もしもバブル崩壊がなかったら

鈴武謙

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兆しの時代

信仰の破片

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1990年5月下旬 東京・大蔵省 本省庁舎 理財局 第三会議室

「……つまり君は、通貨と信用の“秩序そのもの”を再設計するつもりなのか?」

重々しい声が、窓際に座る年配官僚から発せられた。
会議室の壁には、透が作成した図解資料が掲示されている。タイトルは――

『信用秩序再設計:第2次金融民主主義草案』

透の声は冷静だった。

「はい。この好景気の裏側では、“投資ではなく投機”を促す仕組みが蔓延し、それが金融機関と国家の信用を形骸化させています。今必要なのは、資金の“流し先”ではなく、“流し方の原理”そのものを再設計することです」

部屋の中には、理財局次長、金融企画課長、資金運用課の面々――そして、財務次官・桐野の姿もあった。

「ふむ。だが君の提案は、あまりに理想的すぎる。“リスク評価に政策的介入を”など、現場の混乱を招くだけだという意見もある」

「混乱ではなく、“転換”です」

透の目は揺るがない。

「今の制度は、もはや“市場に信じられている”というだけで自立しているのではなく、政府がそれを支えるという“錯覚”の上に成り立っています。信じられているのは制度ではなく、政府が崩壊させないだろうという希望です」

静まり返る会議室。

桐野が口を開いた。

「……真壁君。君の言っていることは正しいかもしれない。しかし、正しいことが“通る”とは限らないのが、この国の現実だ」

透は黙って頷いた。



その夜・赤坂の料亭「雲雀」

「透、お前の提案、相当上から反発を食らってるぞ」

小宮が酒を注ぎながら囁いた。

「俺が信用していた資金運用課の川村課長も、今回ばかりは“やりすぎだ”って言ってる。制度の根幹に手を突っ込むのは、いわば“神域”だ。触れていいと思ってないんだ」

「でも……制度そのものが、人を置き去りにしてる。俺は“国家の信仰”を守りたいんじゃない。“国民の生活”を守りたい」

「だとしても、お前は今、国家そのものを敵に回そうとしてるんだぞ」

透は静かに杯を置いた。

「分かってる。だけどもう、戻れない」



その翌日・帝国ホテル ロビー

朝比奈亮は、電話をかけながらロビーの柱にもたれていた。

「ええ。透は動き始めました。秩序の再設計なんて、まるで革命家ですね」

彼の目は、どこか楽しげだった。

「こちらは例の“複合型土地担保証券”の第一号を市場に出します。仕組みとしては合法ですが――破壊力は抜群です」

電話の向こうの相手は不明だ。だが、受話器の奥からは英語混じりの声が漏れていた。

「日本が制度そのもので揺らぐなら、投資のタイミングは今しかない。君の言った通り、“この国の信仰”が揺らいだ時が、俺たちの時代の始まりですよ」



同日・日本銀行 総裁室(非公式面談)

透は、日銀の副総裁予定者である永瀬派の推薦者・永瀬将一郎の部下である稲葉と、非公式に面会していた。

「真壁君、君の構想は、たしかに面白い。だが、それは“市場”を信じていない者の発想だ」

「いいえ、“市場”を盲信しすぎた結果、国が支えている構図が危ういんです。見せかけの自立など、持ちません」

「だとしても、その“幻想”が国を豊かにしている。それを壊した後に、何を提供できるのか?」

透は資料を差し出した。

「“成長の均衡配分システム”。これは単なるリスク評価の強化ではなく、“価値ある資金の送り先”を政策的に絞り込む枠組みです。浪費ではなく、成長を買う。――それが僕の考える“新しい信仰”です」

稲葉は目を細めた。

「君がその“新しい神父”になるつもりか?」

「いえ。僕は神を作るつもりはありません。“神に依存しない国”を作りたいんです」



週末・神楽坂 佐伯美月の部屋

「……記事を出すの?」

透は机に広げられた原稿用紙を見ながら訊ねた。
美月は静かに頷いた。

「書いたわ。“国家が支える幻想と、個人が信じたい現実”――あの信用秩序再構築案、匿名の形で紹介する。あなたの名前は出さない」

「ありがとう。でも……たぶん、俺の名前を出さないほうが“力”になる」

「それでも、伝わると思う。“信仰”が崩れるとき、誰かが“祈り”を思い出すのよ」

透は窓の外を見た。

夕暮れに染まる空の下、東京のビル群は静かに輝いていた。
それは、誰かの労働と希望の上に立つ“信仰の塔”。

それが崩れたときに――何が残るか。
それが今、問われている。



同時刻・大東証券 本社ビル内 地下フロア

朝比奈は、密かに開かれたファンド関係者向けブリーフィングで発表していた。

「来月、第一号の複合担保証券を発行します。土地、不動産債権、レバレッジ型社債――全てを一つの証券に統合した“日本型新金融商品”です」

参加者の多くが頷いていた。だが、その中には日本人の姿はほとんどなかった。

「この国の制度を、“中から食う”。その準備は整いました」

そして笑う。

「我々は、“信仰の破片”の上に、新しい祭壇を築くのです」
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