自殺写真家

中釡 あゆむ

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第三章

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 彼の話を聞き終えた菊はゆっくりと息を吐き出す。どう言葉をかけたらいいのかわからずに躊躇していると、彼は机の下から右に手を伸ばし、引き出しを開けて中から白い封筒を出し、菊に渡した。 


「手紙?」 


「……はい。自殺写真はみんな平等に渡されたそうなんですけど、その手紙だけは彼女が、僕にだけ宛てた手紙なんだそうです。彼女のお母さんに渡されました。……でも、恐くてまだ開けていないんです」 


 少年は組んだ腕の中に顔を埋めながら言った。少しくぐもった声は、恐怖に揺れているのが窺える。菊は封を切り、彼の腕の隙間に手紙を差し込んだ。 
 少年は顔を上げ、無防備に菊を見返す。菊は微笑み、それ、と指を差した。 


「ならそれは君が読むものだよ。……そこに悪いことが書かれている可能性を君は恐れているんだろうけれど、一方で、良いことを書いてある可能性だってあるんだから」 


 少年は目を見開き、拍子抜けしたように、少しだけ口元を緩めた。そうかもしれない。佐々中菊の、透けた茶色い瞳を見つめる。 
 活発そうな印象を与える短い髪が微かな陽光に照らされ、化粧っ気のない真っ白な肌が輝いて見えた。 
 彼女に、無限の可能性を感じた。たくさんの可能性を考えることができ、それでいて寄り添うことのできる彼女の無限の可能性。彼はそれを信じるために、折り畳まれた手紙を開いた。 


 菊は彼が読んでいる間、立ち上がってカーテンの中に入った。部屋の中の区切られた部屋は、後ろを向けばカーテンしかない。前を向き、窓に反射する自分の顔の奥を眺めた。連なった住宅が薄い色合いで並べられ、道には主婦たちが集まって談笑している。木々が揺れ、空が太陽の強過ぎる光で見えなくなりそうだ。遠くでは山が取り囲んでいる。 


 窓を開けてみた。温かい風が舞い込んできて、くるくると回った風たちは、菊の後ろのカーテンをふわりと浮き上がらせ、部屋の中の区切りをなくす。 
 振り向けば泣いている彼を見つけた。ようやく陽の光を許した室内がパステルカラーに彩る。 


「春だね」 


 菊の声と、嗚咽が優しく部屋に響く。菊はしゃがみこみ、彼が握ったままの紙をじっと見た。光で透けた微かな字が反対に映り、それは文字というより、幼児の一生懸命な絵のように見えた。 


 帰路に着き、菊はコンビニで今日の夕飯を簡単に買う。自炊をしなければならないと思いながら、人の心に触れるとどうしても億劫になってしまう。幸せなことでも、不幸なことでも、ぼうっと頭の中が滲み、身体を動かすはずの筋肉が弛緩し、それ以外考えさせなくなる。 


 コンビニを出て、歩道を歩いた。湿ったオレンジ色が世界を濡らし、疲弊した表情を浮かべる人達と別れていく。駅に着き、改札口を抜け、ホームで佇む。 
 取材をしていってわかったことがある。自殺者の関係者は、縛られるということだ。後悔、やるせなさ、もどかしさ、罪悪感、苛立ち、どう縛られるかは人それぞれだが、彼らはみんな動けなくなるのだ。 
 もしかしたら、それが自殺写真家の狙いなのだろうか。人々を動けなくさせ、後退も前進も出来ずに立ち止まる人々が増え、やがて世界さえも――ふと、視界に入った人物に反応して脈を打った。 


 考える前に菊は動き出し、彼女の腕を掴んだ。 


「あなたっ!」 


 スカートが、腕を掴んだ拍子に揺れ、彼女は菊の姿を確認すると息を呑む。長い黒髪、細い目、薄い唇。線路に飛び込もうとしていた彼女が目の前にいた。 
 菊が何かを話そうとする前に、彼女は咄嗟に菊を突き飛ばした。電車が迫り来る音を聞き、急いで線路へ飛び込む。 


 菊は手を伸ばそうとしただけだった。伸ばしきらない内に電車が猛スピードで横切った。 


 一瞬だった。 


 電車が彼女を連れ去った。身体が歪んでいたとか、そんなことを確認する暇も無く、攫った。有無を言わさない無機質な鉄の塊は瞬く間に通り過ぎ、菊は呆然とした。 


 刹那、彼女が飛び降りたシーンが脳裏に映し出される。それ以降見えなくなった彼女の姿を探すように、菊は叫んだ。 
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