愛人令嬢のはずが、堅物宰相閣下の偽恋人になりまして

依廼 あんこ

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10話 意外な人に迫られました_④

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「アーシャさまとは、別の馬車なのですね」
「ん?」

 ブルーノの申し出を受けることにしたイリスは、ミシェルとユリアとリーゼンバーグ家の者たちに見送らてフロイド歌劇場を後にした。しかし乗り込んだマスグレイヴ家の馬車内にアーシャの姿がなかったので、来るときと同様、帰るときも別々なのだと考えた。

 隣に座ったブルーノが「ああ、そうだな」と頷いたので、さすがはマスグレイヴ公爵家だと感じたが、どうやらイリスの解釈は真実と少し異なっていたらしい。

「俺はルファーレ王宮に個人の部屋を与えられて、毎日昼も夜もなく執務室で働いてるからな。母上とは、そもそも帰る場所が違うんだ」
「えっ……え! そうなのですか!?」

 ブルーノがさらりと告げてきた内容にびっくり仰天してしまう。

 ルファーレ王宮とマスグレイヴ公爵家の大きな屋敷は、遠く離れているわけではない。多少時間はかかると思うが通えないほどの距離ではないのに、ブルーノは王宮に住み込んで仕事に励んでいるという。しかも。

「帰ったらまた仕事をする」
「!?」
「さすがに疲れたから、今日はあまり遅くまで働くつもりはないが」
「当然です! 身体を壊してしまいますよ!?」

 なんとブルーノは、これからまだ仕事をするつもりらしい。時間はすでに午後の九時半。いつものイリスなら入浴を済ませ、ベッドに入って夜の読書を楽しんでいる時間だ。

 アーシャがやけにブルーノを心配していた理由を唐突に理解する。毎日こんな生活を続けていたら本当に身体を壊してしまう気がする。ストレスで倒れてしまうのではないか、と悪い想像を巡らせてしまうのだ。

「俺は平気だ。それより、イリスは大丈夫なのか?」
「……え?」

 思わずブルーノの頭部を確認しそうになったイリスだが、視線を上げる前にブルーノにそう問いかけられた。
 
 最初は質問の意味を理解できないイリスだったが、膝の上に置いた手にブルーノの手が重なり、

「震えてる」

 と呟かれた瞬間、彼の問いかけの意図を理解した。

「き、気づいてらしたんですね……」

 ブルーノの観察眼と洞察力に今日もまた驚いてしまう。

 そう。実は観劇の間中、イリスの脚と指先はずっと震えた状態にあった。その震えは今も収まらず、ワンピースドレスの中の脚も、さり気なくブルーノの視界から隠した指も、ずっと小刻みに揺れていた。それはもちろん、ストレスによるブルーノの毛根ダメージを気にしていたためではない。

 ――怖かったのだ。せっかく落ち着きかけていた悪い噂が再燃して広がることが。せっかくイリスに協力してくれているブルーノや、両親、友人たちに迷惑をかけることが。

 そしてなにより、ミハエルの嘲笑とエリックに掴まれた手の感触が気持ち悪くて、怖くて、耐えがたくて――イリスはあれからずっと、密かに震え続けていたのだ。

 だがそれを簡単に悟らせてしまうなんて、イリスは淑女失格である。上流貴族の令嬢たるもの、どんなときでも凛とした気高い姿を示し、どんな相手にも堂々と振る舞う気丈さが必要だ。恐怖に怯え、圧に屈し、簡単に感情を表に出すなんて高貴な女性に相応しくないと思うのに。

「ああいうことは、頻繁にあるのか?」
「……そう、ですね……お恥ずかしながら」
「……」

 ブルーノの確認に、情けない気持ちのまま力なく笑う。
 どうしたってこの震えは治まらないのだから、せめて無理やりにでも笑顔を見せなければと思う。

「え、ぶ、ブルーノさま!?」

 だがそんなイリスの虚勢を受け止めるように、腕を伸ばしたブルーノがイリスの身体を抱きしめてくる。先ほどミハエルとエリックに見せるつけるために行ったような優しさではなく、もっと強い……イリスの弱さを砕こうとするほどの力で。

「あ、あの……」
「イリスは、我慢強くて芯のしっかりした女性だな」

 驚いてあわあわと焦るイリスに、ブルーノが優しい声で語りかけてくる。

 怯えるイリスを慰めるように。恐怖を消して労わるように。苦しみや悲しみを和らげるように。

「けど怖いときや苦しいときに、無理して笑う必要はない」

 背中に回ったブルーノの手が、イリスの背中をとんとんと叩く。

 力強いのに優しい抱擁で。
 心の傷を癒すような温度で。
 イリスをあやすようなリズムで。

「俺を、もっと頼ってくれていいんだ」

 偽りの恋人ではない――まるで本当の恋人にかけるような、穏やかで甘やかな声で。

「……ありがとうございます、ブルーノさま」

 イリスの痛みを理解して癒してくれる背中に、そっと縋りつく。

 安心すると自然と涙が溢れて、ほろりと零れる。
 小さな雫がブルーノのコートの上に消えていくと同時に、イリスの身体の震えも少しずつ治まっていく気がした。

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