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第3話 不器用な餌付け
ふと目が覚めると、窓の外はすっかり明るくなっていた。ガタゴトという規則的な振動と、高級なベルベットの感触。
私は跳ね起きた。
「はっ、いけない! もう朝の六時!? 厨房の点検に行かないと……!」
条件反射で冷や汗が吹き出る。遅刻だ。侍女に何を言われるか分からない。慌てて姿勢を正そうとしたところで、目の前に座っていた人物と目が合った。
銀髪に赤目の強面な美丈夫。レオンハルト公爵だ。彼は読みかけの本を閉じ、きょとんとした顔で私を見ていた。
「……何を慌てている? まだ目的地までは半日あるぞ」
その低音ボイスを聞いて、私の脳味噌はようやく現状を再起動させた。
そうだ。私は昨日、婚約破棄されて、ブラック職場を解雇されたんだった。
厨房の点検も、朝の礼拝堂掃除も、もうしなくていいのだ。
「も、申し訳ありません。いつもの癖で……」
「謝る必要はない。……腹は減ったか?」
公爵様はバスケットから何かを取り出した。
焼きたてのパンの香ばしい匂いと燻製肉の豊かな香りがふわりと漂う。厚切りのローストビーフを挟んだサンドイッチだ。
王城での私の食事といえば、干からびた黒パンと具のないスープが定番だった。こんな贅沢な朝食、見たことすらない。
「え、これを私がいただいても……?」
「俺一人では食いきれん。遠慮なく食え。……もっと太らないと、辺境の寒さに耐えられんぞ」
彼はぶっきらぼうに言いながら、サンドイッチと温かい紅茶が入った水筒を押し付けてきた。
一口齧り付くと、肉汁とマスタードの風味が口いっぱいに広がる。
「……おいしい」
思わず涙が滲んだ。
ただのサンドイッチで泣くなんて恥ずかしいけれど、温かい食事をゆっくり座って食べるなんて、何年ぶりだろう。
私が夢中で食べる様子を公爵様は頬杖をついてじっと見つめていた。その赤い瞳は、獲物を狙う獣……というよりは、拾った猫が餌を食べるか心配そうに見守る飼い主のようだった。
「お前は、俺が怖くないのか?」
不意に彼が尋ねてきた。
「城の連中は皆、俺の顔を見ただけで悲鳴を上げるか、気絶するんだが」
「確かに、初めて拝見した時は驚きましたけど」
私は口元のパン屑を拭って、彼を真っ直ぐに見つめ返した。
「公爵様は私に、温かい食事と寝床、それに破格の契約をくださいました。私を道具扱いして使い潰した元婚約者の方々より、ずっと紳士的でお優しい方だと思います」
「……っ、ふん」
彼はバツが悪そうに視線を逸らし、長い銀髪をかき上げた。耳の先がほんのり赤くなっている気がする。
意外と照れ屋なのだろうか。私はクスリと笑った。
やがて馬車は街道を外れ、険しい山道へと入っていった。
北の辺境、ダリウス公爵領。
魔獣の生息域に近く、常に瘴気の脅威に晒されている土地だという。
「見えてきたぞ。あれが俺の屋敷だ」
公爵様の言葉に、私は窓の外を覗き込んだ。
森を抜けた先に現れたのは、巨大な石造りの城郭都市のような屋敷。
しかし――。
「うわぁ……」
私は思わず声を上げた。
屋敷全体が、どす黒い靄ですっぽりと覆われていたのだ。壁には蔦のように瘴気がへばりつき、窓ガラスは曇り、庭木は枯れかかっている。まるで幽霊屋敷だ。普通の人なら恐怖で逃げ出すレベルだろう。
「酷いだろう。俺の呪いが強まるにつれ、屋敷全体が蝕まれてしまった。使用人たちも、半数は体調を崩して辞めていった」
公爵様が自嘲気味に呟く。
けれど、私の目は輝いていた。
恐怖? いいえ。
(あれは……カビ? いや、長年の油汚れと埃の複合体ね。あの黒ずみ、高圧洗浄魔法を使えば一気に落ちそう……! あそこの窓の曇りも、スキージー魔法でキュッと拭いたら絶対に気持ちいいわ!)
私の目には、それがおぞましい呪いではなく、「やりがいのある掃除現場」にしか見えていなかった。
職業病とは恐ろしいもので、私の指先はすでにウズウズと疼き始めている。
「レオンハルト様」
「なんだ? 怖気づいたなら、今からでも街へ送らせるが……」
「いいえ。素晴らしいです」
私はガッツポーズを作って、満面の笑みを彼に向けた。
「これだけ汚れていれば、掃除しがいがあります! ピカピカにし甲斐があるというものです!」
「……は?」
公爵様がぽかんと口を開ける中、馬車は屋敷の門をくぐった。捨てられた聖女と、呪われた公爵。
私たちの、奇妙な同居生活がいよいよ幕を開けるのだ。
私は跳ね起きた。
「はっ、いけない! もう朝の六時!? 厨房の点検に行かないと……!」
条件反射で冷や汗が吹き出る。遅刻だ。侍女に何を言われるか分からない。慌てて姿勢を正そうとしたところで、目の前に座っていた人物と目が合った。
銀髪に赤目の強面な美丈夫。レオンハルト公爵だ。彼は読みかけの本を閉じ、きょとんとした顔で私を見ていた。
「……何を慌てている? まだ目的地までは半日あるぞ」
その低音ボイスを聞いて、私の脳味噌はようやく現状を再起動させた。
そうだ。私は昨日、婚約破棄されて、ブラック職場を解雇されたんだった。
厨房の点検も、朝の礼拝堂掃除も、もうしなくていいのだ。
「も、申し訳ありません。いつもの癖で……」
「謝る必要はない。……腹は減ったか?」
公爵様はバスケットから何かを取り出した。
焼きたてのパンの香ばしい匂いと燻製肉の豊かな香りがふわりと漂う。厚切りのローストビーフを挟んだサンドイッチだ。
王城での私の食事といえば、干からびた黒パンと具のないスープが定番だった。こんな贅沢な朝食、見たことすらない。
「え、これを私がいただいても……?」
「俺一人では食いきれん。遠慮なく食え。……もっと太らないと、辺境の寒さに耐えられんぞ」
彼はぶっきらぼうに言いながら、サンドイッチと温かい紅茶が入った水筒を押し付けてきた。
一口齧り付くと、肉汁とマスタードの風味が口いっぱいに広がる。
「……おいしい」
思わず涙が滲んだ。
ただのサンドイッチで泣くなんて恥ずかしいけれど、温かい食事をゆっくり座って食べるなんて、何年ぶりだろう。
私が夢中で食べる様子を公爵様は頬杖をついてじっと見つめていた。その赤い瞳は、獲物を狙う獣……というよりは、拾った猫が餌を食べるか心配そうに見守る飼い主のようだった。
「お前は、俺が怖くないのか?」
不意に彼が尋ねてきた。
「城の連中は皆、俺の顔を見ただけで悲鳴を上げるか、気絶するんだが」
「確かに、初めて拝見した時は驚きましたけど」
私は口元のパン屑を拭って、彼を真っ直ぐに見つめ返した。
「公爵様は私に、温かい食事と寝床、それに破格の契約をくださいました。私を道具扱いして使い潰した元婚約者の方々より、ずっと紳士的でお優しい方だと思います」
「……っ、ふん」
彼はバツが悪そうに視線を逸らし、長い銀髪をかき上げた。耳の先がほんのり赤くなっている気がする。
意外と照れ屋なのだろうか。私はクスリと笑った。
やがて馬車は街道を外れ、険しい山道へと入っていった。
北の辺境、ダリウス公爵領。
魔獣の生息域に近く、常に瘴気の脅威に晒されている土地だという。
「見えてきたぞ。あれが俺の屋敷だ」
公爵様の言葉に、私は窓の外を覗き込んだ。
森を抜けた先に現れたのは、巨大な石造りの城郭都市のような屋敷。
しかし――。
「うわぁ……」
私は思わず声を上げた。
屋敷全体が、どす黒い靄ですっぽりと覆われていたのだ。壁には蔦のように瘴気がへばりつき、窓ガラスは曇り、庭木は枯れかかっている。まるで幽霊屋敷だ。普通の人なら恐怖で逃げ出すレベルだろう。
「酷いだろう。俺の呪いが強まるにつれ、屋敷全体が蝕まれてしまった。使用人たちも、半数は体調を崩して辞めていった」
公爵様が自嘲気味に呟く。
けれど、私の目は輝いていた。
恐怖? いいえ。
(あれは……カビ? いや、長年の油汚れと埃の複合体ね。あの黒ずみ、高圧洗浄魔法を使えば一気に落ちそう……! あそこの窓の曇りも、スキージー魔法でキュッと拭いたら絶対に気持ちいいわ!)
私の目には、それがおぞましい呪いではなく、「やりがいのある掃除現場」にしか見えていなかった。
職業病とは恐ろしいもので、私の指先はすでにウズウズと疼き始めている。
「レオンハルト様」
「なんだ? 怖気づいたなら、今からでも街へ送らせるが……」
「いいえ。素晴らしいです」
私はガッツポーズを作って、満面の笑みを彼に向けた。
「これだけ汚れていれば、掃除しがいがあります! ピカピカにし甲斐があるというものです!」
「……は?」
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私たちの、奇妙な同居生活がいよいよ幕を開けるのだ。
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