煙草屋さんと小説家

男鹿七海

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第五章

手が触れるまでの距離

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 その朝、霧弥はいつもよりずいぶん早く目を覚ました。
 隣では、龍二がまだ静かに眠っている。

 昨日、同じ布団で寝たせいだろうか。距離の取り方が、よく分からなくなっていた。

 龍二の寝顔を見ているだけで、胸がひょいと跳ねる。
 こんな感覚、昔は絶対なかった――はずだ。

 霧弥は布団からそっと抜け出し、台所へ向かった。

「朝飯作るか」

 朝食は簡単なものでいい。献立を考えながら冷蔵庫から卵、ベーコン、トマト、食パンを取り出す。
 
 ベーコンの匂いが部屋に満ちたころ、寝癖だらけの龍二がふらふらと現れた。

「……霧弥?」

「起こしたか。悪い」

「いや……ベーコンの匂いで、勝手に起きた……」

 目をこすりながらのその姿があまりにひどくて、霧弥は思わず吹き出した。

「お前、頭どうしたよ。戦ってきたか?」

「うるせぇ……直す気力ねぇ……」

 霧弥はトマトを切りながら、ふと口にする。「昨日の、あれ……大丈夫だったか」

 龍二は少しだけ目を伏せた。

「霧弥が隣にいたから。安心して寝れたよ」

 手元で包丁がぴたりと止まる。

 ――そんなこと言われたら、どうしようもねぇだろ。

 声には出さず、トマトを皿に移した。



 1 

 朝飯を食べていると、龍二が思い出したように言った。

 「霧弥、昨日さ。“お前が怪我すんの嫌だ”って言ってただろ。あれ、嬉しかった」

 霧弥は箸を落としかけた。「聞こえてたのかよ」

「うん。寝たふりしてただけ」

「殴るぞ」

「やめてやめて」

 龍二が照れ笑いするものだから、余計に腹が立つ。

 霧弥はパンをかじって、ため息まじりにぼそっと言う。

「お前さ、昨日から距離感おかしくねぇ?」

「うん。今の俺、多分ちょっとだけ勇気ある」

「危なっかしい勇気だな、おい」

 龍二はパンを指でちぎりながら、真顔で言ってきた。「霧弥ってさ……好きって言うの、苦手だろ?」

 その瞬間、霧弥は固まった。

 龍二は笑ってるのに、目だけ真剣だった。「別に言えとは言わねぇよ。でも……動いてんのは分かるから」

 喉が乾き、水をひと口あおる。

「……知らねぇよ、そんなの」

「知らなくていい。でも、気づいてるなら、それでいい」

 否定しようと思ったが、言葉が出なかった。



 2 

 店を開けてすぐ、商店街のいつもの連中がどっと押し寄せてきた。

「赤城の兄ちゃーん!昨日、高校生が“イケメン”だなんて言ってたぞ!」

「誰だよそんな嘘ついたのは!」

 龍二が横でぽつり。「……霧弥、人気じゃん」

「嬉しそうだな龍二。嫉妬か?」

「べ、別に!」

 霧弥は笑いをこらえきれなかった。

 そこへクリーニング店の兄ちゃんが龍二に声をかけてきた。

「龍二さん、原稿進んでる?」

「霧弥が近くにいると進む!」

「言うなっつってんだろ!!」

 霧弥は反射的に龍二の頭を軽くはたいた。

「いてっ!」

 常連たちは、まるで微笑ましい光景でも見たかのようににこにこしている。
 霧弥はやめてくれと言いたかった。



 3 

 昼飯は鮭のバター醤油炒めとキャベツの味噌汁にした。
 焼き加減を見ながらフライパンを揺らしていると、龍二がぽつり。

「霧弥の料理、ほんと大好き」

「……お前、今日ずっと素直すぎ」

「昨日から、かも」

「扱いづれぇ……」

 皿に盛りつけると、龍二はほんとに嬉しそうに笑った。
 その顔を見ると――ああ、こういうのが幸せって言うんだろうな、と霧弥は思う。

「霧弥」

「ん?」

 龍二は箸を止め、まっすぐな目で言った。

「俺、霧弥のこと……大事にしたい」

 霧弥は思わず視線を逸らした。「……言葉が重いんだよ、お前のは」

「でも本音だし」

 返事はしなかった。
 けれど、胸の奥がじわっと熱くなるのは止められなかった。



 4 

 夕方、店の前で中学生たちが口論していた。

「だから俺じゃないって!」

「嘘つくなよ!」

 険悪になりかけたところに、霧弥が割って入る。

「おい。うちの店の前で騒ぐな。喧嘩すんな」

 中学生たちはびくっとして振り返り、すぐに頭を下げた。

「赤城さん……すみません」

「謝るのはえらいけどな。くだらねぇことで揉めんな」

 どうやらただの誤解だったようで、すぐに落ち着いた。

 少し離れたところで龍二がその一部始終を見ていて、ぽつりと言った。

「霧弥って、強いのに優しいよな」

「優しくねぇよ」

「いや、優しいよ。俺、そういうとこ好き」

 またそれだ。
 霧弥は頭を掻いた。

「簡単に言うなよ……」

「簡単じゃねぇよ。霧弥に言うときだけ本気で言ってる」

 霧弥は一瞬だけ龍二と目が合い、すぐそらす。
 その一瞬で、気持ちが揺れるのが分かった。



 5 

 その夜。
 鍋の火を弱めながら霧弥が言う。

「今日は筑前煮にするから、ちょい時間かかるぞ」

「待つよ。霧弥が料理してるの見るの、好きだし」

「そういうの言うなって」

 煮込み時間のあいだ、龍二は霧弥の横に立った。
 肩が触れそうな距離で、霧弥は妙に落ち着かない。

「霧弥」

「なんだよ」

「手……触っていい?」

 霧弥は反射的に手を引いた。「駄目」

「そっか……」龍二はしゅんとしたが、少ししてまた笑った。「でも、いつか触れさせてくれそうだよな」

 心臓が跳ねる。

「言ってねぇだろそんなの」

「霧弥の顔が言ってる」

「言ってねぇ!」

 ───いや、もしかしたら言ってるのかもしれない。

 筑前煮が出来上がる少し前、龍二がそっと言った。

「……霧弥が誰かと付き合うの、考えただけで嫌だ」

「は?」

「胸が痛い」

 霧弥は戸惑いながらも、搾り出すように答えた。

「……俺も、多分……嫌だ」

 龍二の目がぱっと開く。

「霧弥……今の……」

 霧弥は慌てて鍋の蓋をガバッと開けた。

「ほ、ほら!飯できたぞ!」

 逃げるように言うと、龍二は嬉しそうに笑って近づく。

「霧弥……それ、めっちゃ嬉しい」

「……うるせぇ」

 照れ隠しのつもりでも、耳が熱いのは自覚していた。

 触れそうで触れない距離が――
 今夜、また少しだけ縮まった。

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