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4.見つけにくいものですか?
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竹林の山中は、枯れた葉がこんもりとしていて柔らかく、足場が悪い。加えてこの辺りは薄暗く、緩やかながら傾斜がある。獣道のような道無き道を、男は無言のまま歩いている。明かりは彼が持つ提灯の灯りが辛うじてぼんやりと夜道を照らすのみ。
静かな夜の山道を、ただ黙々と男と歩いている。先ほど歩き始めてから、まだ数刻ほどしか経っていないだろうが、今は一体何時なんだろう。夕方を少し過ぎた頃なのか、夜半過ぎなのか、朝方なのか。
その時、遠くでキィキィと鳥の鳴き声のような甲高い声がして、春花はどきりとした。
はっきり言って夜の山道はとても不気味だ。
怖がりの春花は、唯一の灯りを見失わないように、気を引き締めて彼に置いていかれないように、懸命に馴れない山道をついて行く。
「…………」
突然、彼の歩みが止まった。
何事かと思い、足下に気を取られていた春花が顔を上げると、彼はこちらを振り向き、その場でじっと春花が追いつくのを待ってくれているようだった。彼の背は高いから、歩く歩幅もそれなりに大きい。背の小さい春花には彼に着いて行くのがやっとで、彼との距離がどんどん開いていたことには気づいていた。
男は相変わらず無表情だが、不機嫌そうな様子も無いことに少しだけほっとした。待たせていることに気づいた春花は、足場の悪いぼこぼこと凹凸の激しい道を急ぎ、彼の元へと歩を進める。
「あんた、よっぽど好かれるんだな……」
「…………」
彼が唐突に口を開いた。
何が、とは言わない。だけど、言わなくても分かる。先ほどから春花達の背後からヒタヒタとついてくる者があるのだ。
「……なるほど。知ってたのか。面白い。あんた視えるんだな」
がたがたと身体が震え始めていた。
春花は怖がりなのだ。今だって油汗をかきながら、彼がそれ以上言わないでいてくれることを願っている。
ここへ落ちて来た時、胸ポケットにいつも入れている眼鏡が飛んでしまったらしい。彼が動き出す前に急いで周囲を再び見渡して探したが、あの薄暗さでは見つけることが難しかった。それよりも、どこだか分からない場所で唯一出会った彼にまで放り出され、独りぼっちで置いて行かれることの方が恐ろしくて、眼鏡を捜すことを諦めてしまったのだ。
それが、こうして早くも災いしている。
春花は今、激しく後悔していた。
前方を歩いていた男がこちらを見て眉間にゆっくりと皺を寄せる。方向を変えて春花の側へと歩み寄り、彼女の顔色の悪さを確かめると、少し驚いている。そして、初めて心配気な声を掛けて来た。
「……顔色が悪い……大丈夫か?」
コクコクと壊れた人形のように、白さを通り越し真っ青な顔色をして、それでも頷く娘を見て、彼は面白そうに口を歪めた。
「あんた、視えるくせに怖いのか」
くくっと喉を鳴らして男が笑った。
「な、なななな何がおかしいの……」
涙目で男を睨み、口をわなわなと戦慄かせながらささやかな抗議を試みる。男がそれを指摘したせいで、背後をついて来るそれの存在が形を持つ。多分、この男は解っていて口にした。
(意地悪だ……)
「 」
あ、マズい。聴こえちゃう。
『お館様、置いて行かないで……』
『お……だ……』
女の声が春花の耳元で囁く。聴いてはいけないのに、耳に滑り込んで来るそのか細い声が哀しげだなと思った瞬間。
『お前のせいだ!』
(怖い! 怖い! 怖い! 怖いぃぃっ!!)
女の声に敵意が篭った。
この声の持ち主がお館様と慕うのは、目の前の男なのか、この男に関わりのある者なのかは判らない。低い、地を這うような声が春花の恐怖心を煽り、先ほどから悪寒で震えが止まらない。指先も背中も血の気が引いた顔も真っ白だ。
『お前が……妾の……愛しいお館様を誑かした……お前の……』
春花の周囲から、いつの間にか音が消えている。
『その身体……妾にチョウダイ』
ニタリ。と、その女が嗤った。
それはもうすぐ側に居て、今にも春花の身体に触った。
ぞわぞわと肌が粟立つ。
『妾に、その身体を頂戴』
先ほどは背後に居たはずのそれが、もう目の前に居る。髪が黒く長い、白い顔のその女が眼前に迫る。顔のあちらこちらが欠損している。目も、鼻も、片目も。
「っひぃっ……」
カチカチと唇が震えて歯がぶつかる。もう、視なくてよいものから春花を守るものは今、この場には無い。後退りしようと片足が動いた時――
「……お前の入る隙などない」
それまで沈黙していた男が口を開く。
『ああ……嬉しや。美しきお館様、妾のことをやはり覚えておいでだった……』
男が声を掛けると、途端に女は嬉し気に男の方へと向かう。
「……その女はお前には勿体無い。それと、お前のお館様とやらは俺では無いから、お前に用は無い。さっさと成仏しろ!」
心の底から凍えそうな冷たい声で男はソレに言い放つや否や、白い光が走る。それは綺麗に真一文字を描くと、その女を真っ二つに斬り裂いた。
『あああああァァァあああああ………おひゃ…ッガタ…ザマァァァァ』
(……え?)
男がそれを斬った。
それは一瞬の出来事で、瞬きも出来ぬほどにその顛末は早かった。
腰の刀を抜いて、斬り伏せたの?
この一瞬で?
春花は驚きで目を瞠ったまま、口をぽっかりと開けて呆けている。
カチン、キチッ。
刀の鍔が音をたて、白く輝く刃を鞘に納められるのをぼんやりと見つめながら、脚の力が抜けて気づけばその場に膝をついてへたり込んでいた。
女は、いつの間にかすっかり消えていた。
◇
春花、あなたは花菱に所縁ある娘。
この世界で貴女に出会えて、貴女が成長するのを見守ることが私の幸せだった。
もっと。
もっと。
貴女の側に居たかったけれど、出来なくなってごめんね。
貴女のその力は諸刃の剣。貴女が貴女を守れなかったなら、貴女が壊れてしまうんじゃ無いかって心配だったのよ。
私が貴女を守ることが出来ないなら、貴女を守ることが出来る人に託したい。
我が儘なおばぁちゃんの、独りよがりな願いだけど、貴女の幸せを心から願っているわ。
あれ? 私、おばぁちゃんの家を片付けてたんだよね。
そうだ。今日は夕方近くになるまで頑張ったんだ。
明日は押入れの奥のものを片付けなきゃ。
後、カーテンが埃っぽいから一度外して洗うの。最近は天気がいいから、すぐ乾くよね。
ああ、でも、待って。今は何だか凄く身体が重い。
それに何だか眠くて、眠くて、目蓋が開けられない。
だけども、おかしいな。私の身体は勝手に歩いてる。なんでだろ?
わかった。これきっと夢だ。さっきおばぁちゃんの声がした気もするし。
あ。でも、この方向は御社へ行こうとしてるのかな?
(はるか、おばぁちゃんのこと忘れないでね)
優しい手が、まるで幼な子にそうするように柔らかに頭を撫でる。
小さい頃、私はこの手が大好きだった。
おばぁちゃん……。
ふわふわ、さっきまで重かった身体が軽くなる。
私の中に居た何かが急に無くなって、つっかえ棒を失ったみたいに身体から力が抜けた。
春花の長い睫毛の隙間から、一雫の涙が零れ落ち、社の床に染みを作り、やがて消えていく。
それと同時に、時間が停止した。
ゆらりと陽炎のように春花の姿が揺れたかと思うと、まるで足もとから水の中に沈んで行くように、彼女の姿がその空間に吸い込まれてゆく。
――夕闇に包まれた小さな社には、もう誰の気配も無くなっていた。
静かな夜の山道を、ただ黙々と男と歩いている。先ほど歩き始めてから、まだ数刻ほどしか経っていないだろうが、今は一体何時なんだろう。夕方を少し過ぎた頃なのか、夜半過ぎなのか、朝方なのか。
その時、遠くでキィキィと鳥の鳴き声のような甲高い声がして、春花はどきりとした。
はっきり言って夜の山道はとても不気味だ。
怖がりの春花は、唯一の灯りを見失わないように、気を引き締めて彼に置いていかれないように、懸命に馴れない山道をついて行く。
「…………」
突然、彼の歩みが止まった。
何事かと思い、足下に気を取られていた春花が顔を上げると、彼はこちらを振り向き、その場でじっと春花が追いつくのを待ってくれているようだった。彼の背は高いから、歩く歩幅もそれなりに大きい。背の小さい春花には彼に着いて行くのがやっとで、彼との距離がどんどん開いていたことには気づいていた。
男は相変わらず無表情だが、不機嫌そうな様子も無いことに少しだけほっとした。待たせていることに気づいた春花は、足場の悪いぼこぼこと凹凸の激しい道を急ぎ、彼の元へと歩を進める。
「あんた、よっぽど好かれるんだな……」
「…………」
彼が唐突に口を開いた。
何が、とは言わない。だけど、言わなくても分かる。先ほどから春花達の背後からヒタヒタとついてくる者があるのだ。
「……なるほど。知ってたのか。面白い。あんた視えるんだな」
がたがたと身体が震え始めていた。
春花は怖がりなのだ。今だって油汗をかきながら、彼がそれ以上言わないでいてくれることを願っている。
ここへ落ちて来た時、胸ポケットにいつも入れている眼鏡が飛んでしまったらしい。彼が動き出す前に急いで周囲を再び見渡して探したが、あの薄暗さでは見つけることが難しかった。それよりも、どこだか分からない場所で唯一出会った彼にまで放り出され、独りぼっちで置いて行かれることの方が恐ろしくて、眼鏡を捜すことを諦めてしまったのだ。
それが、こうして早くも災いしている。
春花は今、激しく後悔していた。
前方を歩いていた男がこちらを見て眉間にゆっくりと皺を寄せる。方向を変えて春花の側へと歩み寄り、彼女の顔色の悪さを確かめると、少し驚いている。そして、初めて心配気な声を掛けて来た。
「……顔色が悪い……大丈夫か?」
コクコクと壊れた人形のように、白さを通り越し真っ青な顔色をして、それでも頷く娘を見て、彼は面白そうに口を歪めた。
「あんた、視えるくせに怖いのか」
くくっと喉を鳴らして男が笑った。
「な、なななな何がおかしいの……」
涙目で男を睨み、口をわなわなと戦慄かせながらささやかな抗議を試みる。男がそれを指摘したせいで、背後をついて来るそれの存在が形を持つ。多分、この男は解っていて口にした。
(意地悪だ……)
「 」
あ、マズい。聴こえちゃう。
『お館様、置いて行かないで……』
『お……だ……』
女の声が春花の耳元で囁く。聴いてはいけないのに、耳に滑り込んで来るそのか細い声が哀しげだなと思った瞬間。
『お前のせいだ!』
(怖い! 怖い! 怖い! 怖いぃぃっ!!)
女の声に敵意が篭った。
この声の持ち主がお館様と慕うのは、目の前の男なのか、この男に関わりのある者なのかは判らない。低い、地を這うような声が春花の恐怖心を煽り、先ほどから悪寒で震えが止まらない。指先も背中も血の気が引いた顔も真っ白だ。
『お前が……妾の……愛しいお館様を誑かした……お前の……』
春花の周囲から、いつの間にか音が消えている。
『その身体……妾にチョウダイ』
ニタリ。と、その女が嗤った。
それはもうすぐ側に居て、今にも春花の身体に触った。
ぞわぞわと肌が粟立つ。
『妾に、その身体を頂戴』
先ほどは背後に居たはずのそれが、もう目の前に居る。髪が黒く長い、白い顔のその女が眼前に迫る。顔のあちらこちらが欠損している。目も、鼻も、片目も。
「っひぃっ……」
カチカチと唇が震えて歯がぶつかる。もう、視なくてよいものから春花を守るものは今、この場には無い。後退りしようと片足が動いた時――
「……お前の入る隙などない」
それまで沈黙していた男が口を開く。
『ああ……嬉しや。美しきお館様、妾のことをやはり覚えておいでだった……』
男が声を掛けると、途端に女は嬉し気に男の方へと向かう。
「……その女はお前には勿体無い。それと、お前のお館様とやらは俺では無いから、お前に用は無い。さっさと成仏しろ!」
心の底から凍えそうな冷たい声で男はソレに言い放つや否や、白い光が走る。それは綺麗に真一文字を描くと、その女を真っ二つに斬り裂いた。
『あああああァァァあああああ………おひゃ…ッガタ…ザマァァァァ』
(……え?)
男がそれを斬った。
それは一瞬の出来事で、瞬きも出来ぬほどにその顛末は早かった。
腰の刀を抜いて、斬り伏せたの?
この一瞬で?
春花は驚きで目を瞠ったまま、口をぽっかりと開けて呆けている。
カチン、キチッ。
刀の鍔が音をたて、白く輝く刃を鞘に納められるのをぼんやりと見つめながら、脚の力が抜けて気づけばその場に膝をついてへたり込んでいた。
女は、いつの間にかすっかり消えていた。
◇
春花、あなたは花菱に所縁ある娘。
この世界で貴女に出会えて、貴女が成長するのを見守ることが私の幸せだった。
もっと。
もっと。
貴女の側に居たかったけれど、出来なくなってごめんね。
貴女のその力は諸刃の剣。貴女が貴女を守れなかったなら、貴女が壊れてしまうんじゃ無いかって心配だったのよ。
私が貴女を守ることが出来ないなら、貴女を守ることが出来る人に託したい。
我が儘なおばぁちゃんの、独りよがりな願いだけど、貴女の幸せを心から願っているわ。
あれ? 私、おばぁちゃんの家を片付けてたんだよね。
そうだ。今日は夕方近くになるまで頑張ったんだ。
明日は押入れの奥のものを片付けなきゃ。
後、カーテンが埃っぽいから一度外して洗うの。最近は天気がいいから、すぐ乾くよね。
ああ、でも、待って。今は何だか凄く身体が重い。
それに何だか眠くて、眠くて、目蓋が開けられない。
だけども、おかしいな。私の身体は勝手に歩いてる。なんでだろ?
わかった。これきっと夢だ。さっきおばぁちゃんの声がした気もするし。
あ。でも、この方向は御社へ行こうとしてるのかな?
(はるか、おばぁちゃんのこと忘れないでね)
優しい手が、まるで幼な子にそうするように柔らかに頭を撫でる。
小さい頃、私はこの手が大好きだった。
おばぁちゃん……。
ふわふわ、さっきまで重かった身体が軽くなる。
私の中に居た何かが急に無くなって、つっかえ棒を失ったみたいに身体から力が抜けた。
春花の長い睫毛の隙間から、一雫の涙が零れ落ち、社の床に染みを作り、やがて消えていく。
それと同時に、時間が停止した。
ゆらりと陽炎のように春花の姿が揺れたかと思うと、まるで足もとから水の中に沈んで行くように、彼女の姿がその空間に吸い込まれてゆく。
――夕闇に包まれた小さな社には、もう誰の気配も無くなっていた。
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