煙草屋さんと小説家

男鹿七海

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第三十三章

日常とライター

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 朝の通りには、まだ人の気配が少なかった。 
 霧弥は煙草屋の前に立ち、鍵を回す。ドアを押し開けると、鈴が短く鳴った。
  店内は静かだった。 棚に並ぶ煙草の箱、ガラスケース、カウンター。昨夜と変わらない光景を一度見渡し、霧弥は奥へ進んでシャッターを上げる。
 金属の擦れる音が通りに広がり、朝の空気が流れ込んできた。 

「……よし」 
 
 特別なことはしない。 在庫を確認し、棚の位置を整え、レジ周りを拭く。
 それだけで、体は自然と店の時間に戻っていく。

 昼前、二階から足音がした。 階段を下りてきたのは龍二だった。相変わらず寝癖がひどい。 

「おはよう、霧弥」 

「おはよう。原稿は?」 

「聞かないで。昨日は“来週だったらいいなぁ”って思ってた」

 またか、と思いつつ霧弥はそれ以上何も言わず、煙草屋の奥へ行き、カウンターの下からコーヒーを出し淹れる。 
 龍二はそれを受け取り、ひと口飲んでから息をついた。「……やっぱこれだよ」 

「コーヒーか?」 

「霧弥の」 

 霧弥は眉をわずかに動かしただけで、深くは追及しなかった。 
 昼過ぎから夕方にかけて、店は穏やかだった。
 常連が数人立ち寄るだけで、大きな出来事はない。
 南雲が顔を出すこともなく、電話も鳴らなかった。 
 
 日が落ち、通りに明かりが点き始める。
 霧弥は時計を見て、区切りをつけるように動き出した。 シャッターを下ろし、店内の灯りを消す。
  一階の戸締まりを確認してから、霧弥は二階の自宅への階段を上った。 
 靴を脱ぎ、鞄を置く。上着を脱いだところで、ポケットの中の重さを思い出した。旅行から戻ったまま、きちんと整理していなかった。 
 そのとき、スマホが震えた。 
 画面に表示された名前を見て、霧弥はわずかに眉をひそめる。「……もしもし」 

「俺だ。ライター、そっちに混ざってないか」龍臣の声だった。 

 霧弥は一瞬、荷物を思い返す。

「……今、店閉めたところだから、確認する」

  通話を切り、バッグを開ける。衣類の隙間に、見覚えのある金属の感触があった。
 ライターを取り出し、軽く指で転がす。スマホをポケットに戻し、霧弥は階段を下りる。 

 一階に戻る前に、龍二に声をかけた。「ちょっと出る」 

「気をつけてね」 

 それだけで十分だった。
 外に出て、車に乗り込む。エンジンをかけ、ゆっくりと走り出す。夜の道は静かで信号も少ない。
 窓は閉めたまま、ラジオもつけなければ音楽も流さない。
 街灯の光がフロントガラスを流れていく。

 見慣れた道を、一定の速度で進む。 龍臣が経営する煙草屋の明かりが見えたところで、ウインカーを出した。 
 車を停め、店に入る。
「来たか」 龍臣が顔を上げる。 

 霧弥は近づき、ライターを差し出した。「俺の荷物に混ざってた」 

 龍臣は受け取り、確認してから短く言った。「助かった」 

 用件はそれだけだった。 霧弥は挨拶代わりに低く手を上げてから店を出る。 
 再び車に乗り、来た道を戻る。煙草屋の一日が終わり、いつもの夜が続いていく。 
日常は、何事もなかったかのように、そこにあった。


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