煙草屋さんと弾丸。─獣になりかけた恋人と、婚姻弾の物語─

男鹿七海

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吾妻凛、追われる

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 ガラス片が床に散らばり、まだ粉じんが空気に舞っていた。
 獣人たちの倒れた体は半ば壁にめり込み、崩れた箱や棚に埋もれている。
 店は、ほとんど半壊といっていい有様だった。

 その中心で、俺はしばらく動けずにいた。

 ――手が震えている。
 自分でも分かる。恐怖がまったくないわけじゃない。
 ほんの数分前まで命が危なかったのは事実だ。

 だが、それよりも。

(……凛。お前、本当に……)

 胸の奥がきゅっと締めつけられる。

 幼馴染の凛が獣人に噛まれ、獣人化が進み始めている。
 昨日まで普通に笑っていたはずなのに、今は瞳が黄金に染まり、呼吸は荒く、体の輪郭すら変わりつつある。

 心配で、怖くて、助けたくて――
 それでもまだ、俺の知っている“凛”であってくれと願わずにはいられなかった。

 瓦礫の上で肩を上下させながら、凛は無理に笑おうとする。「……ふぅ。なんとか、なった……ね」

「なったかどうか……分かんねえだろ。店と家がこんなんで」

「…アンタが撃ったんだからね?」

「お前が言ったからだろ…」

 息はまだどちらも荒いが、こうして言葉を交わせていることに、僅かに救われる。

 凛は胸に手を当てて、ゆっくり呼吸を整えた。

 正面から見なくても分かる。
 首筋から肩にかけて薄い硬質の毛が生え始め、瞳孔は細く縦に伸びていた。
 指先を握ると、爪が光る。

「……凛、お前……」

 言いかけると、凛はそっと手を上げて俺の視線を遮った。

「大丈夫。まだ意識はちゃんとしてるよ。私だって分かるでしょ? ほら」軽く自分の胸を叩いてみせる。
 強がっているのは分かる――その手はわずかに震えているのに。

「……でもね。正直言うと、怖いよ」

 そのひと言が胸に刺さった。

 凛が“怖い”なんてめったに言わない。
 普通の人間が触れない情報に、何度も足を突っ込んできたやつだ。
 危険なんて笑い飛ばすような、あの凛が。

 今は目の奥に、小さく涙の影を宿している。

「……凛」

「龍之介、聞いて。噛まれたのは昨日の夜、ほんの十秒くらいの出来事だったんだけど……気がついたら肩に牙が刺さってて、逃げるのが精一杯だった」軽い口調のまま、語尾だけが震えていた。「で、今朝の時点で……耳が、ほら」

 髪をかき上げると、耳がわずかに鋭角へと変形しているのが見えた。

 人間でも獣でもない、その途中の耳。

「……隠すのけっこう大変だったんだよ? 髪で誤魔化せると思ってたけど、ちょっとずつ高さ出てくるし」

 冗談めかすが、やっぱりうまく笑えていない。

 胸が痛む。

 獣人化には段階があって、あるラインを越えると――もう戻れない。

「最初はね、本気で黙ってようと思ってた。
でも……怖くてさ。アンタに会うしかなかった」

 頼るような視線。
 いつも強い凛の、子どもみたいな目だった。

 俺は一歩踏み出した。

「……来てくれて、よかった」

 その一言で、凛の眉がふにゃっと下がった。

「アンタ、そんな優しい顔するから……泣きそうになるじゃん」

「泣いていいだろ」

「ダメ。泣いたら……感情の乱れって獣人化を進めるんだよ? アンタんとこ、煙草屋で情報屋なんだから知ってるでしょ」

「……うるせぇ」口ではそう返しつつ、凛の肩に手を添える。
 震えていた。
 体温はあるのに、皮膚の奥が固く変わり始めている。

 俺の知る凛が、ゆっくりと変わっていく。

(……待ってくれよ、凛)

 叫びたくても、現実は止まらない。

 凛が俺の手に、自分の手をそっと重ねた。
 冷たくて、表面は硬質化しているのに――
 握り返す力だけは、確かに凛のものだった。

「龍之介。怖いけど……後悔はしてないよ。噛まれたのは仕事のせいだけど、私……薄々分かってた。危ない橋ばっか渡ってるし、いつかこうなるんじゃないかって」

 覚悟と諦めの入り混じる声。

「でもね。獣人化しても……アンタの顔が浮かんだんだ。アンタのとこなら、帰っていいって思った」息が少し乱れ、瞳が揺れる。

 言いたいことなんて山ほどある。
 けど十五年間、何一つ口にしてこなかった。
 言えば全部変わる気がして。
 守れる自信もなくて、隣に立つ資格もない気がして。
 情けない自分を凛に見せたくなかった。

 だけど今は――

(言わなきゃ……)

 喉が鳴った、その瞬間だった。

 ――床が低く唸る。

 遠くから獣人の叫びが近づいてくる。

「……追ってきた」凛が小さく呟く。

「もう、時間ねえか」

「龍之介……お願い、どこか安全な場所に……」

「安全な場所なんて、この街にはねぇ」

「じゃあ……!」

 言いかけた瞬間――

 外壁が揺れ、天井の埃がぱらぱらと落ちる。

「……来たな」

 俺は凛を背にかばい、身を低く構えた。

 入口の向こうから複数の足音。
 三体じゃない。五、六……いや、もっとだ。

「……やばい、完全に包囲されてる」凛の声が震える。
 髪の間から立った耳がぴんと動き、黄金の瞳が揺れた。

 その様子を見て、俺は決断した。

「凛、逃げるぞ。ここはもう保たねぇ」

「……どこに……?」

「親父と……母さんのところだ」

 凛が息を呑む。「……辰巳さんと葵さん?」

「ああ。二人なら分かる。獣人化のことも……婚姻弾の正式な扱いも」

 表向きは穏やかな煙草屋の夫婦。
 だが裏では、この街の“秩序”の要だ。

 頼れるのはもう、あの二人だけ。

(親父……母さん……間に合ってくれ)

 外で唸り声が重なり、爪が壁を削る音が響く。

「凛、行くぞ!」

「うん……!」

 立ち上がった凛の足が一瞬ふらつく。
 俺が支えると、驚くほど軽い――いや、力の入り方が変わってるんだ。

 裏口を開けると、冷たい空気が流れ込んだ。

 そこは裏路地。人通りはない。
 逃げるには最善だが、追われやすくもある。

「龍之介、手……!」

 凛が迷いなく手を差し出してくる。
 温度は低く、皮膚は硬い。
 でも握り返す力は、確かに凛だった。

「離れんなよ」

「離れない……絶対に」

 そう言い合った瞬間――

「――いたぞォッ!!」

 背後から咆哮が飛んでくる。

「走れ!!」

 俺たちは裏路地を駆け出した。

 獣人の足音が迫る。
 凛の変わった耳が敏く反応し、後ろの数を正確に拾う。

「三体……いや、五体……! 速い……!」

「分かってる!!」

 身体能力は上がっているはずなのに、凛の呼吸は荒い。
 痛みの波が襲ってるんだ。

(急げ……!)

 路地を折れに折れ、追跡を振り切ろうとした、その時。

「……龍之介、後ろ」

凛が俺の腕を引く。

 振り返った先――
 路地の奥に影が三つ……いや、四つ。

 一体だけ明らかに異質だった。

 黒い毛並み。鉄のように光る一本角。
 周囲の獣人より一回り大きなシルエット。

「……黒角」

 乾いた声が漏れた。

 凛が震える。「なんで……なんであいつまで……!」

 黒角は一歩踏み出しただけで、地面がわずかに揺れた。
 その眼は、確かに“俺たちだけ”を見据えている。

 逃げ場は――もう、ない。


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