煙草屋さんと弾丸。─獣になりかけた恋人と、婚姻弾の物語─

男鹿七海

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煙草屋とラジオの午前十一時

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 午前十一時というのは、煙草屋ツダにとって、一日のうちでいちばん静けさが濃くなる時間だ。
 朝の喧騒は一段落し、昼のざわつきはまだ遠い。通りの空気はどこか冷たく、冬が近い日にはその静寂がいっそう深まる。
 そんな時間帯に店番をしているのは嫌いじゃない。むしろ、俺――津田龍之介にはちょうどいい。

 店内には、古い木の匂いがしみついている。祖父の代から続く煙草屋で、棚も床もレジ台も、時間を吸い込んだ木が落ち着いた色に変わっていた。
 軋む床板の音は、俺にとっては不思議な安心の音だ。父も、生前よく「あの音が好きだ」と言っていた。

 古びた椅子に腰を預け、読みかけの文庫本をめくっていたときだった。
 ラジオから流れてきたニュースの声に、自然と眉が寄った。

 ―――『本日午前十一時頃、銃撃を受けた二十代後半から三十代前半の男女四名が病院に搬送されました。一週間にわたり立て続けに起きているこの事件は―――』

 声だけは淡々としているのに、内容だけが異様に重い。
 俺はページを閉じ、ゆっくり息を吐いた。「……またか」

 ひとりごとが店の静けさに溶けていく。

 ラジオのダイヤルをひねって音を止めると、急に空間が静まり返った。
 その静寂の奥に、わずかに不穏な揺らぎがある。外では風に煽られた煙草屋ツダの看板がカランと揺れ、遠くで犬が吠えた。街全体がざわついているように思えた。

 ニュースの“被害者の特徴”。
 年齢層。そして銃撃。

 今朝まで胸の底に沈めていた記憶が、引きずり上げられる。

 ――十五年前。
 俺の奥底にまだ燻り続けている、あの日の匂い。幼い俺と、隣にいた小さな女の子、吾妻凛 あがつまりん

 結婚式で夫婦の“共同作業といえば”ケーキ入刀だが、結婚式場でのケーキ入刀なんて、あの日には存在しなかった。
 あったのは煙草の匂いと、弾丸の音。大人たちの悲鳴と、破壊の連続。

 ――夫婦の“共同作業”って何のことだったんだろう。
 幼い俺には理解できなかった。

(……まさか、また“出てきた”のか)

 胸がざわつく。汗が背をつうっと落ちた。文庫本を机に置き、深呼吸をしようとした――そのとき。

 カランッ――。

 ドアベルが静寂を破った。

「……おはよ、龍之介」

 聞き慣れた声。だが、その声にわずかな焦りが滲んでいる。

 入口に立っていたのは、吾妻凛。幼馴染で、今は街の情報屋をやっている。
 黒髪の先が冷たい空気に揺れ、頬に張りついた少し長く伸びている一房が妙に艶やかだった。しかし表情はいつもの軽口の時とは違う。
 目の奥が張りつめていた。

 そして――風に混じって、獣の匂いがした。

「凛……お前、また逃げてきたのか」俺の声が自然と硬くなる。
 凛はむっとしたように口を尖らせた。

「またって言い方やめてよ。好きで追われてるわけじゃないんだけど?」

「いや、そういう意味じゃ――」

 言い訳するより早く、凛はカウンター横をすり抜け、勝手知ったる足取りで店の奥に入っていく。
 いつも軽やかな動きだが、今日はどこか急いている。背中に何かしがみついているかのような緊張感があった。

「……匂いがする。獣人に追われたな」

 俺が言うと、凛は一瞬だけ動きを止め、肩をすくめた。

「まあ……うん。最近しつこいんだよね。情報屋の私を攫えば“弾丸”の秘密に近づけると思ってるんでしょ」

 軽口の調子なのに、声の底には確かに恐怖があった。

 俺はカウンター裏の小銃に目をやる。
 手に馴染む古い銃――でも弾は装填できない。

 俺と凛は“婚姻関係”じゃない。
 だから、弾が作れない。

 凛はそんなこと知りもしない、という顔で苦笑した。

「で、今日は何の用だよ。巻き込むのは勘弁してくれ」

 そう言うと、凛は大げさに肩を落とす。「冷たいなぁ……まあいいや。手短に言うよ」

 刹那、凛の顔つきが変わる。
 軽口は消え、情報屋の鋭い眼が俺を射抜いた。

「私、もうすぐ獣人化する。昨日……噛まれた」

 理解より先に、頭の中が白くなった。「は…?」ようやく出た言葉がそれだった。

 凛は無言でジャケットを脱ぎ、右肩を見せる。
 深く噛みちぎられた跡があり、皮膚の周りは硬質化し、ほんのり光沢さえ帯びている。

 喉が鳴った。心臓がひどい音を立てる。「嘘……だろ」

「証拠に、触ってみて」

 差し出された肩。わずかに震えているのは寒さじゃない。

 そっと指を触れる。凛の体温は確かにある。
 だが、皮膚は異様に硬い。

「……冷たくなってきたかも」凛は笑った。
 いや、笑おうとしていた。でもその声は震えている。

「硬質化が進んでるな……」俺が言うと、凛の瞳に怯えが差した。

 獣人化は痛みは少ない。だが、人の理性を削っていく。
 凛にとって、自我の喪失は死より怖いだろう。

「龍之介……どうしたらいいの……」消え入りそうな声。
 名前を呼ばれるだけで胸が痛くなる。

 凛の瞳はうっすら黄金色に染まり、光を強く反射していた。爪は鋭く伸び、肩や背中の筋肉が盛り上がっていく。耳がぴくりと動き、周囲の音を拾おうとしている。
 腰のあたりを押さえ、小さく呻いた。

「……リュウ、意識が……鋭くなってる……。音も匂いも、全部はっきりわかる……」

 恐怖で震えているのが分かった。

「大丈夫だ。落ち着け、凛。俺がいる」

 俺が呼吸を合わせると、凛は俺の胸元に手を置き、荒い呼吸を抑え込もうとした。

 その瞬間――。

 ガラスの割れる激音が店に響いた。

 入口のガラスが砕け散り、巨大な影が三つ、店内に転がり込んでくる。

「ぐおおお…人間め…屈する…なァ……!」 
「我が血が……許さぬ……グルルル……ッ!」 
「グルルル……弾丸を……奪え……!」

 獣人三体。凛を追ってきた連中だ。

 俺は反射的に小銃を掴む。
 だが――撃てない。弾がない。
 弾は“婚姻”によって作られる。俺と凛は夫婦じゃない。

「リュウっ……!」

 凛が俺の腕を掴む。その握力はもう人間じゃない。

「二階に――!」

 手を引いた俺の腕を、逆に凛が振りほどいた。
 黄金色の瞳がさらに濃くなる。獣人化が戦闘本能を刺激している。

「逃げたら……アンタがやられる……!」唸り声が混じる声で、凛は必死に俺を見上げた。

「龍之介……お願い……“作って”……」

「……っ」

 婚姻弾を――。

 一か八かで俺と凛は一本ずつ煙草を咥え、先端をそっと触れ合わせる。

 触れた瞬間、白い煙がふわりと揺れ、火花のように弾丸の形を成していく。

 本来は夫婦が交わす儀式――“共同作業”。だが今は偽りだ。
 けれど、今ここで作らなければ、誰も守れない。

「凛……心を一つにしろ」

「……うん。信じてる」

 息の触れ合う距離で、煙草が赤く燃え上がる。

 獣人たちが迫る。
 爪が床を削り、唸りが空気を裂く。

 そして――閃光と轟音が店を飲み込んだ。

 俺たちが作った“偽りの婚姻弾”が、確かに世界を貫いた。

 獣人たちは吹き飛び、床が焦げ、棚が揺れ、煙草の箱が雪のように舞った。

 しばらくして――静寂。

 焦げた匂いと木の煙が漂う店内で、凛は肩で息をしながら俺を見つめた。黄金色の瞳に、恐怖と安堵が入り混じっている。

 俺はそっと、凛の肩に手を置いた。「……終わったか」

 それだけ言うのが精一杯だった。
 だが、さっきまでの二人の戦いと、触れ合った心の重さは、言葉じゃ言い表せない。

 店の外では風が吹き、看板が小さく揺れている。街はいつもの静けさに戻っているようで、俺たちには、今刻まれた一瞬がやけに長く感じられた。

 煙草屋の奥に戻ると、温かい光と焦げた匂いだけが残っている。
 俺は凛の手をそっと握り返した。
 世界がまた動き出す前に――ただ、その瞬間を感じていた。

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