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プロローグ
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疲労を溜めている様子の国王を気遣い、滋養のある薬湯をセレナが差し入れたときのことだった。
「下げてくれ」
端的な指示が返って、胃のあたりが冷たくなった。
めずらしく執務机に着いて書類を検分しているのは、このガルシア国の王たるクロード陛下だ。御歳二十歳。輝くような銀髪と鼻筋の通った麗しい相貌の持ち主である彼は、こちらを見ることもなく言った。
「私の体調は宮廷医官のもとで適切に管理されている。以後、こんな差し入れは無用だ」
つまり、余計なことはするな、ということなのだろう。これ以上はないくらいの明確な拒絶だった。
陛下の気分を害してしまった――己の失敗に内心で青くなりながらも、なんでもない顔で謝罪し、その部屋を出た。これまで叩き込まれてきた淑女教育の賜物だろう。
それでも、薬湯を淹れるための湯などを用意してもらった使用人に、手付かずのカップを片付けてくれるように頼んだときだけは、やっぱりね、という冷めた目を向けられて、情けなさに俯いてしまった。
モニエ侯爵家の当主である父は、セレナが幼い頃から、完璧な淑女たれとあらゆる教育を施してきた。前王を敬愛してやまない父は、彼の御子たちに尽くすことを喜びとしており、自身の子供たちにもそうすることを強いた。従順なセレナはそれに応えるべく、多少の無理もしつつ教養や礼節の勉強に励んできた。その末に命じられたのが国王の伴侶という役割だった。
急逝した前王に代わって即位した若き王を妃の立場からお支えしてさしあげろ。
それが父の命令だ。
王妃には、王妃の立場でしかできないことがある。
国王の婚約者となったセレナには、将来そこで力を発揮することが求められていた。
だが――父の期待も、与えられた役割も、自分にはいささか荷が重い。
クロードの叱責とも言えぬ一蹴は、本当に軽いものだった。それでも十五歳の少女がそれまで押し殺し、蓄積してきたものを溢れさせる一打としては十分だった。
――わたくしなんかが本当に、この国の頂点に立つお方をお支えしていけるのかしら。
急速に湧き出した不安は瞬く間にセレナの胸を覆い尽くし、雫となってその菫色の瞳からこぼれ落ちた。
さまざまな立場の者が出入りする王宮で涙など見せたら、また父に叱られてしまう。外は雨が降っていたが、セレナは丁寧に梳られた栗色の髪が濡れるのも厭わず戸口から飛び出した。
気遣うような声が背後からかけられたのは、庭園の片隅にある樹木の陰に身を潜め、声を殺して泣いていたときのことだった。
「どうしたんだ」
屋外に出るところを見られていたのだろうか。振り返った先に立っていたのは、国王の弟であるエミリオだった。
真っ直ぐな黒髪の先から雫が滴り、深い青の瞳が一瞬わずらわしそうにすがめられる。
その精悍な顔立ちは兄弟だけあって、つい先ほどセレナに厳しい言葉を投げかけた彼ととてもよく似ていた。しかし、抜き身の刃のような雰囲気を持つ王とは異なり、エミリオからはそういった鋭さを感じない。
これまで彼と直接言葉を交わしたことはほとんどなかったが、父からその人柄については聞いていた。いわく、まだ十八という若さではあるが、調和を重んじ、家臣への気遣いも忘れない実直なお方なのだと。
それを思い出したセレナはほんの少しだけ緊張を緩めたものの、その体躯を包む上質な布地が雨に濡れて色を変えていることに気づいておののいた。国内でも屈指の尊いお方が外套もまとわず雨に打たれているなんて。
「王宮にお戻りください、殿下……!」
泣き顔を隠しつつ訴えたものの、彼が聞く耳を持つ様子はなかった。
「こんなところで泣いているご令嬢がいるのに、捨て置けるはずがないだろう。それが兄上の婚約者ならなおさらだ」
顔を隠した意味がまったくなかったことに気づき、セレナは視線を遮っていた腕を力なく下ろした。
「それで、なにがあった」
口調こそ無骨だが、その低く落ち着いた声音にはこちらを心底案じる響きがあった。
そんな温かな真心を示されて、全くなんでもない振りができるほど、このときのセレナは大人ではなかった。
「その……」
先ほどの一幕を、ただありのままに話した。明確に言葉にするほどに、それは取るに足らない出来事だったように思えて、こんな醜態をさらす自分を情けなく思った。それでも、余計な世話を焼いて陛下の機嫌を損ねたのは事実なので、心はどうしても沈んでしまう。
長くもない説明を終えると、エミリオはセレナの反応を気にしつつ口を開いた。
「たぶん兄上は、全く気にしていないと思う」
「え……?」
これほど落ち込んでいる理由の根幹とも言える部分をあっさりと否定され、セレナは間の抜けた声を漏らした。
「そういう人なんだ」
彼はどこか気の抜けた様子で、参るよな、と言わんばかりに苦笑する。
その瞳に映る感情は、同情……というよりも、共感だろうか?
弟として兄王を補佐する立場にある彼だから、日頃から陛下に苦労させられることは多いのかもしれない。
「臣下たちは陛下を、大胆不敵で決断力に優れた指導者だと褒め称えるが……裏を返せば、人の気持ちに頓着しないということなんだろう。要するに、無神経なんだ、兄上は」
王弟の口から飛び出した国王を非難する言葉にセレナは戸惑った。
確かにその指摘は陛下の一面を捉えてはいるのかもしれない。だが、国という大きなものを常に見据えている人だ。それくらいでないと務まらないのだろうとも思う。
セレナが肯定も否定もできずにいると、なにも言わなくていいということなのか、エミリオが静かに首を横に振った。
「そういう人だから――たぶん、君の失敗も、陛下はすでに忘れていると思う。そもそも失敗だとも思っていないかもしれない。だから君も、気にしなくていいんだ」
あっ、と、セレナはそこでようやく悟った。無神経だなんて、わざと悪く言ったのは、これを伝えたかったからなのか。
陛下が気にしていないなら、セレナが気に病んだところで意味はない。相手が鈍感ならば、こちらがいちいち傷ついてやるだけ無駄だ。
心がふわりと軽くなるのを自覚して、セレナは思わず願ってしまった。エミリオ様が婚約者だったら良かったのに――と。彼が相手だったならきっと、互いを思いやる理想的な夫婦になれたことだろう。
だがそんな願いを、セレナはなかったことにした。
彼がこんなふうに励ましてくれるのも、セレナがクロードの婚約者だからこそだろう。なら、その気持ちに応えたかった。
エミリオのおかげで気持ちを立て直したセレナはそれからも、将来国王の伴侶となる者として、彼やその周囲と良い関係を築けるように努力を重ねた。クロードに比べて繊細すぎる己の在りようを自覚し、ささやかな言動にいちいち傷つかぬよう、彼がどういうつもりでその言葉を発しているのか、その意図を慎重に推し量るようになった。
国王と関わると、王弟のエミリオと接する機会も必然的に多くなり、そのたびにセレナは彼に心惹かれそうになったが、そんな想いには懸命に蓋をした。
エミリオだって、セレナが王妃としてクロードを支えることを望んでいるはずだ。好意を寄せられても迷惑なだけに決まっている。
そうしてセレナが、クロードとなんとかやっていけるかもしれないと、わずかながらの自信を持ち始めたときのことだった。婚約者が代わったという知らせを受けたのは。
「下げてくれ」
端的な指示が返って、胃のあたりが冷たくなった。
めずらしく執務机に着いて書類を検分しているのは、このガルシア国の王たるクロード陛下だ。御歳二十歳。輝くような銀髪と鼻筋の通った麗しい相貌の持ち主である彼は、こちらを見ることもなく言った。
「私の体調は宮廷医官のもとで適切に管理されている。以後、こんな差し入れは無用だ」
つまり、余計なことはするな、ということなのだろう。これ以上はないくらいの明確な拒絶だった。
陛下の気分を害してしまった――己の失敗に内心で青くなりながらも、なんでもない顔で謝罪し、その部屋を出た。これまで叩き込まれてきた淑女教育の賜物だろう。
それでも、薬湯を淹れるための湯などを用意してもらった使用人に、手付かずのカップを片付けてくれるように頼んだときだけは、やっぱりね、という冷めた目を向けられて、情けなさに俯いてしまった。
モニエ侯爵家の当主である父は、セレナが幼い頃から、完璧な淑女たれとあらゆる教育を施してきた。前王を敬愛してやまない父は、彼の御子たちに尽くすことを喜びとしており、自身の子供たちにもそうすることを強いた。従順なセレナはそれに応えるべく、多少の無理もしつつ教養や礼節の勉強に励んできた。その末に命じられたのが国王の伴侶という役割だった。
急逝した前王に代わって即位した若き王を妃の立場からお支えしてさしあげろ。
それが父の命令だ。
王妃には、王妃の立場でしかできないことがある。
国王の婚約者となったセレナには、将来そこで力を発揮することが求められていた。
だが――父の期待も、与えられた役割も、自分にはいささか荷が重い。
クロードの叱責とも言えぬ一蹴は、本当に軽いものだった。それでも十五歳の少女がそれまで押し殺し、蓄積してきたものを溢れさせる一打としては十分だった。
――わたくしなんかが本当に、この国の頂点に立つお方をお支えしていけるのかしら。
急速に湧き出した不安は瞬く間にセレナの胸を覆い尽くし、雫となってその菫色の瞳からこぼれ落ちた。
さまざまな立場の者が出入りする王宮で涙など見せたら、また父に叱られてしまう。外は雨が降っていたが、セレナは丁寧に梳られた栗色の髪が濡れるのも厭わず戸口から飛び出した。
気遣うような声が背後からかけられたのは、庭園の片隅にある樹木の陰に身を潜め、声を殺して泣いていたときのことだった。
「どうしたんだ」
屋外に出るところを見られていたのだろうか。振り返った先に立っていたのは、国王の弟であるエミリオだった。
真っ直ぐな黒髪の先から雫が滴り、深い青の瞳が一瞬わずらわしそうにすがめられる。
その精悍な顔立ちは兄弟だけあって、つい先ほどセレナに厳しい言葉を投げかけた彼ととてもよく似ていた。しかし、抜き身の刃のような雰囲気を持つ王とは異なり、エミリオからはそういった鋭さを感じない。
これまで彼と直接言葉を交わしたことはほとんどなかったが、父からその人柄については聞いていた。いわく、まだ十八という若さではあるが、調和を重んじ、家臣への気遣いも忘れない実直なお方なのだと。
それを思い出したセレナはほんの少しだけ緊張を緩めたものの、その体躯を包む上質な布地が雨に濡れて色を変えていることに気づいておののいた。国内でも屈指の尊いお方が外套もまとわず雨に打たれているなんて。
「王宮にお戻りください、殿下……!」
泣き顔を隠しつつ訴えたものの、彼が聞く耳を持つ様子はなかった。
「こんなところで泣いているご令嬢がいるのに、捨て置けるはずがないだろう。それが兄上の婚約者ならなおさらだ」
顔を隠した意味がまったくなかったことに気づき、セレナは視線を遮っていた腕を力なく下ろした。
「それで、なにがあった」
口調こそ無骨だが、その低く落ち着いた声音にはこちらを心底案じる響きがあった。
そんな温かな真心を示されて、全くなんでもない振りができるほど、このときのセレナは大人ではなかった。
「その……」
先ほどの一幕を、ただありのままに話した。明確に言葉にするほどに、それは取るに足らない出来事だったように思えて、こんな醜態をさらす自分を情けなく思った。それでも、余計な世話を焼いて陛下の機嫌を損ねたのは事実なので、心はどうしても沈んでしまう。
長くもない説明を終えると、エミリオはセレナの反応を気にしつつ口を開いた。
「たぶん兄上は、全く気にしていないと思う」
「え……?」
これほど落ち込んでいる理由の根幹とも言える部分をあっさりと否定され、セレナは間の抜けた声を漏らした。
「そういう人なんだ」
彼はどこか気の抜けた様子で、参るよな、と言わんばかりに苦笑する。
その瞳に映る感情は、同情……というよりも、共感だろうか?
弟として兄王を補佐する立場にある彼だから、日頃から陛下に苦労させられることは多いのかもしれない。
「臣下たちは陛下を、大胆不敵で決断力に優れた指導者だと褒め称えるが……裏を返せば、人の気持ちに頓着しないということなんだろう。要するに、無神経なんだ、兄上は」
王弟の口から飛び出した国王を非難する言葉にセレナは戸惑った。
確かにその指摘は陛下の一面を捉えてはいるのかもしれない。だが、国という大きなものを常に見据えている人だ。それくらいでないと務まらないのだろうとも思う。
セレナが肯定も否定もできずにいると、なにも言わなくていいということなのか、エミリオが静かに首を横に振った。
「そういう人だから――たぶん、君の失敗も、陛下はすでに忘れていると思う。そもそも失敗だとも思っていないかもしれない。だから君も、気にしなくていいんだ」
あっ、と、セレナはそこでようやく悟った。無神経だなんて、わざと悪く言ったのは、これを伝えたかったからなのか。
陛下が気にしていないなら、セレナが気に病んだところで意味はない。相手が鈍感ならば、こちらがいちいち傷ついてやるだけ無駄だ。
心がふわりと軽くなるのを自覚して、セレナは思わず願ってしまった。エミリオ様が婚約者だったら良かったのに――と。彼が相手だったならきっと、互いを思いやる理想的な夫婦になれたことだろう。
だがそんな願いを、セレナはなかったことにした。
彼がこんなふうに励ましてくれるのも、セレナがクロードの婚約者だからこそだろう。なら、その気持ちに応えたかった。
エミリオのおかげで気持ちを立て直したセレナはそれからも、将来国王の伴侶となる者として、彼やその周囲と良い関係を築けるように努力を重ねた。クロードに比べて繊細すぎる己の在りようを自覚し、ささやかな言動にいちいち傷つかぬよう、彼がどういうつもりでその言葉を発しているのか、その意図を慎重に推し量るようになった。
国王と関わると、王弟のエミリオと接する機会も必然的に多くなり、そのたびにセレナは彼に心惹かれそうになったが、そんな想いには懸命に蓋をした。
エミリオだって、セレナが王妃としてクロードを支えることを望んでいるはずだ。好意を寄せられても迷惑なだけに決まっている。
そうしてセレナが、クロードとなんとかやっていけるかもしれないと、わずかながらの自信を持ち始めたときのことだった。婚約者が代わったという知らせを受けたのは。
応援ありがとうございます!
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