煙草屋さんと小説家

男鹿七海

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第四章

煙の向こう側

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 霧弥は店のシャッターを押し上げた瞬間、頭の奥のざわつきがまだ消えていないのに気づいた。

 ――昨日の「好きだよ」。

 龍二は、あれを本気で言った。
 霧弥の胸の底に沈んでいた何かが、ゆっくりと浮かんでくるような気がする。

 けれど、手を伸ばすのは怖かった。  
 煙草の火みたいに、うっかり近付けば指先を焦がす。

「霧弥、おはよ……」

 階段を降りてきた龍二が、まだ寝ぼけた声で言う。  
 髪は相変わらず跳ね放題で、着ているのは昨日と同じパーカーだ。

「起きるのおせぇよ」

「昨日、寝れなかった……」

 霧弥は一瞬だけ手を止めた。

「なんでだよ」

「昨日、いろいろ言っちゃったからさ。……嫌だった?」

 龍二の声は小さくて、霧弥は煙草の箱をぎゅっと握りしめた。

 嫌じゃなかった。
 むしろ――嬉しかった。
 だけど、それを言葉にするのはまだ怖い。

「……まぁ、嫌じゃねぇよ」

 聞こえるか聞こえないかの声で言うと、龍二はぽかんとした後、ぱっと頬を赤くした。

「……ほんとに?」

「嘘ついてどうすんだよ」

 龍二は照れ隠しみたいにパソコンを抱え、いつもの席へ向かった。

 霧弥の胸の奥が、また静かに熱を帯びた。



 1 

 昼が近づくと、龍二が原稿の進みの悪さにとうとう唸り声を上げた。

「ああああ……書けねぇ……」

「集中できねぇなら飯作るぞ」

「作って!霧弥の飯なら集中できる!」

 霧弥は苦笑しながら裏の台所へ向かった。

 今日は簡単に――鯖の味噌煮、じゃがいもと玉ねぎの味噌汁、胡瓜の浅漬け。

 味噌を火に溶かし、鯖に照りが出てきた頃には気付いていた。

 料理していると、何も考えなくて済む。
 昨日の「好き」が頭に浮かぶ前に味見をして、火加減を見て、鍋の蓋をずらす。
 その単純な繰り返しで、自分をごまかせる。

「霧弥、できた?まだ?」

「もうすぐ。座ってろ」

 言うと、龍二は座ったものの、やけに落ち着かない。

「……霧弥」

「なんだよ」

「今日の霧弥、なんか優しい」

 霧弥は手を止めた。「……普通だろ」

「普通じゃねぇよ。昨日あんなこと言ったから、距離置かれるかと思って……」

 胸がきゅっと締めつけられた。

「……別に、距離置くわけねぇだろ」

「ほんとに?」

 龍二の声には、不安が滲んでいた。
 霧弥は湯気の向こうから龍二を見た。

「……置くかよ。幼馴染だろ」

 龍二はほっと笑う。
 霧弥の胸の奥が、また落ち着かなくなった。



 2 

 食事を終えると、龍二は原稿に戻った。
 霧弥はカウンター越しにちらりと見る。

 龍二は書いているようで書けていない。
 画面を見つめては、指が止まる。

「集中してねぇな」

 霧弥が言うと、龍二はしゅんとした。

「霧弥が気になって……」

「……は?」

「昨日あんなこと言ったから……その……すげぇ気になって……」

 霧弥の喉が鳴る。

「あのな……仕事しろよ」

「努力してる。でも、霧弥がそこにいると……」

「落ち着く?」

 龍二は苦笑した。

「……ドキドキする」

 霧弥は煙草の箱を落とした。「な……!」

 龍二は慌てて手を振る。

「ごめん!でもほんとでさ……昨日の言葉が抜けなくて……霧弥の顔見ると心臓痛い」

 胸を押さえた。

 ――俺もだ。

 同じだ。
 でも、言えば全てが変わる。

「……今は黙って書け」

「うん……頑張る」

 龍二はキーボードに向き直り、霧弥は煙草に火を点けた。
 胸の奥のざわつきを誤魔化すように。



 3

 夕方、店の外がまた騒がしい。

「赤城さん!昨日のこと聞きましたよ!」

 隣のクリーニング店の兄ちゃんだ。
 どうやら高校生の話が、商店街で広まっているらしい。

「悪ガキ三人を一瞬で沈めたって……」

「沈めてねぇよ!」

「龍二さん、泣きそうだったって聞きましたけど……」

「誰だよそんなデマ流してんの!!」龍二は顔を真っ赤にして店の隅に隠れた。「泣いてねぇよ……」

 霧弥はため息をつく。

「……ま、噂なんてそんなもん」

「霧弥はいいよ……俺なんて泣きそうだったって恥ずかしすぎ……」

「別に、泣いてても良かったけどな」

 龍二は耳まで真っ赤になった。

「霧弥……それは反則……」

 自分の言葉にハッとして視線を逸らす。
 そんなつもりじゃなかったのに、口が勝手に動いた。

 ――最近、俺どうしたんだ。

 龍二の言葉のせいだ。
 いや、龍二という存在が、全部揺らす。



 4

 夜。
 店を閉め、軽い夕飯を作る。豚の生姜焼きとキャベツの千切り。

 炒めていると、龍二が後ろから静かに言った。

「……霧弥」

「ん?」

「さっきさ……“泣いてても良かった”って言ったろ」

 手が止まる。

「……ああ」

「俺……そういう霧弥、結構好きだよ」

 霧弥は慌てて火を弱めた。頬が熱い。

「……調子乗んな」

「乗ってないって。霧弥、優しいじゃん」

「勝手に言うな」

 龍二は霧弥の背にそっと触れかけて――やめた。

 その一瞬に、霧弥は気づく。

 触れたい。
 でも触れられない。

 その距離が、妙に苦しい。

「霧弥」龍二がもう一度呼ぶ。

「昨日言ったこと……後悔してない」

 昨日言われた「好き」が、まだ耳の裏に残っている。
 料理の匂いより、煙草より、ずっと強く。

「……龍二」

 言いかけて、飲み込んだ。
 続ける言葉は重すぎる。
 言えば、もう戻れない。

「飯できる。座ってろ」

 それだけ言って皿に盛ると、龍二は黙って席についた。
 でも、どこか嬉しそうだった。



 5 

 食後、片付けをしながら龍二が言った。

「霧弥さ……今日、一緒に寝てもいい?」

 手が止まる。

「なんで」

「なんとなく……離れたくない」

 心臓が跳ねた。

「……枕貸すだけだぞ」

「うん。それでいい」

 霧弥の部屋で横になった。
 触れそうで触れない距離。
 同じ布団の温度が、落ち着かせてくれない。

 龍二がぽつり。

「霧弥が殴られたりしたら……俺、多分平気じゃいられない」

「なんだよ、急に」

「昨日のこと、まだちょっと怖いんだ。霧弥が怪我するの……嫌なんだ」

 息をのむ。

「……守ってくれてありがとう。でもさ、霧弥も守られる側でいいんだぞ」

 胸に深く刺さる。

 守りたくて、
 守られたい。

 そんな矛盾が、静かに燃えていた。

 霧弥は横目で龍二を見る。

「……お前が怪我すんのも、俺は嫌だ」

 龍二が目を丸くして、ゆっくり笑った。

「……そう言われると、ほんとに好きになる」

 霧弥は布団を被った。

「寝ろ!」

「うん」

 龍二は布団に潜り、霧弥の背中にちょっとだけ寄った。

 触れない距離。
 でも、昨日より近い。

 霧弥は目を閉じ、小さく呟く。

「……好きとか……そんな簡単に言うなよ……」

 聞こえたのかどうか、龍二は小さく返した。

「簡単じゃなくても言うよ。霧弥だから」

 胸の奥がじんと熱くなった。

 煙草の火よりも、料理の湯気よりも。
 ずっと強く。
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