖母の、名実共に弟子だった私も、ああいう場でお太鼓を締めてないことについては、まるっきり気が咎めない訳じゃなかったんです。祖母は元より、歌舞伎座の前や、ロビーや廊下、客席なんかで見掛ける着物姿の女性って、現在はともかく、当時は大抵…と言うより、九割九分九厘、お太鼓結びでしたから。
別に、半幅帯締めて来たからって、追い出される訳じゃない。私が締めていた半幅帯は、全部正絹の、質の良いものでしたし…。それに、平場…一階席のお客さんにだって、中には相当カジュアルな洋服姿の方もおいでですし。
でも何となく、ズルをしているような気分がどこかにあったので、ある日、お芝居の帰り道に、相談…って言うよりは、ほとんど愚痴をこぼすような感覚で、祖母に思うところを訴えました。
祖母はね、私の話をすっかり聞いたあとで、
「あのねえ葵、着物は『着る物』。身に纏う物。自分の身をくるみ、守ってくれる物だよ。決して拷問の道具なんかじゃない。苦しい思いまでして付き合うような物じゃないんだ。だいたい『お太鼓結び』なんざ、江戸も終いの方になって、亀戸の天神様のお太鼓橋が出来るまで、この世にはなかったんだよ?『伝統的』かどうかで言や、半幅帯の締め方の方がずっと伝統に近い形なんだ。江戸の初めあたりなんざ、半幅帯どころか組紐の幅の広いようなもんだったそうだよ?…それとも葵、お前、そんなにお着物嫌かい?」
って、…無茶苦茶でしょう?自分は、そりゃ、普段、家事をする時や、近所に買い物に行く時なんかは、半幅帯一本槍でしたけれど、お稽古の時や、こんな風に外出する時は、きっちりお太鼓締めてたのに…。
でもね、私、何だかその時、昔のことを思い出していたんです。両親が離婚した後、母の再婚相手と喧嘩して、それまで住んでいた隣町のマンション飛び出して、子供ながらに必死の思いをして、何とか今住んでいる祖母の家にたどり着いた時のことです。あの時の、私、ここにいていいんだ、ってほっとした気持ちと、その時の気持ちとは、何だかとても良く似ていました。
だから私は、ううん、私、お着物好きだよ、ありがとうお祖母ちゃん、って答えました。祖母は、「何だいお前、変な子だねえ」って、何だか呆れたような顔で笑っていました。
髪形ですか?その、…お着物の時の、ですよね?
ええ、私、中学当時から、この髪の長さはありましたから、そうですね、…中高生のうちは、新派の『婦系図』の妙子みたいに、ハーフアップにしてリボン結んだり、暑い季節は、ぐるぐるまとめてお団子にしたりして。祖母のお芝居見物のお供の時なんかは、そこにヘッドドレス…っていう程大したものじゃありませんけれど、…よく、造花にクリップが付いているヘアアクセサリー、ありますね。あれ付けたりしていました。
本当はね、簪、挿したかったんです。憧れていました。でも、祖母がね、「堅気の家の娘が、あんまり粋な真似するんじゃない」って。だから簪は、最終的には大学院卒業までお預けってことになっていました。
私、ずっと憧れていた簪があったんです。玉簪なんですけれど、二又で、その簪の玉が紫水晶なんです。……伍代さん、私の誕生日、先程も申し上げましたけれど、…そうなんです、二月の誕生石なんですよ。
あの、その簪の話、させてもらって良いですか?…いえ、物凄く長い話になるんです。本当に構いませんか?
…ありがとうございます。できるだけ掻い摘んでお話させて頂きますから。
羽織は洋服のカーディガンみたいな扱いで、基本的にはどこで着ていても構わないものなので、隣や周囲の席の方の目も誤魔化せますし、それに、祖母が言うには、「羽織を派手にすれば、誰もその下の帯結びにまでなんか目が行かない」って。そう言った時の祖母は、何だか、今にもこっそり舌を出しそうな、いたずらっ子みたいな表情でしたけれど…。
それ以来、祖母のお供の時は、半幅帯が定番になりました。帯結びも「矢の字」やら、「貝の口」やら、「歌留多結び」やら、…要するに、どれもボリュームの出ない、平べったい形になる結び方です。また、そういう結び方だと、背もたれのある椅子に座った時に、背中が帯結びで圧迫されないので、非常に楽なんです。
流石に、歌舞伎座やら演舞場やらにたむろする、「着物に目敏い」小母様方には、全く見咎められなかった、なんてことはなかったと思いますけれど、何しろ私の隣には、「こうと」な身なりの祖母がついていましたから、影でどうこう言われる分はともかく、直接面と向かって「変だ、可怪しい」なんて言われることはありませんでした。
ええ、祖母も、「他人が腹の中で考えてることにまで気を磨り減らしてたら、その暇に肝心の自分の人生が終わっちまう」って。…うふふ、本当に似た者同士の祖母と孫、…って言うよりは、多分に私が祖母に影響されてるんでしょうね。
「他人を変えるのは至難の業だ。だから、それに掛ける労力を、自分を良くする方に使った方が良い。それが結果的に他人を変えることもある」って、…ええ、これも祖母が。その伝で言えば、その、祖母の持つ、他人を日の光の差す方へと向くように変える力の影響を、一番身近にいた私は、ずっと受け続けていたってことなんでしょうね。…私は結局、祖母のような「女傑」にはなれていないし、それにこれからもなれそうにないけれど、でも、「女傑」の精神や考え方に、日々間近に触れられたのは、自分にとって、すごく勉強になることだったって思っています。
…ええ…?…女傑は一日にして成らず、ですか?
……うふふふ、そうですね。これから私が歩む先が、いつか「女傑の道」に繋がってたら…。今の私にはそんなこと、全然、それこそ想像も出来ませんけれど…。
でも、…そんな「女傑」の祖母の、名実共に弟子だった私も、ああいう場でお太鼓を締めてないことについては、まるっきり気が咎めない訳じゃなかったんです。祖母は元より、歌舞伎座の前や、ロビーや廊下、客席なんかで見掛ける着物姿の女性って、現在はともかく、当時は大抵…と言うより、九割九分九厘、お太鼓結びでしたから。
別に、半幅帯締めて来たからって、追い出される訳じゃない。私が締めていた半幅帯は、全部正絹の、質の良いものでしたし…。それに、平場…一階席のお客さんにだって、中には相当カジュアルな洋服姿の方もおいでですし。
でも何となく、ズルをしているような気分がどこかにあったので、ある日、お芝居の帰り道に、相談…って言うよりは、ほとんど愚痴をこぼすような感覚で、祖母に思うところを訴えました。
祖母はね、私の話をすっかり聞いたあとで、
「あのねえ葵、着物は『着る物』。身に纏う物。自分の身をくるみ、守ってくれる物だよ。決して拷問の道具なんかじゃない。苦しい思いまでして付き合うような物じゃないんだ。だいたい『お太鼓結び』なんざ、江戸も終いの方になって、亀戸の天神様のお太鼓橋が出来るまで、この世にはなかったんだよ?『伝統的』かどうかで言や、半幅帯の締め方の方がずっと伝統に近い形なんだ。江戸の初めあたりなんざ、半幅帯どころか組紐の幅の広いようなもんだったそうだよ?…それとも葵、お前、そんなにお着物嫌かい?」
って、…無茶苦茶でしょう?自分は、そりゃ、普段、家事をする時や、近所に買い物に行く時なんかは、半幅帯一本槍でしたけれど、お稽古の時や、こんな風に外出する時は、きっちりお太鼓締めてたのに…。
でもね、私、何だかその時、昔のことを思い出していたんです。両親が離婚した後、母の再婚相手と喧嘩して、それまで住んでいた隣町のマンション飛び出して、子供ながらに必死の思いをして、何とか今住んでいる祖母の家にたどり着いた時のことです。あの時の、私、ここにいていいんだ、ってほっとした気持ちと、その時の気持ちとは、何だかとても良く似ていました。
だから私は、ううん、私、お着物好きだよ、ありがとうお祖母ちゃん、って答えました。祖母は、「何だいお前、変な子だねえ」って、何だか呆れたような顔で笑っていました。
髪形ですか?その、…お着物の時の、ですよね?
ええ、私、中学当時から、この髪の長さはありましたから、そうですね、…中高生のうちは、新派の『婦系図』の妙子みたいに、ハーフアップにしてリボン結んだり、暑い季節は、ぐるぐるまとめてお団子にしたりして。祖母のお芝居見物のお供の時なんかは、そこにヘッドドレス…っていう程大したものじゃありませんけれど、…よく、造花にクリップが付いているヘアアクセサリー、ありますね。あれ付けたりしていました。
本当はね、簪、挿したかったんです。憧れていました。でも、祖母がね、「堅気の家の娘が、あんまり粋な真似するんじゃない」って。だから簪は、最終的には大学院卒業までお預けってことになっていました。
私、ずっと憧れていた簪があったんです。玉簪なんですけれど、二又で、その簪の玉が紫水晶なんです。……伍代さん、私の誕生日、先程も申し上げましたけれど、…そうなんです、二月の誕生石なんですよ。
あの、その簪の話、させてもらって良いですか?…いえ、物凄く長い話になるんです。本当に構いませんか?
…ありがとうございます。できるだけ掻い摘んでお話させて頂きますから。
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