煙草屋さんと小説家

男鹿七海

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第二章

火が灯る瞬間

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 霧弥が煙草に火を点けようとした時、店の外でドスンと鈍い音がした。

 商店街の夕方は、普段ならもう少しのどかだ。だが今日は、やけに耳に残る気配がする。ライターの火は吸い口に届かず、霧弥は手を止めて顔を上げた。

「……何だ?」

 外に目を向けると、通りの向こうで高校生らしき三人が揉めていた。嫌な感じしかしない。霧弥は煙草を置き、椅子を押しのけて立ち上がる。

「霧弥?」店の奥から龍二の声がした。

「ちょっと様子見てくる」

「まただよ……気をつけて」

 霧弥は軽く片手を挙げて返し、シャッターから外へ出た。



 1 

「おい、何やってんだ」
 声をかけた瞬間、三人の視線が一斉にこちらを向く。倒れているのが一人。残りは二人。どう見ても加害側だ。

「あ? なんだよ兄ちゃん」

「関係ねーから引っ込んでろ」

 商店街の端は夕方になると人が引く。止める奴がいなきゃ、このまま殴り合いで終わる。霧弥は歩みをゆるめず、淡々と告げた。

「そいつ放せ。怪我させる気なら、場所間違えてるぞ」

 視線が一瞬だけ鋭くなる。喧嘩慣れの眼つきだ。

「兄ちゃんが相手すんのか?」

「喧嘩は売ってねぇよ。買いたいなら買えよ」

 言い切る前に手が伸びてきた。
 霧弥は肩を少し引き、掴みに来た指を抑えてねじる。乾いた悲鳴。もう一人が殴りかかってくる。

 避ける。たちの悪い常連の愚痴を聞くほうがよっぽどしんどい。

「……だから言ったろ。やめとけって」

 霧弥は握った拳を軽く相手の腹へ打ち込んだ。本気じゃない。本気でやれば寝たきりになる。

 二人が尻もちをついた頃、店の入り口から龍二が駆けてきた。

「霧弥!」

「大丈夫。怪我してねぇよ」
 
 霧弥は手を上げて見せ、倒れていた少年を抱き起こす。擦り傷程度。命に別状なし。

「……大丈夫か」

「は、はい……」

 震えた声に、霧弥は小さく息を吐いた。昔から、こういう場面を見ると体が先に動いた。喧嘩が好きなわけじゃない。放っておけないだけだ。

「お前ら、二度とこんなことすんな」

 鋭く睨むと、二人は何も言わず逃げていく。

 龍二は目を丸くした。

「……霧弥。相変わらず鬼みたいに強ぇな」

「鬼って言うな」

「いや褒めてんの。俺が弱いから余計にな」

 霧弥は鼻で笑った。「お前は指一本上げる前に謝るタイプだしな」

「だって痛いの嫌だし」

「知ってる」

 霧弥は少年を店へ連れて、水で傷を拭いて絆創膏を貼った。礼を言って去っていく少年を見届けると、龍二が深いため息をつく。

「霧弥、もうちょっと怖がれよ……殴られたらどうすんだ」

「殴られねぇよ」

「そういう問題じゃねぇだろ……」

 心配で寄った眉を見て、霧弥の胸がまた少し熱くなる。

 心配されるのは、悪くなかった。



2 

 店に戻ると、龍二が霧弥の腕を掴んだ。

「ほんとに怪我ない?」

「ないって」

「いや……でもさ」

 龍二の指先が霧弥の手首をなぞる。霧弥は跳ね上がりそうになる鼓動をごまかすように、横を向いた。

「痛ぇとこないから。離せって」

「……うん」

 手は離したが、視線は霧弥に貼りついたままだ。

「霧弥さ」

「なんだよ」

「もし……お前が怪我したら、俺どうすりゃいいんだよ」

「は?」

 冗談の声じゃない。幼馴染のころから龍二はずっと霧弥のあとを歩いてきた。強い弱いの話じゃない。そこにいるのが当たり前だった。

「俺、ああいうの苦手でさ。暴力とか。見てるだけで胸がギュッとなる」

「お前は昔からそうだな」

「そうだけど……霧弥のことなら見てられる。でも今日のは……ちょっと違った」

 霧弥は眉を寄せる。「俺が殴られるのが怖かったって?」

 龍二は視線を落とし、少し頬を赤らめる。

「……殴られるのもだけど……霧弥が傷つくのが……嫌だ」

 霧弥は言葉をどこにも置けなかった。

 胸の奥がざわついて、呼吸のリズムを一つ忘れた。

 龍二は続ける。「霧弥が怪我したら、俺ほんとにどうしたらいいか……分かんなくなる。だから頼むから、無茶すんなよ」

 霧弥は煙草を取り出したが、火は点けなかった。「無茶してねぇよ。あんなの喧嘩じゃねぇし」

「お前の基準の話はしてないんだよ…ッ」

 声がわずかに震えていて、霧弥はやっと龍二が本気で怖がっていたと気づく。

「……龍二」

「何」

「心配させた。悪かった」

 龍二は目を瞬かせた。

 霧弥が素直に謝るなんて珍しい。龍二は驚いたまま息を飲んだ。



3

 沈黙が落ちたまま少し時間が流れる。霧弥が煙草に火を点けようとすると、龍二がそっと手を伸ばした。

「……吸いすぎんなよ」

「なんだよ。煙草まで管理されんのか?」

「違うって。霧弥が吸うの、嫌いじゃないんだよ。むしろ……好きだし」

「なら言うなよ」

「でも、今日みたいな時に吸われると……なんか心臓に悪い」

 霧弥は吹き出しそうになりつつ、火を点けずに煙草を戻した。

 龍二はきょとんとした。「吸わないの?」

「……今日はいい。お前のためだよ」

 龍二は言葉を失い、ぽかんと霧弥を見る。頬があっという間に赤くなる。

「……霧弥、今日どうしたの?」

「別に」

「いや、優しいだろ今日。明らかに」

「いつも優しいだろ」

「いやいやいや、今日のは“特別”のほう」

 龍二の視線が真っ直ぐ刺さってくる。霧弥は耐えきれず、背を向けた。

「……うるせぇよ」

「ねぇ霧弥」

「なんだよ」

 龍二の声が、妙に柔らかかった。

「今日、俺……ちょっと嬉しかった」

「何がだよ」

「霧弥が……ちゃんと気持ち伝えてくれたの」

 胸が熱くなり、霧弥は言葉を返せなかった。





 その後、店はいつも通りに戻った。霧弥は煙草を売り、龍二は原稿を進める“ふり”をしていた。

 だが、二人の間の空気だけはどこか違う。

 いつもなら龍二が踏み込んできて、霧弥がそっと避ける。それだけの距離感だった。今日は――霧弥のほうが龍二を気にしていた。

 コンビニ弁当を二つ買って奥で食べていると、龍二がぼそりと言った。

「霧弥はさ……俺が怖い思いしても平気?」

 箸が止まる。

「平気なわけねぇだろ」

「じゃあ……俺が怪我したら?」

「お前が怪我したら――」

 霧弥は言葉を詰まらせた。龍二が怪我する姿を想像した瞬間、胸がざわついた。

「……怒る。めちゃくちゃ怒る」

 龍二の目が丸くなる。

「怒るんだ?」

「当たり前だろ。お前のこと殴る奴、どこのどいつだよ」

「え……守る側なの?」

「そりゃあ俺だろ」

 龍二は唇を噛んで俯く。肩がほんの少し揺れた。

「……霧弥にそう言われるとさ……ちょっと……嬉しい」

 箸が手の中で震える。顔が熱くなるのを止められない。

「……何喜んでんだよ」

 「いや……好きな人に守られたいって思うの、普通じゃん?」

「ッ……!」

 危うく箸を落としそうになる。

 龍二は気づかず続けた。

「俺……霧弥に守ってもらえるって思うと、安心する」

 その言葉に、霧弥の胸の奥が静かに揺れた。

 ずっと守りたかった。それは事実。だが、それを言葉にした瞬間、何か大事なものが変わりそうで踏み出せないでいた。

 けれど――。

「……龍二」

「ん?」

「俺も……お前が怪我すんの、嫌だ」

 龍二は目を瞬かせる。

 わずかな沈黙のあと、ふっと笑った。その優しい笑顔に、霧弥は言葉をなくした。



5

 夜になり、二人は二階へ上がった。龍二の客間へ向かう途中、踊り場で龍二がふいに立ち止まった。

「霧弥」

「……何だよ」

 龍二はほんの少し近づき、肩が触れそうな距離に立つ。

「今日の霧弥……かっこよかった」

「……」

「昔から強いのは知ってたけど、今日は……それだけじゃなかった」

「なんだよ、それ」

「守ってくれる感じがして……嬉しかった」

 霧弥は目をそらし、手すりを無意味に握った。

「……寝ろよ」

「うん。でもさ、霧弥」

 龍二の指がそっと霧弥の手首に触れた。昼間とは逆。いや、昼間よりずっと優しい。

「霧弥が怪我したら……俺、泣くからな」

 霧弥は返事を飲み込んだ。何か返したら、もう後戻りできない気がした。

 でも、手は離せなかった。

 その夜、龍二は客間に戻らず、霧弥の布団の横に座りこんだ。

「寝るなら戻れよ」

「戻るけど……ちょっとだけ。な?」

「……何だよ」

「霧弥の顔、見てたい」

 霧弥は枕に顔を埋めた。「……勝手にしろ」

 龍二は笑い、霧弥の隣に横になる。触れないぎりぎりの距離で。

 その距離のせいで、霧弥はなかなか眠れなかった。

 ――好きなのに、踏み込めない。

 でも今日。ほんの少しだけ、何かが灯った気がした。

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