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第2話 呪いの掛け軸は月の夜に泣く
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「……悪趣味ですね」
翡翠宮の一室。弥宝は、壁に掛けられた肖像画を前にして、開口一番そう吐き捨てた。
背後で蒼彗がくすりと笑う気配がする。だが、この部屋の主である李妃は、青ざめた顔でガタガタと震えていた。
「弥宝、と言ったか。不敬であるぞ。それは先代皇帝陛下が、最も愛した妃を描かせたという由緒ある品だ」
李妃の側に控える老女官が鋭く叱り飛ばすが、弥宝は一瞥もくれない。彼女が見ているのは「由緒」ではなく「物質」だ。
肖像画の美しい貴婦人の首筋から、どろりと赤い液体が滴っている。まるで、今しがた刃を当てられたかのように。
「呪い。呪いなのです。夜、月が昇ると、この絵が泣き出すのです……!」
李妃の声は悲鳴に近い。
弥宝は懐から、使い古された竹の箆を取り出した。
「お妃様、少し失礼しますよ」
弥宝は椅子を台にして肖像画に近づくと、その「血」の跡を箆の先で薄く削り取った。指先で練り、匂いを嗅ぐ。
「……なるほど。辰砂ですね」
「しんしゃ……?」
李妃が首を傾げる。
「水銀と硫黄の化合物。赤色の顔料としてよく使われますが、これは特殊な処置がされています。礬水――つまり、膠と明礬を混ぜた下地液の塗り方が、この首筋のラインだけ極端に薄い」
弥宝は、蒼彗から借り受けた特級の刷毛を取り出し、何もない空間で一度振った。
「この宮は、池の近くで湿気が多い。夜になり気温が下がると、空気中の水分が凝集します。礬水が薄い部分だけが湿気を吸い、裏側に仕込まれたこの顔料が、結露した水に溶け出して表に滲み出る。毛細管現象を利用した、ただの細工です」
弥宝は肖像画の端を少しだけ捲り、裏側を覗き込んだ。
「裏打ちの紙に、細い絹糸が数本仕込まれています。滲み出した赤い水は、この糸を伝って、重力に従い首筋から下へと流れる。……暗がりで見れば、確かに血が流れているように見えるでしょうね」
室内が、しん、と静まり返った。
呪いの正体を、あまりにも即物的な「湿度と毛細管現象」と言い切られ、幽霊に怯えていた女官たちは毒気を抜かれたような顔をしている。
「……そんな、ただの細工だと申すのか」
蒼彗が、怜悧な瞳で弥宝を見つめる。その目は、彼女を賞賛しているのではない。よく切れる「彫刻刀」の切れ味を確かめるような、冷ややかな視線だ。
「誰がそんな真似を。李妃様を陥れようとする者の仕業か」
「それを調べるのは内侍府の仕事でしょう。私の仕事は、この汚れた紙を剥がし、元の美しさに戻すことだけです」
弥宝は椅子から飛び降りると、蒼彗を睨みつけた。
「ここで作業をします。人払いをお願いします。余計な体温と吐息は、紙を傷めますから」
「……わかった。君の望み通りにしよう」
蒼彗が手を挙げると、李妃たちは渋々ながらも部屋を後にした。
部屋に残ったのは、弥宝と、監視役として残った蒼彗だけだ。
「さあ、仕事だ」
弥宝の顔から、先ほどまでの面倒くさそうな色が消えた。
彼女は、銀鼠墨と澄心堂紙を机に並べ、ゆっくりと膠を煮始めた。
古い掛け軸の解体は、外科手術に似ている。
何層にも重ねられた裏打ち紙を、水分を含ませた刷毛で一枚ずつ、慎重に剥がしていく。一ミリの狂いも許されない。紙の繊維が悲鳴を上げているのが、指先を通じて伝わってくる。
「……おい」
蒼彗が声をかけてくるが、弥宝は答えない。今の彼女にとって、この世に存在するのは自分と、この古い紙だけだ。
二枚目の裏打ち紙を剥がした時だった。
弥宝の指先が、奇妙な違和感を捉えた。
(……厚い)
紙の厚みが、一様ではない。
本来、裏打ちは均一であるべきだ。だが、この肖像画の裏には、もう一枚、別の紙が「貼り込まれて」いる。
弥宝は息を止め、最も細い箆を差し込んだ。
ゆっくりと、慎重に、隠された層を剥離させる。
現れたのは、肖像画の裏側に隠蔽されていた、別の「絵」だった。
「…………これは」
弥宝の背筋に、氷水を流し込まれたような戦慄が走った。
そこにあったのは、先代皇帝の寵愛を受けた妃の姿ではない。
どす黒い墨で描かれた、無数の「呪詛の言葉」と、現在の皇帝の御名を刺し貫く、おぞましい赤塗りの針の絵だった。
「どうした、弥宝」
蒼彗が近づいてくる。弥宝は咄嗟に、剥がしたばかりの汚れた紙でその隠し絵を覆い隠そうとした。
だが、遅かった。
蒼彗の手が、弥宝の肩を強く掴む。
「……見せてみろ」
その声は、氷のように冷たかった。
弥宝は悟った。
この「呪いの掛け軸」騒動は、李妃を追い出すための嫌がらせなどではない。
この掛け軸そのものが、現皇帝の治世を根底から呪い、転覆させようとする「大逆の証拠品」だったのである。
「……気づかなければ良かった。私は、ただ紙を直したかっただけなのに」
弥宝は、自分の手が震えていることに気づいた。
蒼彗は隠し絵を凝視したまま、恐ろしいほど美しい微笑を浮かべた。
「いいや、弥宝。君は最高の仕事をした。これこそが、私が君に探させたかった『本物の呪い』だ」
蒼彗の指先が、弥宝の頬をなぞる。それは愛撫ではなく、逃げ場を塞ぐ蛇の動きだった。
「さあ、修復を続けろ。ただし、この絵は無かったことにするな。この上に、さらに『別の真実』を重ねて書き換えるんだ。……君のその、偽造の腕でな」
弥宝は、目の前の男が呪いよりも遥かに恐ろしい存在であることを確信する。
彼女は、煮え立つ膠の匂いの中で、取り返しのつかない深淵に足を踏み入れたことを知った。
翡翠宮の一室。弥宝は、壁に掛けられた肖像画を前にして、開口一番そう吐き捨てた。
背後で蒼彗がくすりと笑う気配がする。だが、この部屋の主である李妃は、青ざめた顔でガタガタと震えていた。
「弥宝、と言ったか。不敬であるぞ。それは先代皇帝陛下が、最も愛した妃を描かせたという由緒ある品だ」
李妃の側に控える老女官が鋭く叱り飛ばすが、弥宝は一瞥もくれない。彼女が見ているのは「由緒」ではなく「物質」だ。
肖像画の美しい貴婦人の首筋から、どろりと赤い液体が滴っている。まるで、今しがた刃を当てられたかのように。
「呪い。呪いなのです。夜、月が昇ると、この絵が泣き出すのです……!」
李妃の声は悲鳴に近い。
弥宝は懐から、使い古された竹の箆を取り出した。
「お妃様、少し失礼しますよ」
弥宝は椅子を台にして肖像画に近づくと、その「血」の跡を箆の先で薄く削り取った。指先で練り、匂いを嗅ぐ。
「……なるほど。辰砂ですね」
「しんしゃ……?」
李妃が首を傾げる。
「水銀と硫黄の化合物。赤色の顔料としてよく使われますが、これは特殊な処置がされています。礬水――つまり、膠と明礬を混ぜた下地液の塗り方が、この首筋のラインだけ極端に薄い」
弥宝は、蒼彗から借り受けた特級の刷毛を取り出し、何もない空間で一度振った。
「この宮は、池の近くで湿気が多い。夜になり気温が下がると、空気中の水分が凝集します。礬水が薄い部分だけが湿気を吸い、裏側に仕込まれたこの顔料が、結露した水に溶け出して表に滲み出る。毛細管現象を利用した、ただの細工です」
弥宝は肖像画の端を少しだけ捲り、裏側を覗き込んだ。
「裏打ちの紙に、細い絹糸が数本仕込まれています。滲み出した赤い水は、この糸を伝って、重力に従い首筋から下へと流れる。……暗がりで見れば、確かに血が流れているように見えるでしょうね」
室内が、しん、と静まり返った。
呪いの正体を、あまりにも即物的な「湿度と毛細管現象」と言い切られ、幽霊に怯えていた女官たちは毒気を抜かれたような顔をしている。
「……そんな、ただの細工だと申すのか」
蒼彗が、怜悧な瞳で弥宝を見つめる。その目は、彼女を賞賛しているのではない。よく切れる「彫刻刀」の切れ味を確かめるような、冷ややかな視線だ。
「誰がそんな真似を。李妃様を陥れようとする者の仕業か」
「それを調べるのは内侍府の仕事でしょう。私の仕事は、この汚れた紙を剥がし、元の美しさに戻すことだけです」
弥宝は椅子から飛び降りると、蒼彗を睨みつけた。
「ここで作業をします。人払いをお願いします。余計な体温と吐息は、紙を傷めますから」
「……わかった。君の望み通りにしよう」
蒼彗が手を挙げると、李妃たちは渋々ながらも部屋を後にした。
部屋に残ったのは、弥宝と、監視役として残った蒼彗だけだ。
「さあ、仕事だ」
弥宝の顔から、先ほどまでの面倒くさそうな色が消えた。
彼女は、銀鼠墨と澄心堂紙を机に並べ、ゆっくりと膠を煮始めた。
古い掛け軸の解体は、外科手術に似ている。
何層にも重ねられた裏打ち紙を、水分を含ませた刷毛で一枚ずつ、慎重に剥がしていく。一ミリの狂いも許されない。紙の繊維が悲鳴を上げているのが、指先を通じて伝わってくる。
「……おい」
蒼彗が声をかけてくるが、弥宝は答えない。今の彼女にとって、この世に存在するのは自分と、この古い紙だけだ。
二枚目の裏打ち紙を剥がした時だった。
弥宝の指先が、奇妙な違和感を捉えた。
(……厚い)
紙の厚みが、一様ではない。
本来、裏打ちは均一であるべきだ。だが、この肖像画の裏には、もう一枚、別の紙が「貼り込まれて」いる。
弥宝は息を止め、最も細い箆を差し込んだ。
ゆっくりと、慎重に、隠された層を剥離させる。
現れたのは、肖像画の裏側に隠蔽されていた、別の「絵」だった。
「…………これは」
弥宝の背筋に、氷水を流し込まれたような戦慄が走った。
そこにあったのは、先代皇帝の寵愛を受けた妃の姿ではない。
どす黒い墨で描かれた、無数の「呪詛の言葉」と、現在の皇帝の御名を刺し貫く、おぞましい赤塗りの針の絵だった。
「どうした、弥宝」
蒼彗が近づいてくる。弥宝は咄嗟に、剥がしたばかりの汚れた紙でその隠し絵を覆い隠そうとした。
だが、遅かった。
蒼彗の手が、弥宝の肩を強く掴む。
「……見せてみろ」
その声は、氷のように冷たかった。
弥宝は悟った。
この「呪いの掛け軸」騒動は、李妃を追い出すための嫌がらせなどではない。
この掛け軸そのものが、現皇帝の治世を根底から呪い、転覆させようとする「大逆の証拠品」だったのである。
「……気づかなければ良かった。私は、ただ紙を直したかっただけなのに」
弥宝は、自分の手が震えていることに気づいた。
蒼彗は隠し絵を凝視したまま、恐ろしいほど美しい微笑を浮かべた。
「いいや、弥宝。君は最高の仕事をした。これこそが、私が君に探させたかった『本物の呪い』だ」
蒼彗の指先が、弥宝の頬をなぞる。それは愛撫ではなく、逃げ場を塞ぐ蛇の動きだった。
「さあ、修復を続けろ。ただし、この絵は無かったことにするな。この上に、さらに『別の真実』を重ねて書き換えるんだ。……君のその、偽造の腕でな」
弥宝は、目の前の男が呪いよりも遥かに恐ろしい存在であることを確信する。
彼女は、煮え立つ膠の匂いの中で、取り返しのつかない深淵に足を踏み入れたことを知った。
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