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[39]ミッション⑦コンプリート?

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 妙に興奮していた。心臓は忙しなく脈打ち、頭には血が上って耳の後ろがキーンとする。

 ああ、とうとう、

 言ってやったわ……!

 別に、罵詈雑言を浴びせたわけではないし、ネズミが猫に噛み付くような、小さな反抗だったけれど、それでも確かに彼に強い態度を示し、自ら背を向けることができた。
 きっとお父様の後ろ盾を貴方に与えてみせるから、だから愛して、なんて縋りついて泣いたりしなかった。

『もっとよく、周りを見て、アレク。自分だけじゃなく』

 自己中心的で自己愛にまみれた彼の世界に、波紋を広げる一石を投じられたかしら。

 アレクの惚けた顔を思い出して、大声で笑い出したくなる。

 アレク、貴方は私のことなら何でも知ってるって思っているでしょうけど、貴方は何にも知らないわ。私がまだ、貴方を心の底から、まるで信心深い神の信仰者のように、身も心も貴方に喜んで差し出すほど、貴方を愛しているとでも思っていたの? もう私の心は、貴方への決別の準備を始めてる。私も気づいていなかった。貴方に再び相まみえるまで。そういう意味では、私自身ですら、私のことを知らないのだわ。

「よかったのか? せっかくのデートだったろうに」

 死神が小走りにやってきて隣に並びながら言った。赤い御者服に羽つきの黒い三角帽子、よく見る格好の中で珍妙なお面だけがひどく浮いて見えた。

「貴方の言葉を借りるなら、"男は逃げる者ほど追いたくなる"のでしょう? なんだったかしら、そう、"狩猟本能"とかいうもので。今はその逃げ時よ」

 熱に浮かされた脳みそは素早く思考を回転させる。歌うように、言葉がするすると口をつく。
 それでも、私はいたって冷静。だからわかってる。強気な発言は興奮が未だ冷めていないせい。きっと、このあと大きな後悔と共に何日も尾を引くような疲労がやってくるでしょうけど、苦悩するのは未来の私の役割。今はただ、開放感に酔いしれたい。

「ふむ……それは確かに、一理ある」

 死神が顎に手を添え考察を始めたところで、歩みを止めて彼に向き直った。

「………ありがとう」

「なにが?」

「馬車の中でアレクに、その、迫られたとき、助けてくれたでしょう?」

 あのとき馬車が止まらなければ、いったいどうなっていただろう。純潔を散らすような目にあっていたかしら。まさか、アレクがそんなこと……とは思うけれど、彼の考えなしな性格には最近気づいたところだ。あるいは、という可能性もある。

「何のことだ?」

「とぼけても無駄よ。分かっているんだから。横槍が入るタイミングが良すぎるんだもの。聞き耳でも立てていたの?」

 言うと、死神は天を仰いだ。

「──ああ、まったく、馬鹿なことをした。あのまま襲わせていれば既成事実が出来上がり、お前はすぐにでも王太子に身請けされたかもしれないというのに……!」

 それは、たしかに。僅かに顔をしかめる。その考えは思いつかなかったわ。
 王太子のお手つきとあっては、それも私のような身分の高い令嬢が相手であれば、王太子のわがままな主張など無視されて、再び婚約話が持ち上がってもおかしくない。だけど、

「そんな結末は嫌よ。愛がないわ」

「そうだな。それじゃお前は幸せになれない」

「ええ。理解していただけているようで嬉しいわ」

「ところで、本当に乗合馬車で帰るつもりか?」

「そうよ」

「その格好で?」

 改めて、自分の格好を確認する。白地に薄黄色の小花が散った可愛らしいドレス。白いパンプスに、小花を差した帽子。サイドにキッド様からいただいた黄色い小花と真珠の髪飾りが覗く。

「いけない?」

「"もっとよく周りを見て"、フィオりん」

 嫌味ったらしく私の声真似をしてそんなことを言い出す死神に促され、周囲を見渡す。
 
 痛いくらいに注目を浴びていた。幸い敵意の視線はないようだけれど、代わりに好機の視線をひしひしと感じる。
 乗合馬車は下級貴族や役人が多く利用する。たしかに、平民も利用するとは聞いていたけれど………馬車を待つ人々を見たところ、スカートやズボンの裾を泥跳ねで汚した平民がほとんどだった。さすがに気づく。

「この格好じゃ……目立つ?」

 こてん、と首を傾げて問えば、

「ものすごく。……ちょっと、こっちに来い」

 死神に連れられ、狭い路地に入る。壁に嵌った木製のドア。そのドアノブに手をかざし、死神が何か呟くとガチャリと音を立てひとりでに扉が開いた。そのまま中に連れ込まれる。

「どなたのお宅?」

 看板が出ていなかったから、個人宅だろう。簡素な木のテーブルには、少しだけ入ったスープのお椀やパンのはし切れなど食べ残しが散らかっている。

「さぁな。家主は仕事に出ていて留守だってのは確かだ」

「まぁ!不法侵入じゃないの!」

「こんな綺麗なお嬢さんの着替えに使われたとあっちゃあ、家主も本望だろうよ」

「着替え?」

「これに着替えろ」

 渡されたのは、町娘風の衣装。スカートの色は深緑だし、白い袖部分もしっかりしていて、全体的に地味な感じ。ほとんど露出狂のような前回の衣装とは大違いだ。

「こんなのも持っていたのね」

 じとりと不満を乗せて言えば、死神は「うっかり忘れてたんだ」と悪びれる様子もなく言いのけた。

「まぁ……!」

 言いたいことはまだまだあるけれど、無事に帰宅するために着替えは必要。絶対に覗かないようにと釘を刺し、続き部屋で手早く着替えた。

 死神の待つ居間に向かうと、死神もまた着替えていた。街で見かけた平民の男たちより、少しだけ上等な白いシャツと焦げ茶色のズボンに膝下まである革のブーツ。黒髪はそのままに、ただしお面はつけて。

「いいな」

 死神が私を見て、満足そうに頷いた。

「貴方も。普通の男みたいよ?」
 
「だが悲しいことに違う。お前もな」

 死神はそう言うと、黒いローブを取り出し、フードを被って黒髪を隠してしまった。それから私にも紺色のローブを着せる。私の珍しい銀髪を隠すためだとわかった。

 外に出て、死神が再びドアノブに手をかざすとガチャリと鍵が閉まる音がした。

 乗合馬車の駅へと向かう。馬が見えてくるにつれ、しかし私の歩みは遅くなった。
 
「ねぇ、私、今日は観たくもない劇を観せられて、アレクとの"密会"で不快な思いをして、とても機嫌が悪いの」

 そう切り出す。死神は歩みを止めてこちらを振り返った。

「──つまり?」

「つまり、気晴らしが必要ってことよ。そう、私が幸せになる・・・・・・・ためにはね」

 死神がふぅ、と息を吐く。それから腰に手を添え、

「何をご所望かな、お嬢さん?」

「氷菓子を食べに行きましょ!せっかく目立たない格好をしているのだし!」

「えぇっ」

 死神の不満の声に、素の彼を見た気がして楽しくなる。

「なによ、約束したじゃない。それとも、貴方は女との約束一つも守れないつまらぬ男なのかしら?」

「俺をその気にさせようなんて、百年早いぞ。だが、まぁ、氷菓子くらいなら」

「そうこなくっちゃ。ここから先日のお店までは近いかしら?」

 嬉しくて笑っていると、死神が「呆れた」とため息をつく。

「あんなことがあったばかりの場所なのに、トラウマにもなっていないわけか」

「なりかけたけど、大丈夫だったみたいね」

 あのとき死神がすぐに私を連れ出して、胸の中で落ち着かせてくれたから。

「それに私はそんなにやわじゃないのよ。アレクに振られたってこの通り、元気で生活してるもの」

「──俺がいなきゃ闇落ちしてたくせに」

 ぼそり、と死神が呟く。

「なにか言ったかしら?」

「いや。──急ごう。帰りが遅くなると"家の者が心配する"だろ?」

「そうね」

 だけど、少しくらい遅くなったって平気よ。アレクが私の家に使いを送ったのを見たから。きっと、お父様や使用人たちは私がアレクと会っていると思ってる。そのことはなんとなく、死神には言わずにおいた。

 


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