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ミヤコ幼少期編
第14話:ロシロ村の影、最前線への鼓動
しおりを挟む山あいの朝は、肺の奥まで洗われるような清冽な空気に満ちていた。
空の端が淡い薄紅に染まり始め、夜のしじまがゆっくりと溶けていく。軒先に残った朝露が、登り始めた太陽の光を受けて、宝石の粒のようにきらきらと瞬いていた。
私は身支度を整え、使い慣れたブラシ鞄のベルトをきゅっと締め直す。
昨夜、熱のせいで顔を真っ赤にしていたグレン様も、今朝はすっかり落ち着いた様子で庭先に立っていた。その瞳には、一国の騎士団長としての凛々しさが戻っている。
「グレン様、お顔の色も良くなりましたね。昨夜のスープが効いたのかしら」
「……ああ。おかげさまで、体がとても軽い。……貴女の作ってくれた食事は、どんな回復魔法よりも効くようだ」
グレン様が少しだけ照れくさそうに視線を逸らした。
私はその様子を微笑ましく思いながら、待機しているモップの背に掛けた鞍の鞄に、ユニコリザード特製の洗浄液を詰めた瓶を積み込んでいく。
「よし、準備は万全。ユニコリザードたちを助けに行きましょう!」
モップの銀色の毛並みをひと撫でし、いざ出発しようとしたその時だった。
遠く、街道の先から、不自然なほど激しい蹄の音が響いてきた。
ドッドッドッドッ……!
それはのんびりとした旅人のものではなく、切迫した緊急事態を知らせる、心臓を直接叩くような重苦しい響き。
森の小鳥たちが一斉に羽ばたき、再び周囲に冷ややかな緊張感が走り抜けた。
「早馬か。……何かあったな」
グレン様の表情が、瞬時に国家の盾としての峻烈なものへと塗り替えられた。
山道のカーブから飛び出してきたのは、激しい砂煙を上げ、全身泥にまみれた一騎の早馬だった。
王宮の紋章が刻まれた青いマントを翻し、落馬せんばかりの勢いで駆けてくる。馬の口元からは白い泡が吹き出し、その呼吸は限界を超えて喘いでいた。
私たちの目の前で強引に手綱が引かれ、伝書官が転がり落ちるようにしてグレン様の前に跪いた。
「……報告……っ、騎士団長閣下……! 王都周辺……および……前線での暴走個体……その全調査結果……です!」
伝書官の声は掠れ、ひどく震えていた。
差し出された防水革の筒。それを受け取るグレン様の指先が、僅かに強張る。
「ご苦労。……下がって休め」
グレン様は短く告げると、その場で封蝋を引き剥がした。
乾いた音が、朝の静かな空気を不快に引き裂く。
グレン様が書面に目を落とした瞬間。
嫌な空気が纏い、嫌な予感が胸をよぎった。
彼の碧い瞳が見開かれ、それから、訝しげな表情へと変わる。
手にした羊皮紙が、カサリ、と震えた。
「…………っ、これは……そうか」
私の胸の奥に、冷たい雫がポタリと落ちた。
嫌な予感が、黒い煙となって足元から這い上がってくる。
「……グレン様?」
私の呼びかけに、グレン様はしばらくの間、呼吸を忘れたかのように固まっていた。
やがて、彼は重い沈黙を破り、私を真っ直ぐに見据えた。その眼差しは、哀れみと、そして決死の覚悟を孕んでいた。
「……この事件の源流が、見つかりました」
「角折れを起こし、暴走を招いた五歳の個体たち。……その全ての『仕入元』……処置を行った飼育場が、判明しました」
グレン様が、喉の奥で押し殺したような声を漏らす。
「仕入元の名は……ロシロ村。王都から離れた、あの辺境の村です」
その言葉が耳に届いた瞬間、私の世界から色彩が消えた。
「ロシロ村……?」
掠れた声が、自分の口から漏れたことにすら気づかなかった。
視界がぐらりと揺れ、足元の石畳が遠のいていく。
喉の奥がキュッと熱くなり、指先が瞬く間に氷のように冷たく凍りついていくのを感じた。
(……嘘。……だってそこは、ジョゼクさんの技術が浸透したところよ……)
脳裏に浮かぶのは、自分を救ってくれた、あの節くれ立った大きな手。
不器用な優しさでブラシの持ち方を教えてくれた、私の大切な育ての親。
数年前に彼が亡くなった後も、あの村の人々は、彼が遺した清らかな技術に誇りを持って生きてきたはずだった。
「……嘘。……そんなの、信じられませんわ。ジョゼクさんは……あんなに、あんなに綺麗にユニコリザードたちを守っていたのに。不潔な真似なんて、誰よりも嫌っていたのに……!」
私の震える声に呼応するように、足元でモップが低く、悲しげに喉を鳴らした。
「……ミヤコ殿。貴女の故郷だったのか……いや、なにか理由が……。だが、今年納入された問題の個体は、すべてそこから来ている」
清潔であること、命を慈しむことを教わった私の故郷が、今、不浄の代名詞になろうとしている。
その不快な事実に、私の胸の奥で何かがパリンと割れる音がした。
私は深く、長く、肺にある冷たい空気を吐き出した。
乱れた心を凪がせるために、モップの背中の毛に指を深く沈める。
トクン、トクン……。
モップの力強い鼓動が、手のひらを通して私の心臓を叩く。
ショックに打ちひしがれている暇なんて、一秒だってもったいない。
もし、私とジョゼクさんが愛したあの村で、誰かが不潔な過ちを犯しているのだとしたら。
それを洗い流せるのは、ジョゼクさんの意思を受け継いだ私しかいない。
私はゆっくりと顔を上げた。
黄金色の瞳が、朝陽を受けて鋭いまたたきを放つ。
「行きましょう、グレン様」
私の声は、もはや震えてはいなかった。
「本当に過ちを犯しているなら、この目で見届けなければなりません。……ちょうどロシロ村は隣国との国境付近から近い。立ち寄ってもよろしいですか?」
グレン様は驚いたように目を見開いた後、誇らしげに口角を上げた。
「……強いな、貴女は。……わかった。全速力で向かおう。ロシロ村へ」
グレン様がグリフォンに跨る。
私もモップの背に跨がると、モップは力強く大地を叩いた。
「ワンッ!!」
白銀の巨狼が短く咆哮を上げ、暁の光の中へと弾かれたように駆け出す。
それは光を切り裂く一筋の波となって、険しい山道を突き進んでいった。
風を切る金属の擦れる響き。
二人の背後には、住み慣れた店の屋根が急速に小さくなっていく。
その先に待っているのは、血の匂いが漂う前線と、不穏な影に包まれた故郷。
「待っていてね、みんな……。今すぐ、不潔な正体を根こそぎ洗い流してあげるから!」
私は流れる景色を見据え、心の中で静かに誓った。
不潔なものは、許さない。
たとえそれが、私の愛した過去の欠片であったとしても。
私は飼育官としての矜持を胸に、最前線、そしてロシロ村へと向かう鼓動を速めていった。
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