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第一枚
河川敷
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河川敷は冬の朝の光で静かだった。
細かい水のきらめきと、まだ少し冷たい空気が、抹ヶ崎結依の頬を刺す。
彼女はスケッチブックを抱え、ベンチに腰掛けていた。コーヒーの紙カップから立ち上る湯気が、鼻先でふわりと香る。
「さて、今日も――」小さく独り言をつぶやきながら、結依は鉛筆を走らせる。
目の前には冬枯れの川と、対岸に並ぶ小さな家々。特別に美しい景色ではない。でも、光と影の交差、川面に反射する空の色、枯れ枝の線――全てが、抹ヶ崎には描く意味のある世界だった。
そのとき、背後で足音がかすかにする。抹ヶ崎は一瞬だけ肩をすくめたが、冬の河川敷にしては珍しく人が通る音。
自然だと無意識に判断し、視線はスケッチブックから離さなかった。
しかし、背後から漂ってくるのは唯の通行人の気配ではない。
振り返らずとも、気配に不思議な重みがある。抹ヶ崎の心臓が、ほんの少し早く打った。
「……?」彼女はふと目を上げる。
冬の光に照らされた河川敷に、一人の男性が立っていた。背は高く、体格は堂々としている。黒のコートが冬の光を反射し、自然と目を引く。
そして──その手には、抹ヶ崎のスケッチブックがあるわけではないのに、男性の視線はしっかりと抹ヶ崎の描く絵に吸い寄せられていた。
描かれてたのは、唯の川と、木と、空の景色。
特別なモチーフは何もない。けれど、彼はその線を見つめ、無意識に抹ヶ崎の背後に一歩、また一歩と近付いていた。
抹ヶ崎は漸く背後の気配に気付き、鉛筆を止めた。
「……誰?」
男性の目が、初めて抹ヶ崎に向けられる。
深い、落ち着いた瞳だ。何か計算されたものではなく、純粋な興味。抹ヶ崎の心が、瞬間的にざわついた。
「──綺麗な絵だな」低く、抑えられた声。
無造作に、しかし確かに耳に届く。
抹ヶ崎は思わず、顔を少し赤らめた。誰かに褒められる事はあっても、こんなに真剣に、しかも男性に――しかも見知らぬ男性に――見つめられた事はなかった。
「え、えぇと……ありがとうございます」
返事は自然と出ていたが、声は少し震えていた。
彼──七瀬龍一は、微かに口元を緩めた。
人目を避けるようにして立つ河川敷で、心を奪われるのは絵に向けた無垢な視線。組長としての日常とはまるで違う、静かな時間だった。
抹ヶ崎は再びスケッチブックを開くが、手が少し震える。
彼が描かれていないのに、そこにいるかのような気配を感じるのだ。
「……誰だろう、この人」
小さな独り言だが、自然と視線は再び彼に向かってしまう。
七瀬は少しだけ首を傾げ、目の端で抹ヶ崎の手元を見つめる。
「この線……丁寧だな」
感嘆の色を含んだ声に、抹ヶ崎は小さく息を飲む。褒められるだけでも心が動くのに、何故かその声は、自分だけに向けられたように感じた。
「……あの、見てて……迷惑ですか?」
抹ヶ崎が思わず問いかけると、七瀬は一瞬眉をひそめたが、すぐに柔らかい笑みを浮かべた。
「いや……邪魔じゃない。寧ろ、もっと見ていたい」
その一言で、結依の頬は更に熱を帯びる。
「見ていたい」――唯の言葉だが、何故か胸に刺さるものがあった。
そのとき、川の向こうからカラスの群れが飛び立ち、冬の空を黒く点描していく。
結依はふと、絵に描く手を止めて空を見上げる。無意識に七瀬の方を向いてしまう自分が居た。
「君、絵は趣味か?」
声に少しの興味が混ざっていた。
「ええ、趣味もありますけど……仕事でも描きます」
答える声はまだ小さく、しかし少し自信を伴っていた。
七瀬は軽く頷く。「そうか……仕事か」
目の奥に何かを隠す影をチラリと見せる。組長としての顔を見せない、そのほんの一瞬、結依は何となく、その影の意味を察した気がしたが、理由はわからない。
冬の川風が二人の間を通り抜ける。
無言の時間の中、抹ヶ崎は鉛筆を握る手が僅かに硬くなっていることに気付く。
「……なんだろう、この感覚」
胸が少し早く打つ。恐怖ではない、緊張でもない。確かに芽生え始めた、何か――
「……よければ、絵をもっと見せてくれないか」
七瀬がそう言った時、結依の心は軽く跳ねた。
怖さと、知らない人への警戒と、何故か湧き上がる期待──複雑な感情が入り混じる。
「……はい、いいですよ」返事の声は少し明るくなる。
鉛筆を持つ手も、前よりずっと自然になった。
その後、二人は河川敷で暫く絵について話した。七瀬は決して多くを語らないが、抹ヶ崎の絵への視線は熱く、真剣そのものだった。
抹ヶ崎は知らず知らずのうちに、彼の一挙手一投足に心を奪われている自分に気付く。
そして──河川敷の光は冬の午前から午後へと移ろい、日差しが少し柔らかくなった頃、抹ヶ崎は初めて口を開いた。
「……あの、今日はありがとうございました。すごく楽しかったです」
思わず笑顔がこぼれる。
七瀬も少しだけ笑みを返した。
「俺もだ。君の絵……忘れられそうにないな」
抹ヶ崎は胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
まだ相手が組長だとは知らない。唯、一緒に過ごした時間、見つめられた時間が、確かに心に刻まれていた。
河川敷での短い出会い。
しかし、この日を境に、抹ヶ崎の世界は少しだけ、静かに揺れ始めた――。
細かい水のきらめきと、まだ少し冷たい空気が、抹ヶ崎結依の頬を刺す。
彼女はスケッチブックを抱え、ベンチに腰掛けていた。コーヒーの紙カップから立ち上る湯気が、鼻先でふわりと香る。
「さて、今日も――」小さく独り言をつぶやきながら、結依は鉛筆を走らせる。
目の前には冬枯れの川と、対岸に並ぶ小さな家々。特別に美しい景色ではない。でも、光と影の交差、川面に反射する空の色、枯れ枝の線――全てが、抹ヶ崎には描く意味のある世界だった。
そのとき、背後で足音がかすかにする。抹ヶ崎は一瞬だけ肩をすくめたが、冬の河川敷にしては珍しく人が通る音。
自然だと無意識に判断し、視線はスケッチブックから離さなかった。
しかし、背後から漂ってくるのは唯の通行人の気配ではない。
振り返らずとも、気配に不思議な重みがある。抹ヶ崎の心臓が、ほんの少し早く打った。
「……?」彼女はふと目を上げる。
冬の光に照らされた河川敷に、一人の男性が立っていた。背は高く、体格は堂々としている。黒のコートが冬の光を反射し、自然と目を引く。
そして──その手には、抹ヶ崎のスケッチブックがあるわけではないのに、男性の視線はしっかりと抹ヶ崎の描く絵に吸い寄せられていた。
描かれてたのは、唯の川と、木と、空の景色。
特別なモチーフは何もない。けれど、彼はその線を見つめ、無意識に抹ヶ崎の背後に一歩、また一歩と近付いていた。
抹ヶ崎は漸く背後の気配に気付き、鉛筆を止めた。
「……誰?」
男性の目が、初めて抹ヶ崎に向けられる。
深い、落ち着いた瞳だ。何か計算されたものではなく、純粋な興味。抹ヶ崎の心が、瞬間的にざわついた。
「──綺麗な絵だな」低く、抑えられた声。
無造作に、しかし確かに耳に届く。
抹ヶ崎は思わず、顔を少し赤らめた。誰かに褒められる事はあっても、こんなに真剣に、しかも男性に――しかも見知らぬ男性に――見つめられた事はなかった。
「え、えぇと……ありがとうございます」
返事は自然と出ていたが、声は少し震えていた。
彼──七瀬龍一は、微かに口元を緩めた。
人目を避けるようにして立つ河川敷で、心を奪われるのは絵に向けた無垢な視線。組長としての日常とはまるで違う、静かな時間だった。
抹ヶ崎は再びスケッチブックを開くが、手が少し震える。
彼が描かれていないのに、そこにいるかのような気配を感じるのだ。
「……誰だろう、この人」
小さな独り言だが、自然と視線は再び彼に向かってしまう。
七瀬は少しだけ首を傾げ、目の端で抹ヶ崎の手元を見つめる。
「この線……丁寧だな」
感嘆の色を含んだ声に、抹ヶ崎は小さく息を飲む。褒められるだけでも心が動くのに、何故かその声は、自分だけに向けられたように感じた。
「……あの、見てて……迷惑ですか?」
抹ヶ崎が思わず問いかけると、七瀬は一瞬眉をひそめたが、すぐに柔らかい笑みを浮かべた。
「いや……邪魔じゃない。寧ろ、もっと見ていたい」
その一言で、結依の頬は更に熱を帯びる。
「見ていたい」――唯の言葉だが、何故か胸に刺さるものがあった。
そのとき、川の向こうからカラスの群れが飛び立ち、冬の空を黒く点描していく。
結依はふと、絵に描く手を止めて空を見上げる。無意識に七瀬の方を向いてしまう自分が居た。
「君、絵は趣味か?」
声に少しの興味が混ざっていた。
「ええ、趣味もありますけど……仕事でも描きます」
答える声はまだ小さく、しかし少し自信を伴っていた。
七瀬は軽く頷く。「そうか……仕事か」
目の奥に何かを隠す影をチラリと見せる。組長としての顔を見せない、そのほんの一瞬、結依は何となく、その影の意味を察した気がしたが、理由はわからない。
冬の川風が二人の間を通り抜ける。
無言の時間の中、抹ヶ崎は鉛筆を握る手が僅かに硬くなっていることに気付く。
「……なんだろう、この感覚」
胸が少し早く打つ。恐怖ではない、緊張でもない。確かに芽生え始めた、何か――
「……よければ、絵をもっと見せてくれないか」
七瀬がそう言った時、結依の心は軽く跳ねた。
怖さと、知らない人への警戒と、何故か湧き上がる期待──複雑な感情が入り混じる。
「……はい、いいですよ」返事の声は少し明るくなる。
鉛筆を持つ手も、前よりずっと自然になった。
その後、二人は河川敷で暫く絵について話した。七瀬は決して多くを語らないが、抹ヶ崎の絵への視線は熱く、真剣そのものだった。
抹ヶ崎は知らず知らずのうちに、彼の一挙手一投足に心を奪われている自分に気付く。
そして──河川敷の光は冬の午前から午後へと移ろい、日差しが少し柔らかくなった頃、抹ヶ崎は初めて口を開いた。
「……あの、今日はありがとうございました。すごく楽しかったです」
思わず笑顔がこぼれる。
七瀬も少しだけ笑みを返した。
「俺もだ。君の絵……忘れられそうにないな」
抹ヶ崎は胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
まだ相手が組長だとは知らない。唯、一緒に過ごした時間、見つめられた時間が、確かに心に刻まれていた。
河川敷での短い出会い。
しかし、この日を境に、抹ヶ崎の世界は少しだけ、静かに揺れ始めた――。
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