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∽1∽[誘惑]の事情
§09[心弛(ココロユルビ)]
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マンホールを降りた地下には、かなり古めかしい雰囲気が漂っていた。文化資料館のVR空間で見た、二世代以上前の、多分もだん、とか、れとろ、なお店という感じだ。
まず店内が赤っぽい。ステンドグラスの笠を被った大きな豆電球からは白じゃなくて黄色とか赤っぽい光が出ている。そして、壁は木目が個性的な木材だ。触ってみると、感触はツルツルだけど、たしかに本物の木だと分かった。天井では、もはや見かけない羽つき扇風機の羽を単体で取り付けたみたいなものがゆっくり回ってる。奥を見やると、大きく置かれたカウンター席に、実験器具みたいなガラスの装置とか、上にハンドルのついた箱、大きな砂時計なんかがいっぱい並んでいた。端には大きなガラスドームまであって、中に飾りのないケーキやサンドイッチが数ピース入っている。音楽が聞こえると思ったら、大きなアンテナ付きラジオと旧式のスピーカーが部屋の隅に置かれていた。
「いらっしゃい」
カウンターの奥に一人だけいた男の人は、一瞬目を上げてそれだけ言うと、すぐにグラス拭きに戻ってしまう。店員さんだろう。
「注文は?」
「飛び入りで悪いけど貸し切れる?」
「いくつ?」
「二つ分」
「ごゆっくり」
先輩と簡単なやり取りをすると、店員さんはグラスを置いてドアに向かい、ドアノブに何か札を掛けて戻ってきた。
「じ、時代劇みたい……」
私は思わず呟いてしまう。
「時代劇ってほど古くは……古いのかな?」
円居先輩はカウンター席ではなく手前の二人掛けの席に私を座らせる。テーブルも木で、天板の一部がくり抜かれてコーヒー豆を閉じ込めたガラスに置き換えられていた。そう、強化アクリルじゃなくてガラスだ。
「田舎でもこんなお店、もう無いと思います。豆を挽くところから始めるお店は見たことがありますけど……」
全く見覚えのない雰囲気だ。お洒落というより、少し野暮ったい感じがする。それなのに、懐かしい。なぜか落ち着く空間だ。
「ふーん……あ、メニュー」
店員さんがノートくらいのラミネートされた紙を私に差し出した。天地をひっくり返して彼に見せようとして、
「僕はメニュー決まってるから」
一回転して向きを戻された。
「……金額が書かれてないように見えるのですが」
「こういう店ってそういうものだから」
曖昧な言い方をされても、金額は分からない。私は諦めてメニューに目を落とした。きらきらしい名前のものはなくて、数種のベーシックなコーヒー、紅茶、クリームソーダやレモンスカッシュなんかだ。写真がほとんどないから分からないものもある。さっと目を通していたら、目に留まるものがあった。
「あの……『気まぐれホッとココア』って」
「ああ、マスター気合い入れてよろしく」
「気まぐれなので」
どんなメニューか聞こうと思ったら注文されてしまった。
「裏は?」
裏返すと、軽食やスイーツがあった。こちらも金額なしだ。
「……とりあえずは、大丈夫です」
「そう。じゃプリン一つ」
「お待ちを」
それだけ言って店員さんは奥に消えた。
私はいつの間にか置かれていたお水にそっと口をつける。飲もうとして、ちょっと固まった。
「……きみって結構ミステリー好きだよね」
「……はい。でも不意に思い出しませんか?」
「店員が男だけど」
「そうですね」
「それに、一回なら問題ないけど」
「そうですね。でも」
何の話をしてるのかは、ネタバレが無いように秘密だ。
「まだ注文が来ていないのに変な話なのですが」
「?」
「このお店、何となくまた来たいなと思いました」
結局私は、お水を一口飲んだ。
「ファストフード店とスピードが違うけど、二世代前のボロい店の回転速度に堪えられる?」
「……私、口に出してましたか?」
「顔に出てた」
「わ、悪い意味ではなくて、その」
「物珍しい」
「……」
「分かるけどね。僕もそこから嵌まったから。慣れると一人でも退屈しないよ」
ふと、話せているな、と思った。他愛の無い話を、感情を込めて、冷静に、話せている。
最初、二回目に会った時には無理だった。そもそも、ファーストインパクトが、
「円居レンには気をつけて」
「[役割]に従って、今からきみを[誘惑]の対象に指定する」
だったから、呆気に取られていただけだった。私の無知が無かったら、悪感情から始まっていたんだろう。実際、図書館ではひどい態度だったと思う。それなのに、話をしていた。
嫌な事も言われたけど、周囲で言われるほど悪い人には見えなかった。少なくとも、口を開くだけで図書委員会の全員から睨まれて当然だとは思えない。
(先輩と話したことが無くて、噂だけを聞いてたら、私も睨む側だったのかな)
それとも、これから[誘惑]が辛くなるんだろうか。私が恵まれているんだろうか。店内に漂ってきたコーヒーの香りと共に、私はもう一口、グラスに口をつける。
(そういえば、ベンチで会った時の私は、睨んでいたかも)
写真を見ただけで先輩の仕業だと決めつけて、先輩を呼び出して啖呵を……切ろうとはしていた。短絡的な発想だったとは思わない。あの状況で先輩は無関係だなんて分かるはずがなかった。でも、どこか言い訳みたいに思えてしまう。
……先輩は、無関係だった。
……無関係だった先輩に、なぜ呼び出されたのかも分からないでいた先輩に、私は何を言った?
「ご、ごめんなさい!」
私は深々と頭を下げた。
「……どうしたの」
額を机にぶつけた私に、先輩が軽く引いている気配を感じる。
「先輩は何もしてなかったのに、私、とても酷いことを言ってしまいました」
「あー……」
「正々堂々と仕事してらした先輩に、脅迫とか捏造とか陥れられるとか、その、酷いことをいっぱい」
「まあ……気にしなかったわけじゃ無いけど……」
「絶対、気にしましたよね……謝って済むとは思ってません、でも、申し訳ないです……」
あの悲しそうな声といい、あの三つ編みっ子への態度といい、気にしていないわけがない。
「とりあえず顔上げて」
「……」
「注文来たから」
「っ、はいっ!」
慌てて顔を上げたら、目の前に猫の顔があった。
立体のラテアートだ。ココアに半分浸かって、こちらを愛くるしい目で見上げる猫ちゃんが、ふわふわのクリームとシナモンの粉で表現されている。ハートのまだらを持った、ぶち猫だ。
「かっ、かわいい……!」
目の前がピンク色に染まる。視界の縁が花でいっぱいになる。可愛い。猫が可愛くないわけがないけれど、思っていたよりもずっと可愛い。語彙力が無くなるくらいの出会いだ。沈んでいた気持ちが、一瞬で舞い上がった。
「っ……ふふ……『かわいい』って、きみさ……ふふふ」
円居先輩が、笑いを堪え切れない様子で私を見ていた。
「すみません、可愛くて……」
「謝ることはないけど、っふふ、可愛すぎでしょ、何その反応」
「そうですよね! 可愛いですよね!」
「はいはい、可愛いから。落ち着いて」
「ど、どうしましょう……」
どうやってこれを飲めば良いんだろう。どうやっても、この猫ちゃんを崩してしまう。
「……先輩、お願いがあります」
「うん?」
「私には、私にはできません。だから……」
私はカップとスプーンを先輩の方に少し押した。
「かき混ぜて溶かして頂けませんか?」
「……うん、いや、言いたい事は分かるけど」
「『猫ちゃんが可哀想だから飲めない』なんて言いません。ヒヨコが可哀想だからオムライス食べられないとか考えるタイプじゃないです、私。でもこれは、直接は無理です……!」
「うーん……」
「ちゃ、ちゃんと美味しく頂きますから! ね、猫ちゃんの、顔まで……」
「分かった、分かったからこんな事で泣きそうな顔するなって。貸して」
私は目を閉じた。
カチャカチャとスプーンとカップが触れ合う音がする。
「はい、終わり」
「ありがとうございます」
私は目を開く。
「はい」
口の中にスプーンが突っ込まれた。
「……」
クリームの柔らかい感触が広がって、しばらくして、状況を理解する。
「!」
思い切り体を引いて、私は先輩を見上げた。咄嗟のビンタって、明らかに届かないと分かっているときは発動しないみたいだ。
「先輩……猫ちゃんの顔とかじゃないですよね、今の」
「これなら食べれるかと思って」
「そういう問題ではないです。そもそも、ラテアートって、混ぜて頂くものですよね」
私は姿勢を正した。
「人によるかな」
「私は、混ぜてくださいとお願いしました」
「……うん」
「ラテアートは、クリームやミルクのバランスを考えた上で、そこに芸術をプラスするものではないでしょうか」
「……そ、うかもね」
先輩も背を伸ばした。
「私はそのバランスも味わいたいと思っています」
「……そうですか」
「そもそもクリームだけを食べることに何の意味があるでしょうか」
「……何の意味もないかもしれません」
「ココアと一緒だから意味があるんです」
「……はい」
「分かっていただけたら嬉しいです」
「はい」
私はココアを受け取る。途中から円居先輩が敬語になっていたのは何故だろう。チラリと見ると、両手を上に上げられた。その前には種類の分からないコーヒーと、高いグラスに盛られたプリン。堅く色の濃いタイプだった。美味しそうだ。
「悪かった」
先輩は言うと、プリンを口に運ぶ。
「いえ、半分好みの話になってました」
「うん」
「そのプリン、美味しいんですか?」
「まあね。食べてみる?」
「いえ、流石に。濃くて栄養価高そうですね」
先輩はニヤッと笑った。
「卵の黄身の色が濃くなるのって、栄養とは関係ないよ」
「そうなんですか……?!」
「トウモロコシの黄色とか、パプリカの赤い色素なんかを多く摂ったニワトリの卵は濃い色になる」
「知りませんでした……」
「濃い卵の方が売れ行きが良い。商品価値の付くことって話が広がりにくいよね。作為的とは言わないけど」
「恐ろしいことを言いますね」
「この場所は監視システムが無いからね。今なら何でも言える」
円居先輩はコーヒーを含んだ。顔に薄く湯気のフィルターが掛かる。
「そ、そういうものですか」
「そういうものだよ。特に監視の多い仕事だとね」
「大変なんですね」
「大変だよ。一度に三人の[誘惑]した時は起きてる間ずっと監視されてた。当然誰も僕には近寄らなくて、僕からも不用意に近寄れない。アプローチをかけてた初恋の子はその期間に彼氏が出来た」
「……悲しい、ですね」
あえて、その表現をした。エピソード一つに対してではなくて、彼の背負ってきた道程全てに対して。やっぱりこの人は、悲しい人だ。悲しい思いをしてきた人だ。
「悲しいよ」
先輩は、プリンをまた少し掬う。
「自分でも、悲しいと思う。何が悲しくて、こんなこと続けなきゃいけないんだ」
口に入れる。
「だからこんな場所に来るし、きみを連れてきた」
また掬って、私を少し伏せた目で見る。プリンを見る顔の角度で、私を見ている。
「今の僕は[誘惑]じゃない。そしてきみも、今は、[一途]である必要はない」
私は、ココアにまだ口をつけていないのをやっと思い出した。
「私は、別に、[一途]だからどうこうなんて、してるつもりは……」
「だからきみは恵まれてるんだよ。いや、残酷なのか」
彼はミントの葉をそっと脇に除けた。
「きみが気負わなくても、周りはきみを、[一途]だと思って見ている。中にはきみの名前も知らないのに、顔を知ってる生徒もいる。集会のとき、居心地悪い思いをしたことはなかった? 知らない生徒に見つめられて不快に思ったことは? 細かな不満に、気づかない振りをしたことが一度もなかったって?」
私は瞬きをして円居先輩を見た。だって、それは……。
「きみが[役割]だというだけで、きみの純愛はビジネス扱いされる。[誘惑]なんて不快な奴が寄ってくる。たまには、古町みたいな異常者も。それだけで十分、デメリットだと思うけど」
「それは」
「[役割]に縛られない感覚は、時々取り戻しておいた方がいい。これから先もこの[役割]のままでいる確証なんて無い。仮面にしてはいけない。[役割]にきみ自身を喰わせてはならない」
「私は……」
「ここなら、気を抜いても、誰も咎めない」
じわじわと、視界が歪んだ。ココアの湯気が目に染みて、鼻をつんと差す。震える手で掴んだら、受け皿とぶつかってカタカタと音が鳴った。茶色い水面が揺れる、揺れる、揺れる……。
「うっ」
息が詰まって、飲めなかった。私はカップを手で包み込んで、乱れる呼吸を抑えようとする。暖かい。心の綻びが、するすると解けてしまう。
「う、うう、うぅう……」
もともと、かっとなって雨の中に飛び出して、高熱で寝込んでいた。まだ本調子じゃなかった。恐ろしい写真が届いていたのに気づいたのは、起きてすぐだった。
冷静じゃいられなかった。化け物を相手しているような気分だった。呼び出して、二人だけで対峙するなんて考えたくはなかった。でもやるしかなかった。ずっと緊張していた。
……怖かった。怖かったんだ、私は。友達と話すために作った、たった一分ほどの作り笑顔で、心の余裕が品切れになっちゃうくらい。今ようやく、緊張が解けてるんだ。
背中をゆっくりとさすられた。大丈夫です、と言ってしまいたくて、でも言えなかった。ただただ暖かくて優しいココアは、勝手に塩っぽくなっていった。
まず店内が赤っぽい。ステンドグラスの笠を被った大きな豆電球からは白じゃなくて黄色とか赤っぽい光が出ている。そして、壁は木目が個性的な木材だ。触ってみると、感触はツルツルだけど、たしかに本物の木だと分かった。天井では、もはや見かけない羽つき扇風機の羽を単体で取り付けたみたいなものがゆっくり回ってる。奥を見やると、大きく置かれたカウンター席に、実験器具みたいなガラスの装置とか、上にハンドルのついた箱、大きな砂時計なんかがいっぱい並んでいた。端には大きなガラスドームまであって、中に飾りのないケーキやサンドイッチが数ピース入っている。音楽が聞こえると思ったら、大きなアンテナ付きラジオと旧式のスピーカーが部屋の隅に置かれていた。
「いらっしゃい」
カウンターの奥に一人だけいた男の人は、一瞬目を上げてそれだけ言うと、すぐにグラス拭きに戻ってしまう。店員さんだろう。
「注文は?」
「飛び入りで悪いけど貸し切れる?」
「いくつ?」
「二つ分」
「ごゆっくり」
先輩と簡単なやり取りをすると、店員さんはグラスを置いてドアに向かい、ドアノブに何か札を掛けて戻ってきた。
「じ、時代劇みたい……」
私は思わず呟いてしまう。
「時代劇ってほど古くは……古いのかな?」
円居先輩はカウンター席ではなく手前の二人掛けの席に私を座らせる。テーブルも木で、天板の一部がくり抜かれてコーヒー豆を閉じ込めたガラスに置き換えられていた。そう、強化アクリルじゃなくてガラスだ。
「田舎でもこんなお店、もう無いと思います。豆を挽くところから始めるお店は見たことがありますけど……」
全く見覚えのない雰囲気だ。お洒落というより、少し野暮ったい感じがする。それなのに、懐かしい。なぜか落ち着く空間だ。
「ふーん……あ、メニュー」
店員さんがノートくらいのラミネートされた紙を私に差し出した。天地をひっくり返して彼に見せようとして、
「僕はメニュー決まってるから」
一回転して向きを戻された。
「……金額が書かれてないように見えるのですが」
「こういう店ってそういうものだから」
曖昧な言い方をされても、金額は分からない。私は諦めてメニューに目を落とした。きらきらしい名前のものはなくて、数種のベーシックなコーヒー、紅茶、クリームソーダやレモンスカッシュなんかだ。写真がほとんどないから分からないものもある。さっと目を通していたら、目に留まるものがあった。
「あの……『気まぐれホッとココア』って」
「ああ、マスター気合い入れてよろしく」
「気まぐれなので」
どんなメニューか聞こうと思ったら注文されてしまった。
「裏は?」
裏返すと、軽食やスイーツがあった。こちらも金額なしだ。
「……とりあえずは、大丈夫です」
「そう。じゃプリン一つ」
「お待ちを」
それだけ言って店員さんは奥に消えた。
私はいつの間にか置かれていたお水にそっと口をつける。飲もうとして、ちょっと固まった。
「……きみって結構ミステリー好きだよね」
「……はい。でも不意に思い出しませんか?」
「店員が男だけど」
「そうですね」
「それに、一回なら問題ないけど」
「そうですね。でも」
何の話をしてるのかは、ネタバレが無いように秘密だ。
「まだ注文が来ていないのに変な話なのですが」
「?」
「このお店、何となくまた来たいなと思いました」
結局私は、お水を一口飲んだ。
「ファストフード店とスピードが違うけど、二世代前のボロい店の回転速度に堪えられる?」
「……私、口に出してましたか?」
「顔に出てた」
「わ、悪い意味ではなくて、その」
「物珍しい」
「……」
「分かるけどね。僕もそこから嵌まったから。慣れると一人でも退屈しないよ」
ふと、話せているな、と思った。他愛の無い話を、感情を込めて、冷静に、話せている。
最初、二回目に会った時には無理だった。そもそも、ファーストインパクトが、
「円居レンには気をつけて」
「[役割]に従って、今からきみを[誘惑]の対象に指定する」
だったから、呆気に取られていただけだった。私の無知が無かったら、悪感情から始まっていたんだろう。実際、図書館ではひどい態度だったと思う。それなのに、話をしていた。
嫌な事も言われたけど、周囲で言われるほど悪い人には見えなかった。少なくとも、口を開くだけで図書委員会の全員から睨まれて当然だとは思えない。
(先輩と話したことが無くて、噂だけを聞いてたら、私も睨む側だったのかな)
それとも、これから[誘惑]が辛くなるんだろうか。私が恵まれているんだろうか。店内に漂ってきたコーヒーの香りと共に、私はもう一口、グラスに口をつける。
(そういえば、ベンチで会った時の私は、睨んでいたかも)
写真を見ただけで先輩の仕業だと決めつけて、先輩を呼び出して啖呵を……切ろうとはしていた。短絡的な発想だったとは思わない。あの状況で先輩は無関係だなんて分かるはずがなかった。でも、どこか言い訳みたいに思えてしまう。
……先輩は、無関係だった。
……無関係だった先輩に、なぜ呼び出されたのかも分からないでいた先輩に、私は何を言った?
「ご、ごめんなさい!」
私は深々と頭を下げた。
「……どうしたの」
額を机にぶつけた私に、先輩が軽く引いている気配を感じる。
「先輩は何もしてなかったのに、私、とても酷いことを言ってしまいました」
「あー……」
「正々堂々と仕事してらした先輩に、脅迫とか捏造とか陥れられるとか、その、酷いことをいっぱい」
「まあ……気にしなかったわけじゃ無いけど……」
「絶対、気にしましたよね……謝って済むとは思ってません、でも、申し訳ないです……」
あの悲しそうな声といい、あの三つ編みっ子への態度といい、気にしていないわけがない。
「とりあえず顔上げて」
「……」
「注文来たから」
「っ、はいっ!」
慌てて顔を上げたら、目の前に猫の顔があった。
立体のラテアートだ。ココアに半分浸かって、こちらを愛くるしい目で見上げる猫ちゃんが、ふわふわのクリームとシナモンの粉で表現されている。ハートのまだらを持った、ぶち猫だ。
「かっ、かわいい……!」
目の前がピンク色に染まる。視界の縁が花でいっぱいになる。可愛い。猫が可愛くないわけがないけれど、思っていたよりもずっと可愛い。語彙力が無くなるくらいの出会いだ。沈んでいた気持ちが、一瞬で舞い上がった。
「っ……ふふ……『かわいい』って、きみさ……ふふふ」
円居先輩が、笑いを堪え切れない様子で私を見ていた。
「すみません、可愛くて……」
「謝ることはないけど、っふふ、可愛すぎでしょ、何その反応」
「そうですよね! 可愛いですよね!」
「はいはい、可愛いから。落ち着いて」
「ど、どうしましょう……」
どうやってこれを飲めば良いんだろう。どうやっても、この猫ちゃんを崩してしまう。
「……先輩、お願いがあります」
「うん?」
「私には、私にはできません。だから……」
私はカップとスプーンを先輩の方に少し押した。
「かき混ぜて溶かして頂けませんか?」
「……うん、いや、言いたい事は分かるけど」
「『猫ちゃんが可哀想だから飲めない』なんて言いません。ヒヨコが可哀想だからオムライス食べられないとか考えるタイプじゃないです、私。でもこれは、直接は無理です……!」
「うーん……」
「ちゃ、ちゃんと美味しく頂きますから! ね、猫ちゃんの、顔まで……」
「分かった、分かったからこんな事で泣きそうな顔するなって。貸して」
私は目を閉じた。
カチャカチャとスプーンとカップが触れ合う音がする。
「はい、終わり」
「ありがとうございます」
私は目を開く。
「はい」
口の中にスプーンが突っ込まれた。
「……」
クリームの柔らかい感触が広がって、しばらくして、状況を理解する。
「!」
思い切り体を引いて、私は先輩を見上げた。咄嗟のビンタって、明らかに届かないと分かっているときは発動しないみたいだ。
「先輩……猫ちゃんの顔とかじゃないですよね、今の」
「これなら食べれるかと思って」
「そういう問題ではないです。そもそも、ラテアートって、混ぜて頂くものですよね」
私は姿勢を正した。
「人によるかな」
「私は、混ぜてくださいとお願いしました」
「……うん」
「ラテアートは、クリームやミルクのバランスを考えた上で、そこに芸術をプラスするものではないでしょうか」
「……そ、うかもね」
先輩も背を伸ばした。
「私はそのバランスも味わいたいと思っています」
「……そうですか」
「そもそもクリームだけを食べることに何の意味があるでしょうか」
「……何の意味もないかもしれません」
「ココアと一緒だから意味があるんです」
「……はい」
「分かっていただけたら嬉しいです」
「はい」
私はココアを受け取る。途中から円居先輩が敬語になっていたのは何故だろう。チラリと見ると、両手を上に上げられた。その前には種類の分からないコーヒーと、高いグラスに盛られたプリン。堅く色の濃いタイプだった。美味しそうだ。
「悪かった」
先輩は言うと、プリンを口に運ぶ。
「いえ、半分好みの話になってました」
「うん」
「そのプリン、美味しいんですか?」
「まあね。食べてみる?」
「いえ、流石に。濃くて栄養価高そうですね」
先輩はニヤッと笑った。
「卵の黄身の色が濃くなるのって、栄養とは関係ないよ」
「そうなんですか……?!」
「トウモロコシの黄色とか、パプリカの赤い色素なんかを多く摂ったニワトリの卵は濃い色になる」
「知りませんでした……」
「濃い卵の方が売れ行きが良い。商品価値の付くことって話が広がりにくいよね。作為的とは言わないけど」
「恐ろしいことを言いますね」
「この場所は監視システムが無いからね。今なら何でも言える」
円居先輩はコーヒーを含んだ。顔に薄く湯気のフィルターが掛かる。
「そ、そういうものですか」
「そういうものだよ。特に監視の多い仕事だとね」
「大変なんですね」
「大変だよ。一度に三人の[誘惑]した時は起きてる間ずっと監視されてた。当然誰も僕には近寄らなくて、僕からも不用意に近寄れない。アプローチをかけてた初恋の子はその期間に彼氏が出来た」
「……悲しい、ですね」
あえて、その表現をした。エピソード一つに対してではなくて、彼の背負ってきた道程全てに対して。やっぱりこの人は、悲しい人だ。悲しい思いをしてきた人だ。
「悲しいよ」
先輩は、プリンをまた少し掬う。
「自分でも、悲しいと思う。何が悲しくて、こんなこと続けなきゃいけないんだ」
口に入れる。
「だからこんな場所に来るし、きみを連れてきた」
また掬って、私を少し伏せた目で見る。プリンを見る顔の角度で、私を見ている。
「今の僕は[誘惑]じゃない。そしてきみも、今は、[一途]である必要はない」
私は、ココアにまだ口をつけていないのをやっと思い出した。
「私は、別に、[一途]だからどうこうなんて、してるつもりは……」
「だからきみは恵まれてるんだよ。いや、残酷なのか」
彼はミントの葉をそっと脇に除けた。
「きみが気負わなくても、周りはきみを、[一途]だと思って見ている。中にはきみの名前も知らないのに、顔を知ってる生徒もいる。集会のとき、居心地悪い思いをしたことはなかった? 知らない生徒に見つめられて不快に思ったことは? 細かな不満に、気づかない振りをしたことが一度もなかったって?」
私は瞬きをして円居先輩を見た。だって、それは……。
「きみが[役割]だというだけで、きみの純愛はビジネス扱いされる。[誘惑]なんて不快な奴が寄ってくる。たまには、古町みたいな異常者も。それだけで十分、デメリットだと思うけど」
「それは」
「[役割]に縛られない感覚は、時々取り戻しておいた方がいい。これから先もこの[役割]のままでいる確証なんて無い。仮面にしてはいけない。[役割]にきみ自身を喰わせてはならない」
「私は……」
「ここなら、気を抜いても、誰も咎めない」
じわじわと、視界が歪んだ。ココアの湯気が目に染みて、鼻をつんと差す。震える手で掴んだら、受け皿とぶつかってカタカタと音が鳴った。茶色い水面が揺れる、揺れる、揺れる……。
「うっ」
息が詰まって、飲めなかった。私はカップを手で包み込んで、乱れる呼吸を抑えようとする。暖かい。心の綻びが、するすると解けてしまう。
「う、うう、うぅう……」
もともと、かっとなって雨の中に飛び出して、高熱で寝込んでいた。まだ本調子じゃなかった。恐ろしい写真が届いていたのに気づいたのは、起きてすぐだった。
冷静じゃいられなかった。化け物を相手しているような気分だった。呼び出して、二人だけで対峙するなんて考えたくはなかった。でもやるしかなかった。ずっと緊張していた。
……怖かった。怖かったんだ、私は。友達と話すために作った、たった一分ほどの作り笑顔で、心の余裕が品切れになっちゃうくらい。今ようやく、緊張が解けてるんだ。
背中をゆっくりとさすられた。大丈夫です、と言ってしまいたくて、でも言えなかった。ただただ暖かくて優しいココアは、勝手に塩っぽくなっていった。
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秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
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