もしもバブル崩壊がなかったら

鈴武謙

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兆しの時代

利上げなき新年

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1990年1月12日 午前9時30分 日本銀行本店

記者たちがざわめく中、日銀の総裁・川路幸蔵が壇上に立った。
その手元に置かれた資料には、既に各紙の記者が目を通している。

「公定歩合、現行の3.25%を据え置き」

その一行が、金融市場に静かな衝撃を与えた。

「利上げは、なし……?」

「インフレ警戒はどうなった? 株価は……暴騰じゃないか?」

ほんの数秒後、東京証券取引所では株価が跳ね上がり、日経平均は午前中で1,000円近い上昇を見せた。
利上げを恐れていた外国人投資家たちが、一斉に買いを入れたのだ。



同時刻・大蔵省 理財局

真壁透は、モニターに映るチャートを冷静に見つめていた。
だがその心中には、激しく相反する感情が渦巻いていた。

「これが、俺の望んだ世界なのか……?」

利上げは回避された。自分の理論が、政治と結びつき、中央銀行を動かした。
だが、それは同時に――市場をもう一段、過熱させたことも意味していた。

机の上には、透が描いた「信用分散導入プラン」の草案が置かれていた。
銀行融資に対して、業種別・地域別の加重リスクを掛け、市場の歪みを自律的に調整する――その青写真だ。

「透。君の案、次官の了解が取れた。予算委にも掛けていい」

小宮が封筒を持って入ってきた。

「……ありがとう。だが、これが“正解”かどうかは分からない」

「正解なんて、誰にも分からんよ。ただし――今の経済は、君の手の中にある」

その言葉が、透の背筋を冷たく撫でた。



数日後・永田町・与党政調会

「“真壁理論”を中心に据えた産業政策パッケージを作成するべきです」

透は、官僚として初めて政調会でプレゼンテーションを行った。
背広の議員たちが一斉に視線を向ける。中には警戒の色を隠さない者もいた。

「大蔵省の若造が、政策をリードするとはな……」
「これが“永瀬ライン”の本命か」

だが、透の論理は正確で、そして美しかった。

「我が国の資本は、まだ“国民の手元”にある。ここにこそ、投資循環の核を据えるべきです」

それは、従来の「土地・株式バブル」ではなく――
国民の貯蓄を産業投資に転換する、新たな資本主義モデルの提示だった。

透の言葉が終わると、会場にはしばしの静寂が訪れ、そして小さな拍手が起きた。

永瀬将一郎が笑みを浮かべていた。



夜・自宅

透は、疲れ果ててソファに沈み込んだ。
テレビからは「株価4万円目前! 日本経済、世界一へ」の文字が踊っていた。

「このまま行けば、世界を変えられる」

だがその時、不意に思い出した。

かつて、父が零細企業の倒産で職を失い、家族が離散しかけたあの夜――
あの絶望と、涙と、怒り。

「俺は、同じことを繰り返していないか?」

成長という名の列車のスピードが速くなればなるほど、
落ちこぼれる者もまた、増える。

透は、手のひらに残る汗を静かに握りしめた。
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