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しおりを挟む子どものころ、母親と住んでいたアパートの向かいに、高い塀に囲まれた大きな洋館があった。
ある春の日、虫取り網を片手に蝶を追いかけていた俺は、その庭に続く門が開け放たれていることに気づいた。
向こう側は様々な花の色で賑やかしく、図鑑で見るようなめずらしい蝶がたくさん飛んでいる。
少し悪い気もしたけれど、誘惑には勝てず、俺はそっとその庭に侵入した。
そこにいたのが、当時6歳の、七瀬綿彦。
陽光を受けて金色にきらめく髪と、ヘーゼルナッツのような茶色い目。
ガラスケースに入れられた西洋人形のような、その日本人離れした容姿は、祖母がイギリス人のクウォーターだからだと、後に聞いた。
──小さな綿彦の手に握られた、赤黒い、あの、物体。
ひしゃげた小鳥。
いま、俺の頬を包む綿彦の手は大人のもので、もちろん、血で汚れてもいないけれど、俺はやはり、少しだけ身構えてしまう。綿彦はそれを知ってか知らずか、ますます距離をつめてくる。
「かずおみ、かずおみ、会いたかったよぉぉ」
「おい、苦しい、こら!」
熱い抱擁に、無数のキス。俺は初めこそ抵抗したが、あとはされるがままやり過ごすことにした。
いつものことだ。綿彦が飽きるまで放っておく。だって抵抗しても無意味なのだもの。綿彦は大きくなりすぎた。
が、そこでハッとする。
例の噂の出どころに、見当がついたのだ。
綿彦との、このたわむれか!
──くそ、こいつは所かまわず抱き着いてくるからな。誰かに見られていても不思議じゃない。しかもいまは、もっと多くの目撃者がいる。佐々木さんが、他の女子社員が見ている。
このままでは非常にまずい。
噂は今後、さらなる信ぴょう性を帯びて流布するだろう。
「くそ、離れろ、綿彦!」
「やだ!」
「やだじゃない!」
と、何とか押し返すがびくともしない。
これが168センチと180センチの体格差か。悲しいぜ。
しかもなんだ、ほっそいくせに、胸板かてぇ!
「お前でかくなりすぎなんだよ!」
「ふふふ、和臣がとくべつ小さいんだよ」
「小さいって言うな!」
「林田さんって……こそこそ」
……おい。
いま、林田さんってやっぱりそっち系なんだね……って言ったやつ、誰だ。
やめてください。誤解なんです、ほんと。こいつはただの幼馴染で……
BLというジャンルが商業的に成功をおさめて久しい現代、この醜態を演じたあとではもはや俺の言い訳は誰の耳にも届かず……
「じゃ、ごゆっくり~」
佐々木さんは綿彦のぶんもお茶を出すと、他の女子社員をともなって俺のデスクを去って行った。
「あぁ……、終わった。佐々木さんとの甘い未来予想図がぁ……」
俺はキッと綿彦を睨みつけた。
「どうしてくれるんだよ、綿彦!」
「ん~」
しかしデスクに腰かけた綿彦は生返事で、広げた写真に見入っている。例の家財保険加入者、斎藤晴美が送ってきた資料だ。請求金額1500万円。問題の、検討中案件。思い出して、さらに気分が沈む。
「見るなよ、一応社外秘の資料なんだぞ」
「もう見た」
「……そうかよ」
綿彦の知的な横顔に、なぜか惨めな気持ちがわきあがってきた。
こいつは普段ぼんやりしているくせに、急に何でも知ってる博士みたいな顔になるときがある。それはある"能力"を解放するときだ。……俺が理解できない、怪物が垣間見える瞬間。
綿彦はにっこり笑った。
「ははぁ。それで和臣、ぼくが来る前から不機嫌だったんだね。お客さんに言われるままいっぱいお金払って、上司に怒られたんでしょ。それでいまは、このご婦人にお金を出すかどうか、悩んでいると」
一瞬でなんでもお見通しかよ、バケモノめ。
俺はふいと顔をそむけた。
「もう、すねないでよ」
「すねてねぇ」
綿彦は長い腕を伸ばすと、ふわりと俺の頭を撫でた。
「和臣は相変わらず、優しすぎるねぇ」
……そうだ、このセリフだ。懐かしいと感じたのは。
こいつの口から聞くと、褒め言葉というより、けなされているように思えるが。それか、同情?
「どうせ俺は優しいだけの無能ですよ」
「いいじゃない。それって和臣の長所だよ」
「テキトー言うなよ、ったく……」
俺はため息をついて、綿彦の指先から写真を奪った。綿彦は肩をすくめる。
「で、和臣はこの人にお金あげるつもりなの?」
「そりゃ、承認してやらんと可哀想だろ。大切な家をこんなめちゃくちゃにされて、このままじゃ、住めないし。近所の悪ガキどもの仕業らしいぜ? 最近の子どもは悪質だよなぁ」
改めて見ると、どの写真もひどいものだ。
かつては美しかったとわかる、白い壁。いまではスプレーで、スラングやら卑猥な言葉が書きなぐられている。
バカヤロウ!
死んでしまえ!
ワケワカメ!
あと、巨大な男根の絵まで……なぜかハサミでちょん切られている描写。ひぃ……っ!
室内も、ひどい有様だ。
置物はことごとく倒れ、ひとつ残らず開けられた棚からは物があふれ、衣服は散乱、壁にかかった絵画は切り裂かれてズタボロ、カーテンまで外されている。
犯人だという非行少年たちは、逮捕されたのだろうか。
それとも少年法に守られ、厳重注意で終わったのだろうか。
これはいっこくも早く保険金を支給して、修繕してもらわねばならない。
部長には怒られるが、仕方ない。この案件も承認……と、告知書にハンコを押そうとした手を綿彦がつかんで止めた。
「この女には1円だってくれてやる必要はないよ。自業自得だから」
「……は?」
俺は絶句した。
「こ……この家には家族との思い出がたくさん詰まってんだ! それを、他人に土足で踏み荒らされたんだぞ! 綿彦は斎藤さんが可哀想だと思わないのかよ!」
「まったく思わないね。1500万円だって? アホらしい」
綿彦は涼しい顔だ。
「お前……!」
こういうとき、痛感する。
綿彦と俺の価値観の違い。
感覚のズレ。
俺はこの壁に直面する瞬間が、たまらなく怖い。が、普通じゃない綿彦を無視もできず、俺はいままで何度も綿彦を叱りつけ、普通の感覚を教え込もうと試みてきた。……ぜんぶ無駄に終わっているが。
突然声を荒げたからか、遠くで様子をうかがっていた女性社員たちがざわついた。
ぐっとあごを引いてこらえる。ここが会社だということを、一瞬忘れていた。
時計を見ると、ちょうど昼どきだ。
「……昼飯、出てきます」
俺は綿彦の腕をひっぱって事務所を出た。再びざわつく女性社員のことは考えないようにする。身長180センチのクウォーターは、今度は素直にしたがった。俺がキレているからというより、本人も腹が減っているからだろう。
「ぼく、お寿司食べたーい」
と、のんきなものである。
「うるさい、黙れ」
「あ」
「なんだよ! 忘れ物か?」
「うん。和臣にお土産渡すの忘れてた」
歩行者なんかまるで気にせず道の真ん中で立ち止まると、綿彦はスプリングコートの胸ポケットから何やら四角いパッケージを取り出した。
「はい、これ」
「お、おう……」
ふいを突かれて、少しだけ怒りが冷めた。しかしそれも一瞬のこと。
『Milk』と書かれた四角いパーッケージ。
その正体を察することを俺の脳は激しく拒絶しているが、一応聞いておこう。
「なんだ、これ」
「『身長伸びるくん』のアメリカ版だよ! これ飲んでおっきくなろうね、和臣!」
きらきらと効果音がつきそうなきれいな笑顔に、俺はパンチをお見舞いした。
「いったぁーい! ひどいよ、和臣ぃ」
涙目の綿彦を見て、ちょっとだけ、満足。
──そういやぁ、あの日も殴ったなぁ。
ひしゃげた小鳥を握り締める綿彦を、そうして小鳥から出る血の量に感動する綿彦の頬を……俺はあのとき人生で初めて人を殴ったのだ。
あれが初対面。
出会いは最悪だった。
なのに、あれから17年経ついまも、綿彦は俺にまとわりついている。
ふいに風が吹き、桜の花びらをつれてきた。
綿彦の、よく見ればボロいトレンチコートがひらひらと波打つ。
奇しくも季節は、俺と綿彦が初めて出会ったあの日と同じ、春。
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