いぬがみとうま🐾短編集

いぬがみとうま🐾

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(異ファ/戦記)蒼墨のロジスティシャン 〜事務屋の勝利確定計算〜

第3話:凍える本隊

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 物理法則というものは、名誉や誇りなどという曖昧な言葉には一切の容赦もしない。
 標高千五百メートル。帝国軍本隊を襲ったのは、単なる寒波ではない。それは命を等しく「凍土」へと変える、沈黙の死神だった。

 阿鼻叫喚の地獄。
 だが、その叫び声すら、猛吹雪の咆哮によって無慈悲に掻き消されていく。

 バルバロス将軍が誇らしげに積ませた高級ワインの樽が、内側から膨張した氷の圧力に耐えかねて次々と破裂した。飛び散った赤い液体は瞬時に凍りつき、純白の雪原に不気味な「血のような跡」を刻みつける。

 兵士たちの凍傷は、もはや治療の段階を越えていた。
 感覚の消えた指先が、何かに触れた拍子にポロリとこぼれ落ちる。それを拾おうとした戦友の手もまた、冷たく硬直している。
 極限の寒さは正気を奪う。

「熱い、熱いんだよぉッ!」

 錯乱した一人の兵士が、防寒着を脱ぎ捨てて猛吹雪の中へ走り出した。逆説的熱感。数分後、彼は全裸に近い姿で直立したまま、精巧な氷像へと成り果てた。

 騎士たちの羽飾りは凍りついて重い棍棒と化し、高価なお守りはただの冷たい石塊だ。

 将軍の豪華な馬車ですら、暖炉の薪が尽きればただの鉄の棺桶に過ぎない。バルバロスは自分の腹の贅肉を抱えながらガタガタと震え、初めて「死」という名の帳尻合わせが自分に迫っていることに気づき、怯えていた。

 一方。
 軍列の最後尾、ロジ・カルク率いる輜重しちょう隊の設営地は、別世界のような穏やかな「秩序」が支配していた。

「布を三枚重ねろ。その間に、市場で買った脂身を均一に塗り込め」

 ロジの声は、この吹雪の中でも不気味なほど落ち着いていた。
 彼は青墨の汚れがついた指で、大きめの銀縁丸メガネを直す。耳には青墨の万年筆が挟まれている。

 ロジが考案した即席の「脂身燃料」が、ボロ布の芯を伝って、小さなコンロの中で青白い炎を上げた。
 ボロ布の繊維層が空気を抱き込み、脂身の高い熱量がそれを熱する。
 ただのゴミが、ロジの計算式を通ることで、命を繋ぐ聖域へと昇華されていた。

「これはゴミなんかじゃあない。命の灯火そのものだ。しっかり物理という物を味方につければ、この雪山もただの低温室に過ぎないんだよ」

 さらにロジは、抽出した油を部下たちの露出した肌に塗らせる。凍傷を防ぐための「防護膜」だ。

 絶望の淵にいた部下たちは、ロジの青いマントが揺れる光景に、騎士の加護よりも確実な救いを感じていた。

 テントの中には、脂身と根菜を煮立たせた香ばしい匂いが充満していた。

「美味そうだろう? ならば食え。これは俺達『臆病者』の特権だ」

 ロジが差し出したのは、脂身のカスと根菜と野草を煮込んだスープだった。
 泥臭く、洗練とは程遠い。だが、内臓を直接熱するような圧倒的な熱量。
 スープを啜り、頬を赤らめたティナが、ロジを真っ直ぐに見つめた。

「……やっぱり、ロジ様の言う通りでしたね。酒樽なんかよりも、この汚い布と油の方が、ずっと、ずっと温かいです」

 彼女の瞳には、「ロジの計算」への絶対的な信頼が、輝きとなって宿っていた。

 輜重隊の部下たちは温もりの中で、本隊から聞こえてくる断末魔を、遠い異国の出来事のように聞き流しながら眠りにつこうとしていた。

 だが、その平穏を、暴力的な衝撃が突き破った。



「――貴様ら、なぜ、ここは、こんなに温かい!」

 テントの幕が乱暴に跳ね上げられ、数人の騎士が中へと入り込んできた。
 抜刀された数振りの剣。

 その中心にいたのは、毛皮を何枚も着込み、寒さと怒りで化け物のような顔になったバルバロス将軍本人だった。彼に率いられた精鋭騎士団が、ロジの小さなテントを完全に取り囲む。

「その燃料、その食料をすべて本隊に供出せよ! これは命令だ! 輜重兵ごときが温かいスープなど、反逆にも等しい不遜であるぞ!」

 騎士が腰の剣を引き抜こうとする。
 ロジは帳簿から目を離さず、懐からバルバロスが署名した書類を取り出し、突きつける。

「お断りだ。この書類には、本隊の補給責任はすべてバルバロス将軍にあると記されている。俺の私財であるこの『ゴミ』を差し出す義務はない。……誇りでも燃やして温まるんだな、将軍様」

「……貴様。よくもそんな口が叩けるな。反逆罪で処刑されたいか、それとも今すぐその『兵站』を譲るか。選ばせてやろう」

 バルバロスの言葉には、理屈を圧殺する「暴力」の響きがあった。
 ティナが瞬時に剣の柄に手をかける。一触即発の沈黙。
 だが、ロジは動じない。彼は万年筆を動かし、帳簿に最後の一行を書き加えた。

「……まさか俺の計算が外れてしまうとはな」

 ロジは万年筆のキャップをカチリ、と鳴らして閉めた。
 丸メガネの奥、冷徹な瞳がバルバロスを射抜く。

「戦死者の数は、俺の計算よりわずかに増えそうだな……度し難い」

 嵐の夜、暴力と知性が真っ向から激突する。
 ロジの不敵な笑みが、暗闇の中で白く浮かび上がった。

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