あをによし ~年下宰相様は日本画家の地味系女子にご執心です~

柚木音哉

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27.齎されたものは。

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「うぅん……」

 美月は小さな呻き声を上げた。
 手には平刷毛。自身の前には下絵を描き終えた白いパネルがある。

 下塗り用の平刷毛に、水分を多く含ませた胡粉と水干すいひ絵具の水浅葱を薄く混ぜて下絵が描かれた画面の上から全体に塗る。
 先程の呻き声は、独り言だ。

(私の……「覚悟」かぁ……)

 レオンハルトは忙しい。十日ほどの休暇を終え、このベルンシュタインに帰って来たのはほんの数日前だ。しかし、それでも既に休暇中の仕事がまた溜まってしまったのか、帰参した翌日の早朝、夜が明ける少し前には、もうその姿は邸の中に無かった。
 先日、彼の従兄弟であるローウェルが隣国アルスラへと向かったのと関係があるのかもしれない。

 「客人まれびと」とは、何だろう?

 何の為にこの世界に、呼ばれる人が居るんだろうか。
 美月のように、偶然やって来る人はまだしも。召喚師を使ってまで、呼ばれる人は……美月達とは、どう違うのだろうか?

(私はこの世界に……レオンハルトに会いたくて、やって来たのに)
 レオンハルトは真っ直ぐに想いを伝えて来るのに、美月と来たら自分からは想いを返していない。
 彼を好きだと思う気持ちはある。だけども、あちらの世界でも恋に疎かった美月には、そもそも、その気持ちと現実が、まだ自分の中で上手く重ならないのだ。
 彼からの真っ直ぐな告白を受け止めて、嬉しかった。
 ふわふわと浮き足立つような、恥ずかしさに加えて、じわじわと湧き上がる喜びを感じたのも事実。だけども、それと同時に戸惑ってしまっていたのも事実で、自分が彼の隣りに立つ覚悟が無いことにも気付かされたのだ。
 そう。レオンハルトはこのオーレリアの国の宰相であり、貴族の名門ルーデンボルグ家の当主である。
 美月は、レオンハルトに抱えられてはいるが、世間的には客人と言う立場を抜きにすれば只のしがないひよっこ無名画家だ。

 レオンハルトの隣りに立つなら、その現実も考え無い訳にはいかない。
(私で、良いのだろうか?)
 勿論、彼はそんな些末なことを気にはしないんだろう。彼にはそれなりの力があるのだ。それでも……美月とて、もう二十四だ。もっと自分が若ければ、例えば三年半前のあの時なら、何にも考えずにあの人の胸に飛び込むことが出来ただろうか?
(あの時も――私は、年が離れていることを理由に逃げたのでは無いのか?)
 レオンハルトから向けられる好意を知っていたのに、見ない振りをしたのは自分では無かったか?

 また逃げるのか?
(ダメ。今度はきちんと向き合うって決めたんだから……)
 今の美月もまた、それなりに現実を見ることを知っている。 

(彼を、レオンハルトを好きだ……)
 でも、やっぱり、まだ自分には彼の隣りに居るんだって覚悟が足りない。煮え切らない想いがどこから来るのか分からない。ただ、その選択を選ぶのが、自分は怖いだけなのかもしれない。

 刷毛を大きな筆洗代わりの器の中に満たされた水で洗い、布で拭いながら、美月は溜め息を吐いた。

(……情けない……)
 私に、もっと勇気があれば。

 水浅葱の色に塗られたレオンハルトの表情を見つめ、美月は行き場のない遣る瀬無さに肩を落とした。



 ――コン、コン。
 そんな時だ。部屋の扉をノックする音が聞こえたのは。
「……は、はい?」
 思考の迷路に迷い込んでいた美月は、その音にハッとした。
(誰だろう?)
 美月にはこちらの世界に知り合いが少ない。だから、彼女を訪ねる者は、残念ながらそうそう居ない。
 ちょうど制作の目処がついて、後は絵の具が乾いてくれるまで待つしかない状況だ。道具を端に寄せると、美月はドアに向かった。
「? どなた様です?」
 レオンハルトなら、いつもならノックの後に声を掛けてくれるか、部屋付きのメイドであるリーリアがその旨を伝えてくれる。
 不審に思いながら美月が扉を開けると、そこに居たのは――

「……っ!!」
「美月……」

「お、お師匠?!」
 美月を一度目の来訪で保護してくれた、老画家ヘリオスの姿がそこにはあった。

「……なんじゃ? 暫く見ぬうちに随分と娘らしくなったのぅ……」
 嗄れた声は、あの日別れたまま変わらない。顔に刻まれた皺は少し深くなったように見える。
「ど……どうしてここに?!」
「先日、ベルンシュタインから連絡があっての……」
 優しい笑顔で美月を見つめる目は、久方ぶりに見る愛弟子の姿を見て細められた。
「美月に会いに来ないかとな」

 短い間とは言え、ヘリオスは寝食を共にした美月にとってこの世界での恩人であり、この世界の絵の描き方を教えてくれた師でもある。

「レオンが?」
 思わずそう尋ねると、ヘリオスは少し目を瞠ったように見えたが、相好を崩した。
「ベルンシュタイン公とは仲良くやっとるようじゃのぅ」
 ふぉっふぉっふぉと、何やら愉快そうに笑われ、美月は少し赤くなった。それが、そう言う意味だと気付いたからだ。
「ち、違います! お師匠、わ、私は……私達はそういうのでは有りません」
「……そうかの?」
 そう言ったヘリオスの視線の先に、美月の描きかけのレオンハルトの肖像画を見つけ、美月は慌てて彼の視線の先を隠した。気を利かせて側でそっと控えていたリーリアが、入り口での立ち話もなんだからと、画材の散らばる美月の部屋から場所を変えて応接室へと向かった。
 その途中も、ヘリオスは変わらずにこにこしていた。ヘリオスの元へ厄介になっていた頃には、あまり見たことが無かったが、彼はこんな風に笑うのだと、美月は目を丸くした。

 ヘリオスは、美月がこのベルンシュタインに世話になっていることを知っていた。
「先日、ベルンシュタイン公に王都でばったり出会っての。美月のことを尋ねたんじゃ。息災であればと思っておったが……元気そうで何より」
「お師匠……お師匠も元気そうで何よりです」
 自分が罵って、喧嘩別れのようになってしまっていたことを少し後悔していた。こうして、再び会うことが出来たなら、ずっと言いたいことがあった。
「お師匠様、あの――」
「……実はな、美月。ワシは今度旅に出ることにしての」
「え?」
「ワシも年齢からして、いつまで筆を持てるか分からぬ。動けなくなる前に、見たこともない世界を見に行くことにしたんじゃ」
 美月は目の前の老画家を見た。
「お前の気持ちを確かめず、ベルンシュタイン公……レオンハルト殿にお前を引き渡したこと、悪かった」
「い、いえ! 私は今、不自由を感じておりませんし、レオンは……良くしてくれています。私は、貴方に感謝を伝えたかった」
「……そうか」
「お師匠……いえ、ヘリオスさん、私を保護してくれて、絵を諦めずにいさせてくれて、ありがとうございました。私は貴方のおかげで、あの人に出会えた……」
 この先、どのような選択をするにしても、この出会いはヘリオスが齎してくれたものでもある。

「……そうか」

 深く刻まれた皺を更に深くして、ヘリオスは笑った。
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