煙草屋さんと小説家

男鹿七海

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第一章

煙草屋の朝に滲む影

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 午前九時をちょっと過ぎた頃、 赤城あかぎきりや霧弥はシャッターを押し上げた。金属の擦れる音が商店街の静けさを破ると、冷たい朝の空気が店内に流れ込んできた。
 鼻先に触れる冷気に肩をすくめながら、霧弥はカウンター奥の古い換気扇のスイッチを押す。ゴウン、と低く唸る音がして、蛍光灯がふっと光を帯びる。それと同時に、この店特有の匂い――紙と火薬、さまざまな銘柄の葉が混ざった乾いた甘い香りが、空間を満たした。

 いつも通りの朝だった。
 店を開け、棚を整え、新聞をスタンドに差し込む。
 変化の少ない毎日が、霧弥は何よりも好きだった。変化といえば、たまに棚に並ぶ新しい銘柄くらい。それも、常連と交わすちょっとした会話のきっかけになる程度だ。

 だが、その「いつも通り」が今日は少し遅れてやってきた。
 店の奥の戸が、控えめにノックされたのだ。

「……もう起きてんのか、龍二」

 返事の代わりに、戸がゆっくり開く音がした。眠そうな黒髪がひょっこり覗く。「……おはよう、霧弥。今日も寒いな」

 茶ケ原龍二 ちゃがはらりゅうじは半分閉じた目であくびをしながら、店に姿を現した。昨夜は二階の客間に転がり込み、そのまま原稿を書いては寝落ちしたのだろう。
 本来なら出版社にでも追い立てられている身なのに、霧弥の店に入り浸っては仕事をしている。いや、正確には「仕事をしているらしい」。霧弥の目には、真面目にキーボードを叩いている時間は短く見える。

「布団ぐちゃぐちゃのまま降りてきてんじゃねぇよ。寝癖ついてるぞ」

「ついてるんじゃなくて、寝癖にしてるんだよ」

「どっちでもいいわ。直せ」霧弥が手振りで追い返すと、龍二は口元だけで笑い、指先で髪を適当に整えた。それが余計ひどくなるのはいつものことだ。

 霧弥はため息をひとつついて、カウンター下から灰皿を取り出す。小さく欠けた陶器の灰皿で、龍二が通うようになってからずっと置いてあるものだ。

「使わないけど、ここにあると落ち着くんだよな」

「吸わねぇのに言うな」

「好きなんだよ、煙草の匂いが。霧弥の匂いだし」

その言葉に、霧弥は無意識に指を止めた。
店の奥から差し込む薄い光が、龍二の横顔を照らす。寝ぼけているはずなのに、目元だけは妙に澄んで見えた。

――言うのは簡単だ。でも、言われると困る。「……朝っぱらから変なこと言うな」

「変かな?」

「変だ」返した声が少しだけ硬くなる。

 龍二は肩をすくめて笑い、店の端に置かれた安物のテーブルへ向かった。相変わらず鞄のチャックは半分開けっぱなしで、中にはくしゃくしゃの原稿用紙とノートパソコン、食べかけのチョコバーが無造作に突っ込まれていた。

 霧弥は胸の奥にひっかかったものを振り払うように、カウンターへ戻り煙草に火を点けた。
 フィルター越しに肺へ落ちていく煙は温かく、体の中を滑り、喉の奥で淡く広がる。

 煙が渦を描きながら昇り、換気扇の音と混ざって消えていく。その向こうで、龍二の姿がぼんやり揺れた。

 ――龍二は幼馴染だ。保育園に上がる前から、ずっと一緒だった。
 龍二は頭が良くて、霧弥は喧嘩ばかり強かった。放課後の河川敷も、夏祭りの雑踏も、進路指導でため息をついた帰り道も。どんな場面にも、隣にはいつも龍二がいた。
 なのに今は、ただの客と店主みたいに、他人行儀な間合いを取っている。
 互いに気付いているはずだ。踏み込めばもっと楽になれる、もっと素直になれる。それでも――その一歩が、どうしようもなく怖い。

 煙は真上へ昇り、天井で散った。

「今回の締め切り、何時だっけ?」
霧弥が問いかけると、龍二はパソコンを開いたまま視線を上に向ける。「今日の夜」

「おい」

「昨日の夜までは、『明日の夜』って覚えてた」

「意味分かんねぇよ」霧弥は又ため息をついたが、もう驚きはしない。龍二の締め切りが“ギリギリか過ぎるか”の二択であることは、幼馴染の頃から変わっていなかった。

「霧弥、コーヒー淹れてくれたら進むかもしれない」

「淹れたら進むんだな?」

「かもしれない」

「かもしれない、かよ」

 ぶつぶつ言いながらも、霧弥は裏のキッチンへ向かう。コーヒーの香りが煙草と混ざると、龍二は何故かよく仕事をする。
 ――いや、正確には“仕事をしているように見える”。
 たまに霧弥が横目で見ると、龍二は真剣な顔でキーボードを叩いている。しかし画面を覗けば、書いているのはたいしたことのない一文に数分悩んでいるだけだった。

 コーヒーを手渡すと、龍二は両手で包むようにして、ゆるく笑った。「霧弥の淹れるコーヒー、好きなんだよ」

「……またそれか」

「いや、本気で」

 霧弥は顔を逸らした。心臓が、煙草の火よりも熱く跳ねる。

 幼馴染としての好意なのか、それ以上を含んでいるのか。その境界線が分からない。
 いや――分からないふりをしているだけだ。どちらも本当は気付いていて、でも知らないままでいたい。その曖昧さが、やけに心地よくもあった。

 昼前になると、商店街に人が増え始めた。
 霧弥はカウンターに立ち、いつもの常連たちと軽口を交わす。年金暮らしの夫婦、近所の会社員、昼休憩にやってくる高校教師。どの常連も霧弥の店を気に入ってくれ、よく買ってくれる。

 龍二はその間も、耳に届く会話を聞いているのかいないのか、キーボードを叩いたり、ぼんやり天井を眺めたりしていた。

 午後一時を過ぎ、客足が落ち着いた頃だった。

「ねぇ、霧弥」龍二が急に口を開いた。「俺さ、子どもの頃からこの匂いが好きなんだよな」

「煙草の匂い?」

「そう。霧弥んちの店の匂い。家に帰ると母さんに“また霧弥くんのとこ行ってたでしょ”って言われてさ」

 霧弥はカウンター越しに龍二を見る。指はキーボードの上で止まり、視線は机の一点に落ちている。

「……なんか、落ち着くんだよね。煙草屋って。霧弥がいるからかもしれないけど」

「……」霧弥は龍二の言葉を待った。

「だからかな。締め切りあるとここに来ちゃうの。落ち着くし、進むし、……霧弥居るし」

 胸の奥がひどく熱くなった。煙草を吸っても消えない熱だ。

 霧弥は煙を吐き出し、わざとらしく視線を逸らした。「……お前、そういうこと軽く言うなって前に言ったよな」

「軽くじゃないよ」

「じゃあ何だよ」

 龍二はしばらく口を閉ざした。静かな時間が流れる。換気扇が煙を吸い込む低い音だけが響いた。

 そして、龍二はぽつりと言った。「……霧弥が吸う煙、綺麗だなって思うんだよ。ずっと」

 霧弥は思わず息を止めた。煙が喉の奥で引っかかり、咳き込みそうになる。

 ――踏み込むな。

 そう言おうとした。だが、声にならなかった。

「なぁ、霧弥」龍二が顔を上げる。
 その目は、子どもの頃から変わらない真っ直ぐで優しい目だった。「霧弥はさ、俺のこと……その……どう思ってんの?」

 空気が固まった。霧弥の指先が微かに震える。「……何だよ、急に」

 逃げるように煙草を押し消した。灰皿の中で火が小さく弾ける。

「いや、……別に、嫌とかじゃなくて」

「嫌じゃないなら……?」

 龍二が一歩だけ近づく。テーブルを回り込み、カウンターの前まで来た。

 霧弥の心臓が跳ねる。だが、その場から動けなかった。

「霧弥が俺をどう思ってるか、知りたいなって」

「……」

 そんなこと、言われるなんて思っていなかった。いや、本当はずっと期待していたのかもしれない。けれど――。

「龍二」霧弥は小さく息を吸う。「俺達、幼馴染だろ」

「……うん」

「昔から一緒に居すぎて、……よく分かんねぇんだよ。どう思ってるとか。家族みてぇでもあるし、友達でもあるし、……それ以上かもしれねぇし」

 口にした瞬間、胸が痛くなった。龍二の視線が揺れる。

「霧弥、それって……」

「分かんねぇんだよ。俺にも」

 本当は分かっている。ずっと前から。だが、その言葉を口にしてしまえば、今の関係が変わってしまう。そして――変わるのが怖い。

 龍二は少し寂しそうに笑った。「……そっか。うん、分かったよ。ごめん、変なこと言った」

「いや……」
 霧弥は言葉を探したが、適当なものが出てこなかった。しばらく沈黙が流れる。

 龍二は椅子に戻り、パソコンを開いた。霧弥は煙草を一本取り出し、火を点ける。煙が二人の間に薄い壁のように漂った。

 ――触れたいのに、触れられない。
 好きなのに、言えない。

 そんな距離が今日も続く。

 だが、悪くはなかった。変わらなくても苦しく、変わってしまっても怖い。その曖昧さの中で、二人は今日も同じ空間にいた。

 夕方、龍二は締め切り前の原稿をようやく書き終えたらしく、達成感に浸りながらコーヒーを飲んでいた。霧弥は店を閉める準備をしていた。

「霧弥」

「なんだ」

「今日さ、ここ泊まっていい?」

「……まだ仕事終わってねぇのか」

「いや、終わった。終わったけど……帰りたくなくて」

 霧弥は煙草を口に咥えたまま龍二を見た。
 その目は、子どもの頃からよく見た、寂しさを隠す目だった。

「……好きにしろよ。お前の部屋は空けてある」

 龍二は微笑んだ。その笑顔は、霧弥の胸を温かくして、同時に痛くした。

 この距離が好きだ。でも、この距離が苦しい。

 二人は店の灯りを消し、階段を上がっていった。今日も、踏み出せないまま。

 ――ただ、隣にいる。

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