自殺写真家

中釡 あゆむ

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第三章

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 菊は苦しそうにする彼の手を取った。咄嗟に彼は顔を上げ、必死に自我を守ろうとする彼の瞳を覗き込む。 


「自責は君自身を縛る要因になってしまうのよ。外に出すことで、罪で縛られた自我から解放されましょう」 


 少年は菊の真摯な視線を受け止め、落ち着きを取り戻す。深呼吸して、続けた。 


「僕は、見ていられなくなって……彼女を最初にいじめた主犯にもうやめるよう言ったんです。けれどそいつには彼氏がいて……ほら、大体ああいう奴らって、クラスで権力持ってるじゃないですか。何しても、何言っても、何を始めても許される権利。それは大抵無条件にヤンキーに与えられていて、僕のクラスも例外ではなく、主犯の彼氏がそうだった。僕は、そいつにぼこぼこに殴られたんです」 


 少年はそう言って服を捲り上げ、お腹を見せてくれた。お腹の所々に黒くなった痣があり、背中は特に酷く、鹿の背中の斑点模様のように出来ていた。 
 痛ましい。呟くと、彼は笑いもせず、怒りもしないで頷いて認めた。 


「痛かった。あいつらの標的は、僕とあの子になりました。あいつらにとっては標的が増えただけだったみたいで、彼女へのいじめを止めることなんて出来ませんでした。やがて彼女はいじめられてきたことで、精神年齢が身体に追いつき始めるんです」 


 日々成長していました、と彼は呟いた。菊も空想してみた。失ったことでもう戻らない愛と時間を取り戻そうと退化し、暴力がその心を踏みにじり、凝固させ、本来の無理していた自分へ戻ろうとする様を。 
 このままではいけないと防衛本能が働いたのだろうか。自分と、彼を守らなければならないとプライドの高い自分へ急いで戻ろうとしたのかもしれない。

 
「そして彼女は、ある日突然あいつらを吹っ飛ばすんです。机をひっくり返して、椅子を持ち上げて縦にも矛にも仕立て上げ、時間を返せ、って叫んで……。先生が来るまでずっと暴れてました。その時に彼女、僕に言ったんです。自分のことは自分で守るからって……」 


 世界が反転した瞬間だったに違いない、と思い浮かべた。両親と築き上げた幸福も、クラスメイトたちの歪んだ鋭利な精神も、甘えきった自分も,守ってくれようとした彼も、今まであったものを全部ひっくり返して、彼女は覚醒し、立ち上がったのだろう。一筋の絶望を胸に差し込みながら――。 


「けれど、もはや前に戻ることは出来なかったんです。壊した絆と冷えきったみんなの視線が彼女を突き刺しました。それまで彼女に向けてきた信頼なんてものは一切無く、蔑み、失望を滲ませて、みんなは彼女に接しました。彼女の心はもうぼろぼろだったんです。そこに、僕が……」 


 少年は顔を歪ませ、続けた。 


「僕が、君を助けるよって言ったんです」 


 少年は目を瞑って思い出していた。助けさせて――。叫んだ途端、彼女は目を見開き、力強く自分を突き飛ばした。
 ふざけないで、同じいじめられ者同士助け合おうだなんて言うの? 私、覚えてるわよ、あいつに掛け合ってあなたもいじめられるようになったこと。どうせ誰も助けられない、私もあなたを助けない。私は自分の身を自分で守るの、今までだって、そうしてきたんだから! 構わないでっ――。 
 睨みつけ、捲し立てて彼女は走り去った。躊躇ない後ろ姿を彼は見つめることしか出来なかった。彼女の荒んだ感情が言葉となって、彼を傷付けた。

 
 彼女自身も傷付き、彼女はこっそり泣いていたことを彼は知らない。差し伸べられた手が、優しさが、幸せが、痛かった。温もりで傷付くなんて、彼女はその時初めて知った。 


 間もなくして彼女は死んだ。みんなに自殺写真を送り付け、静かに。しかし教室内では、生きていた頃よりも彼女の存在感は増した。 
 濃密に、むしろ教室が彼女になったみたいに、クラスメイトたちを地底の奥へ落としていったのだ。主犯は転校し、担任は辞めさせられ、風の噂では一人ずつ教室から消えていっているそうだ。どう消えているのかは知らない。自分も不登校という形で、あの教室から消えてしまったのだから。 
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