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[67]逃亡
しおりを挟む「陛下!ご命令を……!」
いつの間に用意したのか、ジークがすらりと剣を抜いた。床に突っぷすアレクを邪魔だと押し退けながら、こちらに向かってくる。
ジークは魔法使いだ。一撃で決着がついてしまうような、強大な魔法を使ってくるかもしれない。あの時、ヴィが簡単に止めた炎だって、魔法を封じられた今のヴィには止められない。逃げるなら、どの追手からよりも彼が一番厄介だ。
だけど、魔法の力を嫌う王家の面々が揃う前で、堂々と力を使うかしら……そもそも、力を秘密にしている可能性だってある。わからない。なにしろ、彼は怒りに支配されている。怒りはあっさり理性を飛び越えてしまう。
「あなたっ!やめて!実の息子なのよ!」
クラリス王妃が叫ぶ。
混乱の中、兵士たちは油断していた。王妃は手近な兵士の一人から剣を奪い取り、ヴィと私を守るように立ちはだかった。剣を向けた先は、陛下だ。
「あの子に手を出したら許さないから……!」
「クラリス、よせ」陛下が言った。「いまさらあの子を王家に迎え入れることはできん」
「貴方のせいで、私がどれだけ辛い思いをしてきたか、どれだけの夜、枕を濡らしたか、知らないでしょう!」
「クラリス」
「黙って!この、浮気男!裏切り者!貴方なんか、選ぶんじゃなかった!レナードと結婚すれば、こんなに辛い思いをしなくて済んだのに!全部、全部貴方のせいよ!」
「………ずいぶん、身勝手な事を言うのね」
気づけば呟いていた。誰かに聞かせようと言う意図のない独り言は、当たり前のように、興奮した王妃には届かない。
子を持つ母ではないから、王妃の気持ちをすべて理解できるとは言わない。それでも、気持ちを慮ることはできる。それを差し引いても、彼女の言っていることは、あまりに身勝手だ。選択してきたのは、確かに彼女のはずなのに。誰の気持ちも、彼女は置き去りにしてしまっている。
ヴィの手を、ぎゅっと握った。仄暗い彼の目が、私を見る。あまりに美しい顔が作る悲観の表情は、できすぎていて、現実味がない。一瞬、今この時は、舞台の中のいち場面なんじゃないかと錯覚する。──だけど、役者にしては真に迫り過ぎている彼の震えが、これが現実なんだと、私に知らせる。
「離れないと約束したわ」
安心させるように、言う。
大丈夫。私が貴方を護る。一生懸命頑張るけど、それでも護りきれなかったら、そのときは、私も一緒に死ぬから。
微笑みかければ、ヴィの瞳に僅かに光が戻った。
「陛下っ!!!」
ジークはいい加減、しびれを切らしそうだ。陛下は───青い顔で項垂れている。すぐ側でダートネル宰相が声をかけているけれど、反応は無い。微かに開いた口からは時折空気が漏れるだけで、意味のある言葉は紡がれない。
「───王子を逃がすぞ、フィオリア」
お父様が言った。それから、ディンバードの兵士たちに命じる。
「ぼうっとするな。王子を護れ!」
お父様の意図はすぐに伝わった。彼を逃がすなら、今しかない。
再び、ディンバードの兵士と王家の兵士が武器を構えて対峙する。すぐに、緊張状態となった。
今は何とか均衡が保てているけれど、合図一つで増員できる王家の兵士と違い、こちらの兵士は、20名ほどしかいない。これだけの数に、何ができるだろう。───急がなきゃ。
「行って、ヴィ」
逃げるなら、彼一人のほうがいい。私がいては、足手まといになる。わかっているのに、彼の手を離せない。涙が嗚咽と共にせり上がる。いま離れてしまえば、この先永遠に会えなくなるかもしれない。身を隠した彼を、私はたぶん見つけられない。
と、ヴィが私を抱き上げた。硬く冷たい鎧に包み込まれる。
「ヴィ……?」
「………離れないと約束した」
我慢ならず、私は彼の首に両腕を回してしがみついた。なんて愚かな行動。貴方だけで逃がしてあげられない。身勝手な私を、どうか許して。
「───私も一緒に連れて行って」
ヴィが首元で頷いた。
「───嫌。せっかく会えたの」
王妃が、お父様と言い争っていた。これまで陛下に向けていた剣を、今度はこちらに向けている。
「行かせない。ヴィンセントは私とここで暮らすの!」
「クラリス」
お父様が、王妃を抑える。綺麗にまとめられていたはずの彼女の栗色の髪はぼろぼろだった。耳をつんざくような絶叫が、響く。
「早く!あの子を、捕まえて!」
兵士たちは躊躇っている。ちらちらと、俯いたまま一言も発しない陛下を伺う。まったく統制が取れていない。
「抑えろ!」
このチャンスを逃すお父様ではない。ディンバードの兵士たちを指揮し、壁を作る。
「どういうつもりだ、ディンバード公。王家に刃向かうつもりか!」
ジークが怒鳴る。それに答えるお父様は、いたって冷静だ。
「仰る意味が分かりません。私は陛下のご子息である王子を護っているまで。王家に刃向かうなど、とんでもない」
走りだそうとしたその時、よろけながらヴィが止まった。ルルが、彼の腕を掴み、引き止めていた。
「行っちゃだめだよ、ヴィ」
不自然なほど落ち着いた声で、ヴィに語りかける。
「行ったら、私、全部喋っちゃうかも」
ヴィはルルを振り向かないまま、私に視線を落とす。瞳の奥に、怯えたような色が見えた。
「知られたくないんでしょ?」
カッと怒りが込み上げる。どうして、いつもいつも貴女は……!邪魔、しないで……!
「ルル!今はやめて!逃がして!じゃなきゃ、ヴィが殺されてしまうわ!」
「私が側にいる限り、そうはならない。彼をこの国の王子だって、時期王になるべき人だって、認めさせる」
「時期、王ですって………?」
「私にはそれができる。ヴィは安全だから。逃げる必要、ないんだよ」
「でも……っ」
───ああ、嫌だ。ルルの水色の瞳を見ていると、こちらが間違っているんじゃないかという気にさせられる。感情がすべてその瞳に吸い込まれて、消えてしまうような……だんだんと、心が無になっていく。
「どうすればいいか、わかるよね?」
ヴィは、今にも泣き出しそうだった。
「──ヴィ?」
名前を呼びかける。
───ああ、だめ。目を逸らさないで。こっちを向いて。
息がつけなくなる。窒息しそうな思いで手を伸ばし、ヴィの両頬を包み込む。ひたすら、彼の名前を呼んだ。お願いだから、
「───ルルのところに行かないで」
この一言かが決め手となったのか、それとも私の涙が決め手となったのか、ヴィはルルの腕を振り払った。
まさか、拒絶されるとは思ってもみなかったのだろう。ルルは表情を凍らせ、かと思えばみるみるうちに顔を赤くした。
「ちょっと、何すんの。私を怒らせたら───」
「───もう、いい」
そう言うヴィに、迷いはなかった。
「これ以上、嘘はつきたくない。本当のことを話して、フィオリアが俺を許さないと言うなら、それまでだ」
「は? 何が? え、意味わかんない───知られてもいいっていうの?」
「全部、話す」
ルルから、いつもの余裕が消えた。
「ばっかじゃない!夢見てんなよ!あんたの本性を知ったらこの女だって、あんたを嫌うに決まってる!」
ヴィは黙ったまま、私を抱いて走り出した。ガチャガチャと鎧が鳴る。魔法を封じられた生身の彼は、あまり早く走れない。彼を守るために着せた鎧はいま、足かせになっている。
「許さない!あんただけ幸せになるなんて、絶対に許さないから……!」
「命令だ!動け!行け!魔王を殺せ!」
陛下の命令がないまま、遂に動き出したジークの怒号を、背中に聞いた。
謁見の間が、喧騒と共に遠ざかっていく。ヴィの辛い過去が明らかになったというのに、そして、いままさに彼の命が危ないというのに、私は不謹慎にも、幸福を感じていた。ヴィの胸の中、彼の顔を見上げながら思った。
───ヴィが選んだのは、ルルじゃなく、この私。
彼がいない、辛い日々の中で蓄積された胸の重みが消し飛んだ。全てが報われた気がした。
ヴィが何を隠していても、それがどんなことでも、私はきっと、全て許してしまう。確信があった。
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