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王都へお出かけ編
第6話:百人と羊皮紙とミヤコの講義
しおりを挟む王立幻獣管理施設の中心に位置する、ドーム型の石造講堂。
高い天井へと吸い込まれていくようなその空間は、今日、異様なほどの熱気に包まれていた。
すり鉢状になった客席を埋め尽くしているのは、王国中から集められた百人の精鋭飼育官たち。
彼らは皆、この国における幻獣お世話のエリートであり、普段、一癖も二癖もある強者ばかりだと聞いている。
けれど、壇上に上がった私の目に飛び込んできたのは、まるでこれから決死の突撃でも敢行するかのような、悲壮なまでに引き締まった男たちの顔、顔、顔。
(……みんな、どうしてそんなに怖い顔をしているのかしら。今日はお掃除のコツをお話しするだけなのに)
私は心の中で小さくため息をつきながら、隣で巨大な銀色のクッションのように丸まっているモップの毛並みに、そっと手を置いた。
モップは「わふん」と鼻を鳴らし、退屈そうに黄金の瞳を半分閉じている。
彼のその圧倒的な存在感だけで、会場の空気はぴんと張り詰め、誰一人として私語を発する者はいなかった。
会場に満ちているのは、乾いた羊皮紙の匂いと、鋭く尖らせた羽ペンのインクの香り。
そして、百人のエリートたちが発する、期待と緊張が入り混じった熱い吐息だ。
「皆さん、こんにちは。今日は遠くから来てくれている人もいるそうで。ありがとうございます。……えっと、そんなに肩を怒らせなくても大丈夫ですよ。お掃除は、もっとリラックスして楽しむものですから」
私が穏やかに口を開くと、会場全体から「ガサッ!」という激しい音が上がった。
全員が一斉に羊皮紙を広げ、羽ペンを構えたのだ。その統制の取れた動きは、あまりにも見事で、少しだけ圧倒されてしまう。
「では……まずは、ブラシの持ち方から始めましょうか」
私のその一言を合図に、歴史に刻まれるべき奇妙な講義が幕を開けた。
「いいですか? ブラシは『当てる』のではなく、『添える』のです。まずは、幻獣が求めている場所を、指先で探ってください」
私は壇上のテーブルに置いた、私愛用の猪毛ブラシを手にした。
使い込まれて琥珀色に透き通ったそのブラシを、空中でゆっくりと動かしてみせる。
「角度は、常に十五度を意識してください。それ以上深く入れれば皮膚を傷め、浅ければ幻獣の発した魔力の澱に届きません。……そう、ちょうど、焦げ付いたお鍋の汚れを、傷をつけずに浮かせる時のように」
王都の高名な先生方は、それを「幻獣発生魔力の縺れ」だの「術式の歪み」だのと難しく語るけれど、私の目にはもっと単純なものとして映っている。
それは、放っておけば油膜のように重る「煤」や「油汚れ」。
「不潔な心は、不潔な環境から生まれるのです」
私が魔法で空中に「理想的な毛並みの流れ」を光の線で描き出すと、受講生たちの間から、地鳴りのようなどよめきが上がった。
エリートたちは、私が発する「十五度」という数字や「油膜」という例えを一心不乱に書き留めている。
カキカキカキカキ……ッ!
私が少しでも具体的な手法を口にするたび、講堂全体から猛烈な筆記音が降り注いだ。
講堂を見渡せば、額に汗を浮かべ、血走った眼で羊皮紙を埋め尽くしていく飼育官たちの姿があった。
中には感動のあまり、震える手で目元を拭うベテランらしき人の姿まである。
(ただのブラシの角度なのに、どうしてそんなに必死なの? 角度計なんて使わなくても、手のひらで感じればわかることなのに……)
自身の持つ技術の「価値」に対して、私は相変わらず無頓着なままだった。
けれど、彼らにとっては、私の何気ない一言こそが、数十年解決できなかった現場の難問を解く鍵となっている。
「ミヤコ様! 今の、聖水の配合比率は零点三パーセントですか、それとも零点三五パーセントですか!?」
一人の若い飼育官が、身を乗り出すようにして叫んだ。
「その子の汚れ具合によりますけれど……基本は、春の朝露くらいの透明感を目指すといいわ。あまり濃すぎると、あの子たちの自前の魔力まで落としてしまいますから」
「春の朝露……。なるほど、すばらしい例えだ! これがミヤコ様の真髄か……!」
彼は何やら深く納得した様子で、羊皮紙を使い切り、ついには机の端にまで何かを書き込み始めた。
その光景に、私は少しだけ引いてしまいそうになったけれど、彼らのお掃除への情熱に心が温かくなる。
「……さて。技術の話はこれくらいにして、次は皆さんの身だしなみについてお話ししましょうか」
私は、客席の飼育官たちの首元を指差した。
そこには、飼育業界の常識である、幻獣よけの「臭い玉」がペンダントとして下げられている。
聖水をベースに、幻獣だけが嫌う不快な臭いを放つ魔導具だ。
「皆さんがつけているその『臭い玉』。幻獣に襲われないためには便利かもしれません。けれど、そんな嫌な臭いを体に染み付かせるなんて、私、許せませんわ」
会場が、水を打ったように静まり返った。
「幻獣たちは鼻が良いのです。そんな臭いをさせて近づけば、あの子たちは貴方たちを『嫌な存在』として認識してしまいます。拒絶するから、拒絶される。……これではいつまで経っても、心を通わせることなんてできません」
私は首元から、柔らかなハーブの香りが漂う「特製・匂い玉」を取り出してみせた。
ミントとカモミール、そして微かな魔蜜オレンジの香りが、壇上からふわりと広がっていく。
「逆転の発想です。あの子たちが大好きな、心が凪いでいく匂いを染み込ませた『匂い玉』にすればいいのです。拒絶するのではなく、招き入れる。そうすれば、彼らが牙を剥く理由などなくなるのですから」
講堂を、感嘆の溜息が揺らした。
拒絶――臭いではなく、受容――匂いによる信頼関係の構築。
これまでの飼育学を根本から覆す、あまりにも純粋で、けれど誰もが盲点だった理論。
「明日の実習では、この匂い玉の力をお見せしましょう。今日、あんなに暴れていたユニコリザードさんも、きっと穏やかな顔を見せてくれるはずですわ」
私は微笑み、羊皮紙をインクで真っ黒に染め上げた百人の飼育官たちを見渡した。
彼らの瞳には、新しい世界を夢見る子供のような輝きが宿っていた。
「では、講義はこれで終わりです。明日の実習を楽しみにしていてくださいね」
嵐のような拍手が、ドームの天井を揺るがした。
私は少しだけ照れくさくなって、モップの背を擦る。
明日の実習――そこで起きる「奇跡」が、さらに彼らを驚かせることになるのを、私は確信していた。
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