煙草屋さんと小説家

男鹿七海

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第六章

言葉の重さと手のぬくもり

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 夜の湿った風が商店街を抜けていき、ネオンの明かりをふっと揺らした。
 一階の煙草屋の前で、霧弥は珍しくただ突っ立っていた。

 ――「霧弥が誰かと付き合うとか考えたくねぇ」

 龍二のあの言葉が、ずっと胸の底に残ったままだ。

 今さら効いてきた。
 昔みたいに冗談で受け流すこともできなくなっている。

「霧弥、外寒いって」

 背後から龍二が顔をのぞかせた。
 売れっ子作家になって忙しいはずなのに、霧弥のこととなると妙に目ざとい。

「別に寒くねぇよ」

「ため息三回ついた」

「数えんな」

 龍二がくすっと笑って、隣に並ぶ。「……俺、なんか言いすぎた?」

 霧弥は煙草に火をつけたまま答えられなかった。
 刺さったのは事実で、それを認めるのが照れくさかった。

 龍二は少しためらうみたいに視線を落とした。「怒ってるわけじゃないならいいんだけどさ……霧弥が遠くなるのは嫌なんだよ」

 その一言に、霧弥の心臓が跳ねた。

 本当は、遠ざかっていたのは自分の方だ。
 距離を縮めれば、誤魔化してきた気持ちが露わになる気がして。

「……遠くなんかねぇよ」

 そう言った瞬間、龍二はほっとしたように笑った。

「なら、よかった」



 1 

 店を閉めたあと、龍二がふいに言った。

「今日、俺が飯作っていい?」

 霧弥は目を丸くする。

「お前が?」

「作家が料理できねぇと思ってんのか? ……いや、できねぇんだけど」

「自分で言うなよ」

「霧弥に食わせてみてぇんだよ」

 本気の声で言われると、断る理由がなくなる。

「……じゃあ簡単なのにしろ。焼きそば」

 龍二は借りたエプロンをきゅっと結び、やる気だけは一丁前に包丁を握った。
 だが、すぐさま霧弥の手が後ろから伸びる。「持ち方違ぇよ。指いくって」

「えっ……? あ、こ、こう?」

「違う。ほら」

 霧弥が手を添えた途端、龍二が動きを止めた。

「……霧弥の手、あったけぇな」

 霧弥は慌てて手を離す。

「料理集中しろっつの」

「う、うん……」

 龍二は真剣な顔でキャベツを切りはじめた。
 けれどその横顔を見るだけで、霧弥の胸の鼓動はやけにうるさい。

 ――近すぎなんだよ、距離が。



 2 

「できた!」

 龍二が得意げに焼きそばを差し出す。
 霧弥は半信半疑で一口すする。

「……っ」

「まずい?」

「いや……普通にうめぇ。ちゃんとできてんじゃん」

 龍二は肩の力を抜いて、大きく安堵した。

「よかったぁ……売れてても料理には自信ねぇからさ……」

「売れてるって言いたいだけだろ」

「違ぇよ。霧弥に褒められたいんだよ、俺は」

 その一言が、胸にずしっと落ちる。

 霧弥は返す言葉をなくし、箸を止めた。



 3

 夕飯のあと、龍二は原稿に戻った。
 人気作家らしい集中力だけど、どこか霧弥の気配を意識しているのが分かる。

 霧弥がカウンターでコーヒーを淹れていると、龍二がちらりと顔を上げた。

 「……なんだよ」

 「見んなよ。霧弥に見られてると筆が迷う」

 「売れっ子のくせに繊細だな」

 龍二はむっと唇を尖らせた。

 「売れてても関係ねぇよ。霧弥の前じゃ、ちゃんとしたいんだよ」

 その言い方がずるい。
 霧弥は胸をつかまれたように息が詰まる。

「だから……そういうの言うなって」

「恥ずかしい?」

「当たり前だ」

 龍二は目を細めて微笑む。

 「……じゃあもっと言う」

 「黙って仕事しろ」

 「はいはい。霧弥が怒ると怖いからな」

 言いながらも、龍二の指はキーボードの上を軽やかに走った。
 売れてる理由が分かる――と、霧弥は内心で呟く。



 4 

 翌朝。
 店を開けると同時に、八百屋の婆ちゃんが大声で叫んだ。

「霧弥!龍二のサイン会、ニュースで見たよ!」

「婆ちゃん声でけぇ!」

 奥から龍二が慌てて出てくる。

「え、出てたの?」

「当たり前だろ人気作家! それより昨日料理してたって? 夫婦かい!」

「夫婦じゃねぇ!」

 霧弥は真っ赤。
 龍二も耳まで赤くし、小声でぼそり。

「……仲良しではあるけど、な」

 否定できなかった。
 昨日の距離の近さを思えば、否定する方が難しい。



 5 

 昼過ぎ、原稿に向かっていた龍二が、ふいに顔を上げた。

「霧弥。話ある」

 霧弥は煙草を置き、向き直る。

「……なんだよ」

 龍二の目は、まっすぐだった。

「霧弥……いつかでいい。俺のこと、ちゃんと見てくれよ」

「見てるよ」

「幼馴染とか、店に入り浸ってる作家とか、そういうんじゃなくてさ」

 霧弥の喉がつまる。

「霧弥にとって俺が何なのか……考えてほしい」

 逃げ場のない、優しい声だった。

 しばらく黙ったあと、霧弥はか細い声で言った。

「……分かったよ」

 龍二はふっと表情を緩める。

「返事は今じゃなくていいからな」

 霧弥はうなずいた。

 胸の奥でずっと曖昧にしてきたものが、ようやく形になり始めている。

 龍二が料理してくれたことが嬉しかった自分。
 距離が近いと逃げたくなるくせに、離れられると急に不安になる自分。
 龍二の笑顔を守りたくなる自分。

 ――たぶん、それ全部、恋ってやつなんだろ。

「……龍二」

「ん?」

「……ありがとな」

「何が?」

「……待ってくれて」

 龍二は一瞬だけ驚き、それからゆっくり微笑んだ。

「待つよ。霧弥のことなら、いくらでも」

 霧弥の耳は真っ赤だった。

 煙草の煙がゆるく昇っていく。
 もう、誤魔化せる気がしなかった。

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