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第七章
すれ違いの温度
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朝の光が差し込み、木製の棚に長い影を落としていた。
霧弥は何時ものように雑巾を動かしながら、昨夜の龍二の言葉を何度も思い返していた。
――「霧弥にとって俺が何なのか、考えてほしい」
まるで逃げ道を塞がれたような、そんな言い方だった。
幼馴染でも、客でも、作家でもなく――それ以上の何か。
そんなこと、自分が一番よく分かっているのに。
言葉にしてしまえば、もう後戻りできなくなる気がして、胸がざわつく。
「……はぁ」
気づけば三度目のため息が漏れていた。
その音に合わせたように、二階から足音が降りてくる。
「ため息、三回目だぞ」
霧弥は肩を跳ねさせ、雑巾を落とした。「……数えんなよ」
「分かりやすいからさ、霧弥は」
龍二はふわりと笑ってカウンターに腰を下ろし、コーヒーを待つみたいに指を組む。
霧弥は湯を沸かしながら、なるべく平静を装った。
「昨日のこと、まだ気にしてんのか?」
「気にしてねぇよ。気にしてんのは霧弥のほうだろ」
図星を刺されたようで、言葉が喉につかえた。
湯を注ぐ音だけがやけに響く。
1
立ち上る湯気が、龍二の表情をふんわり曇らせていた。
霧弥はカップを置きながら、ぽつりと言う。
「……お前さ。仕事忙しいくせに、なんでうちばっか来んだよ」
龍二は意外そうに目を瞬かせた。
「なんでって……霧弥が居るからだよ」
まるで大した理由でもないかのように言う。
それが余計に心臓に悪い。
「売れてる作家が言うことじゃねぇよ」
「そんなの関係なく、ここが一番落ち着く」
龍二は照れたように笑った。
その笑顔が、霧弥の弱いところだけ正確に突いてくる。
――近い。
この距離は、今の自分には近すぎる。
2
昼前に常連の高校生たちが勢いよく店へ飛び込んできた。
「赤城さん! 昨日のサイン会のニュース観ました!」
「茶ヶ原先生、ヤバい人気っすね!」
龍二が苦笑し、霧弥は腕を組んだまま呆れたように言う。
「お前ら、朝から騒がしいな」
「だってさ、赤城さんの店に売れっ子作家入り浸ってるって……最高じゃん」
「ね!もうほぼ彼女っしょ!」
「はあ!? 誰が彼女だ!!」
即答で怒鳴った瞬間、龍二の耳が真っ赤になるのが見えた。
高校生たちはにやつきながら帰っていき、残された店内に妙な沈黙が落ちた。
「……彼女って」
龍二がぽつりとつぶやく。
霧弥は頭をかきながら、あえて雑に返した。
「ガキの冗談だろ、気にすんな」
龍二は目を伏せ、静かに言う。「……俺は、気にしなくねぇけど。」
言葉が喉に貼りついた。
そんな一言でこんなに揺れるなんて、自分でも面倒くさいと思う。
3
昼過ぎ、店の外から聞き慣れない女性の声がした。
「茶ヶ原先生」
振り返ると、スーツ姿の編集者らしき女性が立っていた。
整った笑顔。控えめだけど自信のある雰囲気。
霧弥の胸がざわりとした。
「突然すみません、少しだけ確認があって……」
龍二は柔らかく応じ、女性──担当編集者の南雲 は自然な仕草で龍二の腕に触れた。
その瞬間、霧弥の眉が無意識に動く。
龍二はそれに気づいたのか、一歩後ろへ下がった。
「話すなら、外のほうが……」
「いえ、このくらいならここで大丈夫です」
数分の会話なのに、やけに長く感じた。
4
南雲が帰った後、霧弥は抑えきれずに口を開いた。
「……仕事なら最初からそう言えよ」
「言っただろ」
「……あの女、なんなんだよ」
龍二が睫毛をわずかに揺らす。
「担当編集者さん。ずっと世話になってる人」
「ふーん」
そっけなく返したつもりが、自分の声が少し低かった。
龍二はその温度差を感じ取ったようで、困ったように微笑んだ。
「…霧弥、さ」
「なんだよ」
「ヤキモチ?」
「違ぇよ!」
反射的に跳ね返したのに、龍二は笑わなかった。
真っ直ぐ見つめて、小さな声で言う。
「俺は、霧弥が誰に触れられても嫌だよ」
喉の奥がぎゅっとつまった。
「……ッ」
言葉にしたら、ほんとに戻れなくなる。
けれど黙っているのも、同じくらい苦しい。
「霧弥は……俺が誰に触れられても、平気?」
答えられるわけがなかった。
その沈黙が、すべての答えになってしまった。
龍二は小さく笑う。
「……平気じゃなさそうで、よかった」
胸の奥が掴まれたように痛い。
――俺は、いつからコイツにこんなに固執してたんだ。
5
夕方、店の外で怒鳴り声がした。
「やめろって!」
商店街の兄ちゃん同士が掴み合っていた。
霧弥は反射的に飛び出す。
「こら、やめろ!」
低い声に、二人はびくついて手を離した。
「すんません赤城さん」
「ここで揉めんな。殴る前に止まれ」
二人が逃げるように去っていくと、後ろから龍二の小さな声が聞こえた。
「霧弥、やっぱ強いな」
「……うるせぇ」
「でも、優しい」
横目で睨んでも、龍二はどこか熱を帯びた目で見つめてくる。
その視線が、霧弥の胸をじわじわと締めつける。
6
夜。
鍋の中で肉じゃがが静かに煮えていた。
部屋いっぱいに、少し甘い香りが広がる。
カウンターでは龍二が頬杖をつき、霧弥を眺めていた。
「なに見てんだよ」
「霧弥のこういうとこ、好きなんだよ」
霧弥は鍋の蓋をわざと大げさに開け、顔をそむける。
「好きとか、簡単に言うな」
「簡単じゃないよ。霧弥に言うのは全部本気」
手が止まった。
心臓の鼓動だけがやけに大きい。
龍二はゆっくり立ち上がり、霧弥の横へ来る。
肩がかすかに触れそうな距離。
「霧弥」
「なんだよ」
「手……触ってもいい?」
いつもなら即答で断れたはずなのに、今日は言葉が出てこない。
龍二の指が、そっと霧弥の手の甲に触れた。
ほんの軽い触れ方なのに、息が止まるほどだった。
繋ぐわけでも、強く掴むわけでもない。
ただ触れるだけ。
けれど、その触れた手を霧弥は振り払わなかった。
「……これだけでいい」龍二が静かに言う。「今は、これだけでいいから」
霧弥は俯いたまま、何も言えなかった。
胸の奥が熱くて、苦しくて。
そっと触れるだけのその手が、どんな言葉よりも重かった。
霧弥は何時ものように雑巾を動かしながら、昨夜の龍二の言葉を何度も思い返していた。
――「霧弥にとって俺が何なのか、考えてほしい」
まるで逃げ道を塞がれたような、そんな言い方だった。
幼馴染でも、客でも、作家でもなく――それ以上の何か。
そんなこと、自分が一番よく分かっているのに。
言葉にしてしまえば、もう後戻りできなくなる気がして、胸がざわつく。
「……はぁ」
気づけば三度目のため息が漏れていた。
その音に合わせたように、二階から足音が降りてくる。
「ため息、三回目だぞ」
霧弥は肩を跳ねさせ、雑巾を落とした。「……数えんなよ」
「分かりやすいからさ、霧弥は」
龍二はふわりと笑ってカウンターに腰を下ろし、コーヒーを待つみたいに指を組む。
霧弥は湯を沸かしながら、なるべく平静を装った。
「昨日のこと、まだ気にしてんのか?」
「気にしてねぇよ。気にしてんのは霧弥のほうだろ」
図星を刺されたようで、言葉が喉につかえた。
湯を注ぐ音だけがやけに響く。
1
立ち上る湯気が、龍二の表情をふんわり曇らせていた。
霧弥はカップを置きながら、ぽつりと言う。
「……お前さ。仕事忙しいくせに、なんでうちばっか来んだよ」
龍二は意外そうに目を瞬かせた。
「なんでって……霧弥が居るからだよ」
まるで大した理由でもないかのように言う。
それが余計に心臓に悪い。
「売れてる作家が言うことじゃねぇよ」
「そんなの関係なく、ここが一番落ち着く」
龍二は照れたように笑った。
その笑顔が、霧弥の弱いところだけ正確に突いてくる。
――近い。
この距離は、今の自分には近すぎる。
2
昼前に常連の高校生たちが勢いよく店へ飛び込んできた。
「赤城さん! 昨日のサイン会のニュース観ました!」
「茶ヶ原先生、ヤバい人気っすね!」
龍二が苦笑し、霧弥は腕を組んだまま呆れたように言う。
「お前ら、朝から騒がしいな」
「だってさ、赤城さんの店に売れっ子作家入り浸ってるって……最高じゃん」
「ね!もうほぼ彼女っしょ!」
「はあ!? 誰が彼女だ!!」
即答で怒鳴った瞬間、龍二の耳が真っ赤になるのが見えた。
高校生たちはにやつきながら帰っていき、残された店内に妙な沈黙が落ちた。
「……彼女って」
龍二がぽつりとつぶやく。
霧弥は頭をかきながら、あえて雑に返した。
「ガキの冗談だろ、気にすんな」
龍二は目を伏せ、静かに言う。「……俺は、気にしなくねぇけど。」
言葉が喉に貼りついた。
そんな一言でこんなに揺れるなんて、自分でも面倒くさいと思う。
3
昼過ぎ、店の外から聞き慣れない女性の声がした。
「茶ヶ原先生」
振り返ると、スーツ姿の編集者らしき女性が立っていた。
整った笑顔。控えめだけど自信のある雰囲気。
霧弥の胸がざわりとした。
「突然すみません、少しだけ確認があって……」
龍二は柔らかく応じ、女性──担当編集者の南雲 は自然な仕草で龍二の腕に触れた。
その瞬間、霧弥の眉が無意識に動く。
龍二はそれに気づいたのか、一歩後ろへ下がった。
「話すなら、外のほうが……」
「いえ、このくらいならここで大丈夫です」
数分の会話なのに、やけに長く感じた。
4
南雲が帰った後、霧弥は抑えきれずに口を開いた。
「……仕事なら最初からそう言えよ」
「言っただろ」
「……あの女、なんなんだよ」
龍二が睫毛をわずかに揺らす。
「担当編集者さん。ずっと世話になってる人」
「ふーん」
そっけなく返したつもりが、自分の声が少し低かった。
龍二はその温度差を感じ取ったようで、困ったように微笑んだ。
「…霧弥、さ」
「なんだよ」
「ヤキモチ?」
「違ぇよ!」
反射的に跳ね返したのに、龍二は笑わなかった。
真っ直ぐ見つめて、小さな声で言う。
「俺は、霧弥が誰に触れられても嫌だよ」
喉の奥がぎゅっとつまった。
「……ッ」
言葉にしたら、ほんとに戻れなくなる。
けれど黙っているのも、同じくらい苦しい。
「霧弥は……俺が誰に触れられても、平気?」
答えられるわけがなかった。
その沈黙が、すべての答えになってしまった。
龍二は小さく笑う。
「……平気じゃなさそうで、よかった」
胸の奥が掴まれたように痛い。
――俺は、いつからコイツにこんなに固執してたんだ。
5
夕方、店の外で怒鳴り声がした。
「やめろって!」
商店街の兄ちゃん同士が掴み合っていた。
霧弥は反射的に飛び出す。
「こら、やめろ!」
低い声に、二人はびくついて手を離した。
「すんません赤城さん」
「ここで揉めんな。殴る前に止まれ」
二人が逃げるように去っていくと、後ろから龍二の小さな声が聞こえた。
「霧弥、やっぱ強いな」
「……うるせぇ」
「でも、優しい」
横目で睨んでも、龍二はどこか熱を帯びた目で見つめてくる。
その視線が、霧弥の胸をじわじわと締めつける。
6
夜。
鍋の中で肉じゃがが静かに煮えていた。
部屋いっぱいに、少し甘い香りが広がる。
カウンターでは龍二が頬杖をつき、霧弥を眺めていた。
「なに見てんだよ」
「霧弥のこういうとこ、好きなんだよ」
霧弥は鍋の蓋をわざと大げさに開け、顔をそむける。
「好きとか、簡単に言うな」
「簡単じゃないよ。霧弥に言うのは全部本気」
手が止まった。
心臓の鼓動だけがやけに大きい。
龍二はゆっくり立ち上がり、霧弥の横へ来る。
肩がかすかに触れそうな距離。
「霧弥」
「なんだよ」
「手……触ってもいい?」
いつもなら即答で断れたはずなのに、今日は言葉が出てこない。
龍二の指が、そっと霧弥の手の甲に触れた。
ほんの軽い触れ方なのに、息が止まるほどだった。
繋ぐわけでも、強く掴むわけでもない。
ただ触れるだけ。
けれど、その触れた手を霧弥は振り払わなかった。
「……これだけでいい」龍二が静かに言う。「今は、これだけでいいから」
霧弥は俯いたまま、何も言えなかった。
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