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宝石の街

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 死にたい街を離れてから、黒猫と旅人は黙ったままだった。普段から話しをしながら歩いている訳ではなかったが、今の二人の間には、傷ついたような沈黙があった。
 陽射しが傾いて、旅人の顔を朱く染めていく。ちょうど下り坂にさしかかり、リュックについている鈴が、目が覚めたようにリンと鳴った。
「なんだろう」
 旅人が言葉を落とした。
「体の中が、スースーする」
 黒猫は立ち止まって、振り返った。旅人が隣に来るのを待って、口を開いた。
「スースー? 寒いの?」
 旅人は目を伏せて、首を振った。
「強い風がぼくの体の中に入って、ぐるぐるかき乱して、大切なものを抜きとって、通り抜けていくみたいな。目の前が真っ暗で、手を伸ばしても誰も触れてくれないような。君が、ぼくのことを忘れていってしまうような。そんな感じ」
 色の違う瞳で旅人を見上げて、黒猫は噛みしめるように言った。
「さみしい」
「さみしい?」
「それはきっと、さみしいのだと思う」
「そうか。これが、さみしい。ぼくは、さみしかったんだ」
 しばらく胸に手をあてて、旅人は大きく息を吸い込む。さみしいという言葉を、体に染み込ませているように、黒猫には見えた。
 夕陽が広がっていく世界の中で、旅人と黒猫だけが動かなかった。今来た道を少しだけ戻ったのなら、まだあの街は見えたのかもしれない。なにが正しかったのか、なにをするべきだったのか、旅人は未だにわからないままだった。見えない手が、手招いてあの街へ呼んでいるような気がして、旅人は振り返ることが出来なかった。
 旅人は一歩、足を踏み出した。少し遅れて黒猫が歩き出す。
「どうしてだろう。気持ちに名前がついたら、地に足がついたみたいに、落ち着いてきた気がする」
「それが、名前の役割だからさ」
「そういうものなんだ」
「なあ。今だけは、ぼくを抱えてもいいよ」
 黒猫の提案にのって、旅人は黒猫を抱きかかえる。
「服の中にしまえとは、言ってないんだが」
 旅人の服の中から、顔だけ出した黒猫は、呆れたように言った。思わず声に出して笑った旅人は、自分の声に驚いて、ああ、とつぶやいた。
「ぼくもまだ、笑えるんだ」
 いつのまにか、空は夜に傾きかけていた。


 夜が始まる前に、旅人たちは次の街に着いた。
「音がするね」
 街の門をくぐると、音楽が聞こえてきた。鳥が鳴いているような軽快な音と、川のせせらぎのような優美な音。夜の中で聴くその音は、まるで別の世界に迷い込んだような、不思議で浮ついた気持ちにさせる。
 道の両側には、等間隔で街灯が並んでいた。それは明るすぎず、かといって足元が見えないほどの明るさではなかった。夜と街灯の、ちょうど良い塩梅の明るさであった。
「これは、なにが燃えているのだろう?」
 街灯を下から見上げて、旅人は首をひねった。街灯の明かりは火ではなく、石だった。透明な石の中で、淡い黄色とオレンジ色が混ざり合って、ほんのり光を放っている。
「宝石だよ」
「宝石? 綺麗だ」
「ここは、宝石の街なんだ」
 黒猫が言ったのを聞いて、ふと、旅人は思い出す。
「宝石の街なら、ラピスラズリもあるかな?」
「どうして?」
「絵本に出てきたラピスラズリは、宝石のラピスラズリから名付けられたから。静かで、綺麗で、夜空みたいな名前だと思った。だから、実際のラピスラズリが、どんな色や形をしているのかなって。見られるかな?」
「見られると思うよ。見てみたいの?」
「うん」
「じゃあ、誰かに聞いてみよう」
 服の中にいた黒猫が、ちょこんと両手を出したので旅人は抱き上げて、地面に下ろしてやった。黒猫が毛づくろいを終えるのを待ってから、音楽が聞こえる方へと歩き出した。
 夜だからだろうか、人の気配はない。宝石に照らされた石畳みの道をヒタヒタと歩く。旅人の背丈くらいの、赤土で出来た塀がゆるやかに続いている。曲がりくねった道を何度か通った後、建物が開けて円形状の広場に出た。
 黄色やオレンジ、薄緑。それから水色や白色が、視界いっぱいに広がった。
 音楽がいっそう大きく膨れ上がる。それに合わせるように、宝石の光がぽわんと明滅を繰り返す。
「お客さんだ」
「お客さんが来た」
 無邪気な歓声が聞こえてきた。旅人たちの周りに、子どもたちが集まって来る。
「どこから来たの?」
「お祭り、見て行く?」
 次々に話しかけられて、旅人は困ってしまった。ぐるりと辺りを見回してみたけれど、大人の姿を見つけられなかった。みんな旅人の腰くらいまでしかない背丈の子どもたちで、ひょろりと細く似たような体型で、光り輝く衣を身にまとっていた。
 旅人が珍しいのか、体を触ったり、周りをぐるぐる回って、それぞれが話しかけてくる。途方に暮れてしまった旅人の代わりに黒猫が声をあげた。
「なあ、ラピスラズリはいるか?」 
 途端、子どもたちの視線が旅人の足元に集まった。
「猫だ」
「猫ちゃんだ」
「かわいい」
「触ってもいい?」
 抱き上げられ、なでられている黒猫を見て、旅人はくすりと笑った。ムスッとした顔で、されるがままになっている黒猫の元に、男の子がやって来た。
「ぼくが、ラピスラズリだよ」 
 ラピスラズリの男の子は、そう言って黒猫を抱きかかえた。子どもたちが声をあげて、旅人に言った。
「ラピスラズリだよ!」
「この子が、ラピスラズリ!」
「他にもラピスラズリはいるよ。呼んでくる?」
 黒猫を抱いたラピスラズリの男の子が、気がついて旅人の方を見上げた。
「あっ」と旅人は声をあげた。
 男の子の瞳が、はっと目を惹くほどの美しさだったからだ。それは、夜空のような深い青。のぞきこめば、吸い込まれてしまいそうな、澄みわたった色。
「君の瞳は、宝石で出来ているのだね」
 一つ、瞬きをしてラピスラズリの男の子は、旅人に近づいた。
「そうだよ。ぼくたちの瞳はみんな、宝石なんだ」
「綺麗だ」
 ありがとう、とラピスラズリの男の子は恥ずかしそうに、はにかんだ。それから、自分の目を指差して、
「そんなに気に入ってくれたのなら、目玉を取り出そうか?」
 と自慢気に言った。腕の中の黒猫が、呆れたように見上げて言う。
「物騒なこと言うなよ。けど、出来んのか?」
「取らなくていいよ」
 慌てて旅人が、制止に入る。
「そのままの方が、綺麗だから。ぼくは、ラピスラズリがどんな色なのか、見てみたかっただけだし」
「そうなんだ。でも手に取ってみたかったら、言ってね」
 うん、と旅人はとりあえず、うなずいておくことにした。
「目が宝石で出来ているなんて、素敵だね。君たちは、人なの?」
 旅人が疑問を口にすると、子どもたちは一様に首を傾げた。
「わかんない」
「人なのかな?」
「宝石かな?」
「わからないね」
 でも、と口をそろえて子どもたちは言った。
「お母さんから生まれた」
 広場の中央にある、大きな石の結晶を指差した。透明なその石は、ときどき鮮やかな色を映し出しては、波が去るように透明に戻っていってを繰り返している。夜とお祭りの音楽の中で、その石は存在感を増し、旅人の目を強く惹きつけた。
「ぼくたちのお母さん。大きな宝石」
 子どもたちは旅人の手をひいて、広場の中央までやって来た。
「お母さんはすごいんだ」
「ぼくたちを生む」
「お母さんはすごいんだ」
「なんでも映し出してくれる」
 歌うように子どもたちは言う。
「なんでも?」
 自分の背よりもうんと高い石を見上げて、旅人はつぶやいた。
「そうだよ」
「なんでも」
「欲しいもの」
「探しているもの」
「なんでも映してくれる」
 子どもたちがささやく。旅人はすっかり石に魅了されて、もっと石の奥深くを見てみたいと、目を凝らした。
 旅人の呼吸に合わせるように、石の奥底で色が渦巻いていた。黒猫が、旅人を見つめていることにすら気がつかないくらい、その渦から目が離せなかった。渦は風を呼び、不可思議な芳香を放ち、テラテラと色を煌めかせた。
「ぼくの、欲しいもの。ぼくの、探しているもの」
 赤、紫、青、緑。
 石の中で様々な色が煙となって、膨らんでいく。
 子どもたちの瞳が、不気味に光る。
 くつくつと笑い声が広がる。
「なあ、やめよう!」
 黒猫が声を上げた時だった、石は映し出した。旅人は口をぼんやりと開けて、それを眺めている。黒猫がはっとして、目を大きく見開いた。
「……ぼく?」
 石には、黒猫が映し出されていた。
「猫ちゃんだ」
「猫が欲しいの?」
「猫を探しているの?」
 目をぱちくりさせながら、子どもたちは黒猫と旅人を交互に見やる。
「なんで、ぼくが映るんだ? てっきり、名前が映し出されるのかと思ったよ」
 まだ呆気にとられている黒猫が言うと、旅人は恥ずかしそうにうつむいた。
「友達が欲しかったんだ」
 ちらりと黒猫を盗み見て、旅人はさらに深くうつむいた。
「……さみしかったから」
 黒猫の瞳が大きくなって、それから細められる。
「馬鹿だなぁ」
 ぴょんと飛び跳ねて、黒猫は旅人の足元に歩み寄った。
「ぼくたち、もう友達じゃないか」  
「相棒って、友達のこと?」
 そう言うと、子どもたちがくすくすと笑った。黒猫も肩をふるわせて笑った。
「よかったね」
「伝わってよかったね」
「見つかってよかったね」
「お母さんはやっぱり、すごいでしょ」
 それぞれの宝石の瞳を、光らせて子どもたちは互いの手を取り合う。旅人と黒猫を中心にして、ぐるぐると回ってから、糸が解れるように離れていった。
「さようなら、お客さん」
「さようなら、またね」
 子どもたちは、旅人たちへの興味が薄れたのか、また広場の中心で踊り始めた。その様子をしばらく眺めてから、旅人たちは宝石の街を後にした。


 相変わらず、黒猫はしっぽを立てて旅人の前を歩く。
「なんだろう。このあたりが、ぽかぽかする」
 胸の前で旅人は両手を合わせる。
 黒猫が振り返ると、旅人は大切なものを拾いあげた時のような、穏やかな顔をしていた。
「友達って知ったら、君のことがもっと大切になった。あたたかくて、心地よくて。胸の中に、午後の陽射しがさしたような。これは、なんという名前?」
「馬鹿だなぁ、お前。それは」
 愛だよ、と言おうとして黒猫は言わなかった。
「恥ずかしいから、教えてやらない」
「恥ずかしいこと?」
「別に恥ずかしいことじゃないけど。うん。恥ずかしいのかな?」
 ちがうな、と黒猫はつぶやく。
 夜空を仰ぎ見ると、その視界に旅人が映った。不思議そうに、黒猫をのぞきこんでいる。
 つまり、と黒猫は笑った。
 しっぽが真っ直ぐに夜空を指す。
「ぼくは、嬉しいってことさ」
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