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ミヤコ幻獣トリミングの、あわあわな一日
第1章:看板犬モップの「二度寝」と朝の開店準備
しおりを挟む窓の外、深い森の向こう側から、薄桃色の朝焼けが空を優しく塗り替えようとしていた。
小鳥たちがちゅんちゅんと、一日の始まりを告げる歌を歌い始めている。
けれど、私の意識はまだ、まどろみの深い淵に沈んだままだ。
その理由は、抗いようのない「重み」と「温かさ」にある。
「……んん……、モップ……重たい、よ……」
喉の奥で漏れた私の声は、厚手の毛布を何枚も重ねたような、ふかふかの銀色に吸い込まれていった。
薄目を開ければ、視界のすべてが白銀の毛並みで埋め尽くされている。
それは、かつて「世界を喰らう終焉の獣」として神話に刻まれた、伝説のフェンリル・ヴォイド。
……なのだけど。
「わふぅ……、むにゃ……」
お腹の上で完全に仰向けになり、無防備にもほどがある格好、いわゆる「へそ天」……で寝ている巨大な狼。それがうちのお店――『ミヤコ幻獣トリミング』の看板犬、モップだ。
規則正しく上下する、この子のお腹に合わせて、私の体もゆりかごのように揺れている。
その吐息は、ほんのりと太陽の下で干した毛布のような、お日様の匂いがした。
(……このまま二度寝してしまえたら、どんなに幸せかしら)
一瞬、そんな誘惑が頭をよぎる。
けれど、今日のお客様リストを思い出し、私はなんとか理性を振り絞った。
王宮の「廃棄物処理係」を辞めて、この山奥で店を構えてから、この季節が一番の書き入れ時なのだ。
「モップ。もう起きる時間よ。ほら、今日もいっぱいお客さんが来るんだから」
私はやっとの思いで腕を抜き出し、モップの脇腹あたりを、指先で優しくくすぐった。
「わふっ!? ……ふぁ……ぁ……」
モップは大きなあくびを一つ。
その際に見える牙は、大岩をも容易く噛み砕くほど鋭い。
モップは寝ぼけ眼で私を見ると、大きな頭を私の肩口に擦り寄せてきた。
べろん、と湿った大きな舌が私の頬を遠慮なく舐め上げる。
「もう、顔がよだれでべたべたになっちゃうじゃない。ほら、どいて」
「くぅん(むぅ)」
悲しげな声を出すけれど、その尻尾はバタバタとベッドを叩いている。ドスドスという景気のいい音に合わせて、床から振動が伝わってくる。
私はモップをなんとか押し退け、ひんやりとした朝の空気の中へ這い出した。
「そんなに甘えてもダメよ。ブラッシングを終えるまで、朝ごはんはお預け。綺麗な体で食べないと、せっかくのヤギミルクに毛が入っちゃうでしょ?」
朝の光の中で、彼の毛並みがひときわ銀色に輝く。
かつて彼を包んでいた、あのどす黒い絶望の影は、今やどこにも見当たらない。
キッチンからお湯を沸かす音が聞こえ、淹れたハーブティーの爽やかな香りが漂い始める。
私は身支度を整えると、一階の店舗スペースへと階段を降りた。
ここは人里離れた山奥にある、幻獣専門の「ミヤコ幻獣トリミング」。
店内の大きなガラス窓に目を向けると、外側が真っ白に曇っていた。
「あらあら、またね」
それはただの結露ではない。近所に住むアイス・ワイバーンが、朝の挨拶代わりに吹きかけた鼻息……「魔氷」の膜だ。
その表面には、まるで繊細なレースを編み上げたような、美しい氷結晶の紋様が浮き出している。
普通の道具では削り取ることすら難しいこの氷も、私にとっては朝のちょっとしたお仕事に過ぎない。
私は指先を鳴らし、生活魔法を発動させる。
「ふわふわ、ぴかぴか。お部屋の汚れは心の汚れっ!」
指先から、きめ細やかな白い泡が溢れ出した。
その泡を窓ガラスに滑らせると、レモングラスのような清涼感のある香りが一瞬で空間を満たす。
ジュワジュワと小さな音を立てて氷が溶け、窓は朝の光を透過させる曇り一つない輝きを取り戻した。
「ふふ、よし。これで準備万端ね」
窓を拭きながら、私に寄り添うモップを見やる。
かつて王宮で、呪われた幻獣や魔道具をひたすら洗っていた私が見つけたのは、廃棄処理のために運ばれてきた「黒いヘドロの塊」だった。
誰もが処分すべきだと言ったけれど、私には彼がただ「酷く汚れて、ひどく悲しんでいる」ようにしか見えなかった。
『こんなに汚れて処理されていくなんて可哀想』
そう言って、時間をかけてこの子を洗い続けた結果が、この純銀の幻獣だ。
「ねえ、モップ。今でこそあなたはそんなにピカピカだけど、初めて会った時は本当に酷かったのよ? 泥んこを通り越して、まるで歩く不運の塊だったんだから」
「わふ? (そんなに汚かったの?)」
モップは不思議そうに首を傾げる。
「ふふ、ほんとに見違えたわ。今のあなたは、世界で一番綺麗な看板犬だもの」
モップが嬉しそうに尻尾を振ると、その風圧で近くのブラシ入れがカタカタと鳴った。
さあ、トリミング道具の準備も、お掃除も完璧。
「よし、開店準備は終わり。次はあなたのブラッシング。今日は特別に、月光草のオイルを使ってあげるから。覚悟してね?」
期待に満ちたモップの瞳が、きらきらと金色に輝いた。
山奥の小さな店に、今日も泡の音と、穏やかな時間が満ちていく。
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