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序章
第3話
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朝の光は、窓枠の石を白く冷たく見せた。薄い雲がかかって、空気が澄んでいる。正直、よく眠れたかといえば嘘になるし、まぶたの裏の重さは残っている。ただ、ベルのおかげか喉は乾いていない。昨夜こちらに酔っ払ったまま来た瞬間よりは、ずっとましだ。
「おはようございます、マリ様」
噂をすればなんちゃら……ではないが、ベルが盆を運んできた。湯気の立つ穀物のスープと、薄く焼いたパン。
「ありがとう。……美味しい」
窓辺の小さなテーブルに案内され匙を口に運ぶ。自分で自分に苦笑する。現金なものだ。こんな状況でも、温かいものは素直に嬉しい。
「お口にあったようで何よりです」
ベルは小さく笑って、棚からたたんだ衣を取り出した。
「本日は、聖女様の正装を。お召し替えをお手伝いしても?」
ベルが持ってきた布の量を見て驚く。自分では着ることができなさそうだ。着物の着付けだと思うことにしよう。
「うん、甘えさせてもらうね。お願い」
下着はシルクらしき布地がブラトップのような形に縫われたものだった。アンダーバストで紐を結ぶ仕様になっている。ブラジャーがないのがとても心細いが、さほど大きくない慎ましやかな胸に感謝し、着用する。パンツも伸縮性がない紐パンだった。心許ない。
上に着るのは乳白色のトップス。シースルーの長袖で立ち襟、袖口と襟ぐりに細い金糸で模様が入っている。その上にさらに乳白色のエンパイアラインのオーバードレスを重ねる。思っていたより軽い。光に当たると、ミントグリーンのオーロラがきらめいてとても美しい。そして暖かそうなモスグリーンのローブ。フードの縁や裾に金糸の刺繍が入った豪華なものだった。靴は柔らかな白い革のブーツでサイズもちょうどよく、軽くて履きやすかった。
「ヴェールもあるのですが——」
「今日は無しでも大丈夫?……視界を確保しておきたいな、と」
「承知しました」
髪は手ぐしで整えた。メイクもいつもの仕様。ドロドロに溶けかけていた昨夜よりマシだ。鏡を見るといつもの自分の顔。
(大丈夫。意外と普通の顔してる)
「失礼いたします」
そのときノックが鳴り、ベルが開けるとアンリが立っていた。神官の正装なのだろうか。ゆったりとした白っぽい貫頭衣にストラをかけている。
目が合って、一拍遅れて、彼の視線がふっと揺れる。
「……とても、お似合いです」
「アンリさんも素敵です」
短く咳払いして視線を逸らすのが可笑しくて、笑ってしまった。
「マリ様、私にもその……敬語は不要です。聖女様に敬語を使わせてるとなると、不敬にあたりますから」
「……わかったわ」
アンリにも敬語は不要だったらしい。聖女ってやっぱり偉いのだろうか。
「行こうか。評議会だっけ?」
「はい。講堂にて、聖座評議会の皆さまがお待ちです」
歩くたびにローブが揺れる。朝の回廊はひんやりしていて、自らの緊張を物語るようだった。これからのわたしはどうなってしまうのだろうか、不安だった。不安を振り払うよう、口を開く。
「この後お会いする方々はどんな人たちなの?」
私の質問にアンリは丁寧に答えてくれた。
聖座評議会——創光教とノルデン聖王国の最高意思決定機関。創務、典礼、救護、外交、財務、教導、記録の7つの局を持つノルデン聖王国における実質の政府と言っても過言ではない。聖王はいるもののあくまで象徴的元首で実権はないらしい。
そして今日はそれぞれの局における最高権力者である枢機卿が全員集まっているらしい。
(内閣の閣僚会議じゃない! 緊張するわ、そりゃ!)
そんな風に憤っているうちに目的地に到着してしまった。
案内されたのは、祈祷室とは別の、縦長の窓が並ぶ講堂。半円の高い卓。そこに初老から老人ほどの男性、七人が座している。肩章の色と位置で、それぞれが誰なのか分かるようになっているようである。
「ようこそ。お疲れのところを」
最前に座る枢機卿が柔らかく言った。声が、青灰の床に緩く反響する。
「ノルデン聖王国・創光教会の神官、アンリ・メルロー。本日は聖女、マリ様の付添の任でまいりました」
アンリが簡潔に名乗るのに合わせて、私も礼をする。緊張で背中が固くなりすぎないように、つま先に重心を置いた。
「聖女様は、どちらから」
別の枢機卿が、年輪の混じる声で尋ねる。
「地球の日本という国から来ました」
「やはり、前回の聖女様と同じ。黒髪黒目の乙女であったが……マリ様のような色味の方も、いらっしゃるのですね」
「私は、髪を染めております。瞳は日本人にしてはもともと薄めの色でして」
枢機卿たちは「ほう」と頷いた——その時。
「十日後に、浄化の旅に出立します」
一番若いであろう枢機卿が、静かに本題を告げる。あまりの驚きに言葉が出ない。
「聖都周辺の瘴気が薄いところから。浄化に慣れていただきながら、まずは大陸で最も力を有しているレムニス帝国の皇帝に拝謁を。おそらく瘴気の汚染状況に関しては我々ノルデンよりも広く情報を得ているかと。必要な基礎知識習得、祈祷の準備、浄化訓練、装備合わせ、護衛の選抜等は全て教会が支援します」
勢いに押されてうなずくと、視界のはしで、白い髭の老司教がアンリに軽く目配せするのが見えた。アンリが背筋を伸ばす。
「ソルレイ師——」
彼は囁くように呟いた。彼の関係者なのだろうか。
それにしても命がけになるであろう旅まで十日しかない。否応にも焦りが募る。
「あ、あの、この世界を、もう少し知っておきたいです。図書館はありますか?」
最初に声をかけてきた枢機卿が頷き、手元の板にさらさらと書く。
「閲覧は可能です。アンリの同席を条件に許可証をお出ししましょう」
「ありがとうございます」
彼らの声は水面みたいに穏やかだ。だが、目の奥に何か硬質なものがある気がして、背中がどこかぞわぞわする。勝手に呼び出されたことによって、多少偏見もはいっているかもしれない。
一旦、話は終わったようだ。アンリが深く礼をしたので続けておじぎをする。はやく此処を出ていきたい。
「聖女よ」
半円の端で、老司教——ソルレイが小さく言った。少し驚いて彼のシワが刻まれた目を見る。よく見るとガラス玉のような水色の瞳だ。
「此度は、当然呼び出すような真似をしてすまない。そなたは家族と引き離され、憤っていること、この上ないだろう。何、今のそなたにとっては、我々、いや、ルクス様さえ悪にしか見えないであろう」
「ソルレイ師……!不敬であるぞ」
先ほどの若めの枢機卿が立ち上がる。それをソルレイは手で制す。
「ただ、我々はこの世界のためであれば、悪魔に堕ちる覚悟はとっくにできておる。本当に申し訳なく思うが、我々も家族や友等を救いたいのだ。その代わりにそなたの事は、聖教会が必ず守り通すと誓おう。そなたの旅が……世界を……人々を救うことを心から祈っておる」
その一言は重く、石の床が震えたような気がした。
*
*
*
図書庫の前で、私たちは短い手続きを済ませた。
「館内は飲食禁止です。筆記には各所に備え付けのこの羽ペンをお使いになれます。ごゆっくりお過ごしください」
入口で注意事項をしっかりと聞き届け、私はそっと扉を押した。
図書館の匂いというものは、国が変わっても同じのようだ。嗅いだことのある乾いた繊維とインクの匂いにわずかに口角が上がる。ほとんどの蔵書が古書のようで、それらが整然と並んでいる本棚を眺めていると、ある種、美術鑑賞のような気持ちになる。あまりの壮大さに圧倒されていると、アンリから声をかけられた。
「こちらです。前聖女様の日誌をお取り置きしております」
閲覧用の小部屋に通されると、すでに革の箱が置かれていた。
「日誌でございます」
若い司書官が、両手で箱を開ける。中にあったのは、金糸の和綴じ本。表紙に『昭江 二十三歳』と日本語で記載がある。かなり摩耗していて、読めない箇所も多そうだ。私はそっとページをめくった。
昭江さんは、二十三歳でここに来た。夫は戦争で亡くなって、若くして未亡人。生家に戻り、放蕩気味の弟の代わりに働いて、戦争で怪我をした両親と四人で暮らしていたこと。仕事帰りに、足を滑らせ、気づけばこちらにいたこと。
日誌は、日付と出来事が淡々と続く。その中で読み進めていくと『聖女、王に並ぶ地位を仮託』という記述があった。
「守護対象、ということなのかしら」
私がつぶやくと、アンリが安堵したように頷いた。
「はい。教会も王国も、マリ様を守るために動きます」
さらに、ページを送る。聖女の本務は、核の浄化。日誌のあちこちに「稽古」という言葉がある。浄化や魔法は練習でできるようになる類いのもののようだ。
手順のメモのようなものがある。
「呼吸」「腹」「不可視の息吹」といった単語が読めるが他はあまり識別できない。
また、魔物との戦いの現場での救護についてのメモや亡くなった騎士への深い追悼なども随所に書かれている。書く人の性格が、行間から滲み出る。
「付添人に生活全般を支えられ……介添人の六名と共に戦う。介添人?」
目に止まった言葉に思わず声が漏れた。ノートに小さく『介添人 6人』とメモする。昭江さんは、“介添人”は見分けると書いているが、その詳細は擦れて判読できない。
(介添人って一緒に戦うと書いてあったな。RPGゲームのパーティーメンバーみたいなものなのかな)
その後、付添人に対してこんな一文があった。
「彼の事を心から愛している」
なんとなくではあるが、こちらの世界への帰属心を育てるために付添人がいるのでは? と疑ってしまう。当人の文体は穏やかだから良いが、私は少しげんなりしてしまった。そして、アンリの横顔をちらっと見て(イケメンだしなぁ)と思い、大きくため息を付きつつ、続けてページに目を落とした。
最後の方のページは、家族の事が多い。親を看取れなかった悔い。弟への心配。ここで出会った人たち——付添人と介添人への、心からの感謝。
(元の世界に帰ったら、この人の子孫を探そう)
弟さんが結婚したかはわからないし、家系が続いているかはわからないけど、彼女がここにいた証を、私の手で届けたい。だから、帰る。帰るためにも、まずはここでできることを、順にやろう。
昭江さんの日誌は彼女の素直な人柄が現れていた。帰る決意を固めたら、少し心が浮上した。
私は彼女の日誌を閉じ、深く息を吐いた。
「ねぇ少し、試してみてもいい?」
「ええ」
アンリは「何を?」と言う顔をしつつ、詳しくは聞かずに許諾した。
(聞かないでいいの?)
両足を肩幅に開いて、背筋を伸ばす。呼吸を意識してみる。吸って。止めて。吐く。
ひと呼吸ごとに肩の位置が微かに下がって、お腹の底がぽかぽかとしてきた。
ほんの少し呼吸が浅くなると、例のスライムトイレを流したときに感じた磁力のようのが手先に向かって流れていく。
それはまるで体内で風が吹き抜けるようだった。そして、その風をそのまま指先から解放する。
部屋の空気が、ふわっと軽くなる。棚の上の埃が光に淡く揺れた気がした。アンリが目を丸くしている。
「いまの——」
「私も……できる、かも」
息を整えて、私は初めて、この世界で心から笑った。
「おはようございます、マリ様」
噂をすればなんちゃら……ではないが、ベルが盆を運んできた。湯気の立つ穀物のスープと、薄く焼いたパン。
「ありがとう。……美味しい」
窓辺の小さなテーブルに案内され匙を口に運ぶ。自分で自分に苦笑する。現金なものだ。こんな状況でも、温かいものは素直に嬉しい。
「お口にあったようで何よりです」
ベルは小さく笑って、棚からたたんだ衣を取り出した。
「本日は、聖女様の正装を。お召し替えをお手伝いしても?」
ベルが持ってきた布の量を見て驚く。自分では着ることができなさそうだ。着物の着付けだと思うことにしよう。
「うん、甘えさせてもらうね。お願い」
下着はシルクらしき布地がブラトップのような形に縫われたものだった。アンダーバストで紐を結ぶ仕様になっている。ブラジャーがないのがとても心細いが、さほど大きくない慎ましやかな胸に感謝し、着用する。パンツも伸縮性がない紐パンだった。心許ない。
上に着るのは乳白色のトップス。シースルーの長袖で立ち襟、袖口と襟ぐりに細い金糸で模様が入っている。その上にさらに乳白色のエンパイアラインのオーバードレスを重ねる。思っていたより軽い。光に当たると、ミントグリーンのオーロラがきらめいてとても美しい。そして暖かそうなモスグリーンのローブ。フードの縁や裾に金糸の刺繍が入った豪華なものだった。靴は柔らかな白い革のブーツでサイズもちょうどよく、軽くて履きやすかった。
「ヴェールもあるのですが——」
「今日は無しでも大丈夫?……視界を確保しておきたいな、と」
「承知しました」
髪は手ぐしで整えた。メイクもいつもの仕様。ドロドロに溶けかけていた昨夜よりマシだ。鏡を見るといつもの自分の顔。
(大丈夫。意外と普通の顔してる)
「失礼いたします」
そのときノックが鳴り、ベルが開けるとアンリが立っていた。神官の正装なのだろうか。ゆったりとした白っぽい貫頭衣にストラをかけている。
目が合って、一拍遅れて、彼の視線がふっと揺れる。
「……とても、お似合いです」
「アンリさんも素敵です」
短く咳払いして視線を逸らすのが可笑しくて、笑ってしまった。
「マリ様、私にもその……敬語は不要です。聖女様に敬語を使わせてるとなると、不敬にあたりますから」
「……わかったわ」
アンリにも敬語は不要だったらしい。聖女ってやっぱり偉いのだろうか。
「行こうか。評議会だっけ?」
「はい。講堂にて、聖座評議会の皆さまがお待ちです」
歩くたびにローブが揺れる。朝の回廊はひんやりしていて、自らの緊張を物語るようだった。これからのわたしはどうなってしまうのだろうか、不安だった。不安を振り払うよう、口を開く。
「この後お会いする方々はどんな人たちなの?」
私の質問にアンリは丁寧に答えてくれた。
聖座評議会——創光教とノルデン聖王国の最高意思決定機関。創務、典礼、救護、外交、財務、教導、記録の7つの局を持つノルデン聖王国における実質の政府と言っても過言ではない。聖王はいるもののあくまで象徴的元首で実権はないらしい。
そして今日はそれぞれの局における最高権力者である枢機卿が全員集まっているらしい。
(内閣の閣僚会議じゃない! 緊張するわ、そりゃ!)
そんな風に憤っているうちに目的地に到着してしまった。
案内されたのは、祈祷室とは別の、縦長の窓が並ぶ講堂。半円の高い卓。そこに初老から老人ほどの男性、七人が座している。肩章の色と位置で、それぞれが誰なのか分かるようになっているようである。
「ようこそ。お疲れのところを」
最前に座る枢機卿が柔らかく言った。声が、青灰の床に緩く反響する。
「ノルデン聖王国・創光教会の神官、アンリ・メルロー。本日は聖女、マリ様の付添の任でまいりました」
アンリが簡潔に名乗るのに合わせて、私も礼をする。緊張で背中が固くなりすぎないように、つま先に重心を置いた。
「聖女様は、どちらから」
別の枢機卿が、年輪の混じる声で尋ねる。
「地球の日本という国から来ました」
「やはり、前回の聖女様と同じ。黒髪黒目の乙女であったが……マリ様のような色味の方も、いらっしゃるのですね」
「私は、髪を染めております。瞳は日本人にしてはもともと薄めの色でして」
枢機卿たちは「ほう」と頷いた——その時。
「十日後に、浄化の旅に出立します」
一番若いであろう枢機卿が、静かに本題を告げる。あまりの驚きに言葉が出ない。
「聖都周辺の瘴気が薄いところから。浄化に慣れていただきながら、まずは大陸で最も力を有しているレムニス帝国の皇帝に拝謁を。おそらく瘴気の汚染状況に関しては我々ノルデンよりも広く情報を得ているかと。必要な基礎知識習得、祈祷の準備、浄化訓練、装備合わせ、護衛の選抜等は全て教会が支援します」
勢いに押されてうなずくと、視界のはしで、白い髭の老司教がアンリに軽く目配せするのが見えた。アンリが背筋を伸ばす。
「ソルレイ師——」
彼は囁くように呟いた。彼の関係者なのだろうか。
それにしても命がけになるであろう旅まで十日しかない。否応にも焦りが募る。
「あ、あの、この世界を、もう少し知っておきたいです。図書館はありますか?」
最初に声をかけてきた枢機卿が頷き、手元の板にさらさらと書く。
「閲覧は可能です。アンリの同席を条件に許可証をお出ししましょう」
「ありがとうございます」
彼らの声は水面みたいに穏やかだ。だが、目の奥に何か硬質なものがある気がして、背中がどこかぞわぞわする。勝手に呼び出されたことによって、多少偏見もはいっているかもしれない。
一旦、話は終わったようだ。アンリが深く礼をしたので続けておじぎをする。はやく此処を出ていきたい。
「聖女よ」
半円の端で、老司教——ソルレイが小さく言った。少し驚いて彼のシワが刻まれた目を見る。よく見るとガラス玉のような水色の瞳だ。
「此度は、当然呼び出すような真似をしてすまない。そなたは家族と引き離され、憤っていること、この上ないだろう。何、今のそなたにとっては、我々、いや、ルクス様さえ悪にしか見えないであろう」
「ソルレイ師……!不敬であるぞ」
先ほどの若めの枢機卿が立ち上がる。それをソルレイは手で制す。
「ただ、我々はこの世界のためであれば、悪魔に堕ちる覚悟はとっくにできておる。本当に申し訳なく思うが、我々も家族や友等を救いたいのだ。その代わりにそなたの事は、聖教会が必ず守り通すと誓おう。そなたの旅が……世界を……人々を救うことを心から祈っておる」
その一言は重く、石の床が震えたような気がした。
*
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図書庫の前で、私たちは短い手続きを済ませた。
「館内は飲食禁止です。筆記には各所に備え付けのこの羽ペンをお使いになれます。ごゆっくりお過ごしください」
入口で注意事項をしっかりと聞き届け、私はそっと扉を押した。
図書館の匂いというものは、国が変わっても同じのようだ。嗅いだことのある乾いた繊維とインクの匂いにわずかに口角が上がる。ほとんどの蔵書が古書のようで、それらが整然と並んでいる本棚を眺めていると、ある種、美術鑑賞のような気持ちになる。あまりの壮大さに圧倒されていると、アンリから声をかけられた。
「こちらです。前聖女様の日誌をお取り置きしております」
閲覧用の小部屋に通されると、すでに革の箱が置かれていた。
「日誌でございます」
若い司書官が、両手で箱を開ける。中にあったのは、金糸の和綴じ本。表紙に『昭江 二十三歳』と日本語で記載がある。かなり摩耗していて、読めない箇所も多そうだ。私はそっとページをめくった。
昭江さんは、二十三歳でここに来た。夫は戦争で亡くなって、若くして未亡人。生家に戻り、放蕩気味の弟の代わりに働いて、戦争で怪我をした両親と四人で暮らしていたこと。仕事帰りに、足を滑らせ、気づけばこちらにいたこと。
日誌は、日付と出来事が淡々と続く。その中で読み進めていくと『聖女、王に並ぶ地位を仮託』という記述があった。
「守護対象、ということなのかしら」
私がつぶやくと、アンリが安堵したように頷いた。
「はい。教会も王国も、マリ様を守るために動きます」
さらに、ページを送る。聖女の本務は、核の浄化。日誌のあちこちに「稽古」という言葉がある。浄化や魔法は練習でできるようになる類いのもののようだ。
手順のメモのようなものがある。
「呼吸」「腹」「不可視の息吹」といった単語が読めるが他はあまり識別できない。
また、魔物との戦いの現場での救護についてのメモや亡くなった騎士への深い追悼なども随所に書かれている。書く人の性格が、行間から滲み出る。
「付添人に生活全般を支えられ……介添人の六名と共に戦う。介添人?」
目に止まった言葉に思わず声が漏れた。ノートに小さく『介添人 6人』とメモする。昭江さんは、“介添人”は見分けると書いているが、その詳細は擦れて判読できない。
(介添人って一緒に戦うと書いてあったな。RPGゲームのパーティーメンバーみたいなものなのかな)
その後、付添人に対してこんな一文があった。
「彼の事を心から愛している」
なんとなくではあるが、こちらの世界への帰属心を育てるために付添人がいるのでは? と疑ってしまう。当人の文体は穏やかだから良いが、私は少しげんなりしてしまった。そして、アンリの横顔をちらっと見て(イケメンだしなぁ)と思い、大きくため息を付きつつ、続けてページに目を落とした。
最後の方のページは、家族の事が多い。親を看取れなかった悔い。弟への心配。ここで出会った人たち——付添人と介添人への、心からの感謝。
(元の世界に帰ったら、この人の子孫を探そう)
弟さんが結婚したかはわからないし、家系が続いているかはわからないけど、彼女がここにいた証を、私の手で届けたい。だから、帰る。帰るためにも、まずはここでできることを、順にやろう。
昭江さんの日誌は彼女の素直な人柄が現れていた。帰る決意を固めたら、少し心が浮上した。
私は彼女の日誌を閉じ、深く息を吐いた。
「ねぇ少し、試してみてもいい?」
「ええ」
アンリは「何を?」と言う顔をしつつ、詳しくは聞かずに許諾した。
(聞かないでいいの?)
両足を肩幅に開いて、背筋を伸ばす。呼吸を意識してみる。吸って。止めて。吐く。
ひと呼吸ごとに肩の位置が微かに下がって、お腹の底がぽかぽかとしてきた。
ほんの少し呼吸が浅くなると、例のスライムトイレを流したときに感じた磁力のようのが手先に向かって流れていく。
それはまるで体内で風が吹き抜けるようだった。そして、その風をそのまま指先から解放する。
部屋の空気が、ふわっと軽くなる。棚の上の埃が光に淡く揺れた気がした。アンリが目を丸くしている。
「いまの——」
「私も……できる、かも」
息を整えて、私は初めて、この世界で心から笑った。
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