追放された地味聖女が幸せになった理由〜「君の掃除スキルなど不要だ」と婚約破棄され、拾われた先は“穢れ”に覆われた呪いの公爵家でした〜

咲月ねむと

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​第8話 魔窟の執務室

 屋敷に来て一週間。私の生活は驚くほど充実していた。
 朝は厨房をピカピカにして美味しい朝食を食べ、昼は屋敷内の気になるところを掃除して回り、夜はふかふかのベッドで眠る。
 使用人たちともすっかり打ち解け、会うたびに「女神様」「天使様」と拝まれるのにも慣れてきた。

​ ただ、一つだけ気がかりなことがあった。
 雇い主であるレオンハルト様の姿をここ数日見ていないのだ。

​「フランツさん、レオンハルト様は……?」

「……旦那様は、三日前から執務室に籠もりきりです」

​ 昼食後のティータイム、給仕をしてくれたフランツさんが悲痛な顔で答えた。

​「領地の魔獣被害が増えておりまして、その対応に追われているのです。お食事もほとんど喉を通らないようで、お運びしても手付かずのまま戻ってきてしまいます」

「えっ、それは体に毒ですよ」

​ 健康管理もメイドの仕事だ。

 私は立ち上がった。

​「私が様子を見てきます。差し入れを持って」

「おやめください! 執務中の旦那様は呪いの制御が不安定で、部屋の中は瘴気が充満しております。うかつに入れば命に関わりますぞ!」

「大丈夫です。私、空気清浄機みたいなものですから」

​ 制止するフランツさんを笑顔で押し切り、私はトレイにサンドイッチとハーブティーを乗せて、三階の執務室へと向かった。

​ ◇

​ 執務室の重厚な扉の前に立つと、隙間から冷たい風が漏れ出しているのが分かった。
 ノックをしても返事はない。

 私は意を決して「失礼します」と声をかけながら扉を開けた。

​「……うわぁ」

​ 思わず声が出た。
 そこは、文字通りの『魔窟』だった。
 床が見えないほど散乱した書類の山。インクの匂いと澱んだ瘴気の匂いが混じり合った独特の悪臭。窓は閉め切られ、部屋全体が薄暗い。
 そして、部屋の奥のデスクで、レオンハルト様が頭を抱えて突っ伏していた。

​「……入るなと言ったはずだ、フランツ」

「フランツさんではありません。フローラです」

​ 私が部屋に入ると、彼はハッと顔を上げた。その顔色は青白く、目の下の隈は以前より濃くなっている。

​「フローラ……? なぜお前がここに。早く出ろ、俺の瘴気がお前に……っ!」

「移りませんよ、そんなもの」

​ 私はスタスタと歩み寄り、まずは窓を全開にした。
 冷涼な北の風が吹き込み、部屋の淀んだ空気を押し出す。

​「なっ……!」

「換気は基本です。それに、こんな暗い中で書類を見ていたら目が悪くなります」

​ 私はトレイをサイドテーブルに置くと、腕まくりをした。目の前に広がるのは、情報の洪水。
 普通のメイドなら悲鳴を上げて逃げ出すだろう。だが、私にとってはこれもまた「整頓すべき対象」だ。

​『整頓・検索ソーティング

​ 魔法を発動させる。

 私の指先の動きに合わせて、散らばっていた書類がふわりと浮き上がった。
 それらは空中でパラパラと踊り、「急ぎの案件」「保留」「決裁済み」「不要な資料」へと自動的に分類され、綺麗に積み重なっていく。

 ついでに床に落ちていたインクの染みも『部分洗浄』で消去。

​「……終わりました」

​ 所要時間三分。
 魔窟は整然としたモデルルームのようなオフィスへと変貌を遂げた。

​「お前、書類の整理までできるのか……」 

「書いてある文字を魔力でスキャンして、日付と重要度順に並べただけです。中身は読んでいませんのでご安心を」

「いや、そういう問題では……」

​ 呆気に取られているレオンハルト様に、私はサンドイッチを差し出した。

​「さあ、お仕事の環境は整いました。次は旦那様のメンテナンスです。これ、食べてください」

「食欲がない……」

「ダメです。一口でいいですから」

​ 半ば無理やりサンドイッチを口に押し込むと、彼は渋々といった様子で噛み締めた。
 すると強張っていた表情がふっと緩む。

​「……美味い」

「でしょう? 料理長特製の、疲労回復効果があるハーブチキンサンドです」

​ 彼がサンドイッチを食べ終えるのを見届けてから、私は彼の背後に回った。

​「失礼します」

「な、何をする気だ」

「肩、ガチガチじゃないですか。これじゃ頭痛もしますよ」

​ 彼の広い肩に手を置く。まるで岩のように硬い。
 呪いの影響で常に緊張状態にあるのだろう。
 私は優しく、しかし確実な圧力で凝りをほぐしていった。もちろん、ただのマッサージではない。

​『深層疲労除去リラックス・ウェーブ

​ 指先から温かい魔力を流し込む。
 筋肉の奥にへばりついた瘴気のカスを溶かし、血流を促進させるイメージだ。

​「っ……う、あ……」

​ レオンハルト様から何とも言えない甘い吐息が漏れた。
 ピクリと肩が跳ねるがすぐに力が抜けていく。

​「ど、どうしたんだ。体が……熱い。いや、心地よい熱さだ……」

「溜まっていた毒素が抜けている証拠です。楽にしていてください」

​ しばらくマッサージを続けると、彼の呼吸は次第に深く、穏やかになっていった。
 やがて私の手を握りしめるようにして、彼が呟く。

​「……すまない。お前に、こんなことばかりさせて」

「私が好きでやっているんです。汚い部屋や、辛そうな顔を見るのは嫌いですから」

「……そうか」

​ 彼は椅子の背もたれに体重を預け、天井を仰いだ。

​「ああ……久しぶりに、頭が痛くない。静かだ」

​ その顔は、初めて見るほど無防備で少年のような安らぎに満ちていた。

 私は心の中でガッツポーズをした。

 よし、公爵様のメンテナンス完了!

​「少し仮眠を取ってください。その間に、残りの書類の仕分けをしておきますから」

「……ああ。頼む……」

​ 数分もしないうちに規則正しい寝息が聞こえ始めた。
 最強の『穢れ公爵』も、睡魔と私のマッサージには勝てなかったようだ。
 私は毛布を掛け直しながら、寝顔に向かって小さく笑いかけた。

​「おやすみなさい、レオンハルト様」

​ この日の午後、執務室から出てきたレオンハルト様が、憑き物が落ちたようにスッキリした顔でバリバリ仕事を片付け、使用人たちを驚愕させたのは言うまでもない。
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