上海的桃香

山崎ももんが

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ACT 1

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三月の午後三時、成田空港の指定されたレストランに入ると、入口近くの四人席に座るエンドウが手を挙げているのが目に入った。彼の対面には初老の男性の背中が見えた。カメラマンのカミムラである。

「おう、来た来た、モモカちゃん、モモカちゃん」

「お疲れ様です。この度はお誘いいただき、ありがとうございました」と私はエンドウに頭を下げた。

エンドウの恰幅の良い身体を見ると、来年八十歳を迎える老人とは思えなかった。彼の経営する会社が中国の企業と合同で、上海の郊外に別荘街を建設していたのだ。今回はその物件を日本人にも販売することになり、販促用のホームページとパンフレットの制作を依頼されて、現地で取材をするために声を掛けられたのだった。

私の肩書は一応、代表取締役となっていたけれど、実際には小さなデザイン事務所の個人経営者だ。三十歳で起業してから、今年で二期目となる。エンドウには二十代の時に勤めていた会社で、何度か仕事を依頼されたことがあり、その縁で独立した今も仕事を依頼され続けていた。

エンドウの前にはコーヒー、カミムラの前には半分ビールが残されたジョッキがある。「モモカちゃんは、お酒、結構飲めるんだよな」とエンドウは言って、生ビールを注文した。ありがとうございます、と礼をしたけれど、これは不味いと思った。全身の毛穴から静かに汗が滲み出てくる。恐らく頭頂部の辺りは温められた空気が蒸発を始めて、蜃気楼の如く空間を歪めていたに違いない。私は二十代最後の歳に脂肪肝を患っており、エンドウを始めとするクライアント達に付き合い、浴びるほどにアルコールを摂取していた頃のようにはいかない身体になっていたのだ。席に座ると、ウェイトレスが水を運んできた。グラスの中には、自動製氷機で作られた角氷がいくつか、穴の開いた面を上にして浮かんでいる。

「遅くなりました」と言いながら、スーツ姿にスキンヘッドという出立いでたちの細身の男性が私たちの前に現れた。

「お、来た、来た」とエンドウは言って、男を紹介した。

「息子のコウイチ。俺の会社を継いでもらうから、ジュニアって呼んでやってくれ」

「社長、酷いですね。まあ、でもジュニアで良いです」と彼は言って、私の隣の席に座った。

レストランの照明に反射して光るジュニアの頭頂部に目線を動かしてしまった私に気が付いて彼は言った。「俺ね、大学生の頃に髪の毛をオレンジ色に染めてパンクバンドを組んでたんですよ。そうしたら次第に髪の毛が抜け始めて、頭皮にも痛みが出てきちゃって。結局全部剃っちゃったんですよ。それからはずっとこれで」とジュニアは話してくれた。「スキンヘッド、楽なんですよ。女性でも、シネイド・オコナーとかいるじゃないですか。モモカさんもどうですか、結構似合うかもしれませんよ」と言って彼は少しだけ歯を見せて微笑んだ。

「お父さんのことを社長って呼ぶんですね」

「ああ、一応、親子という感覚じゃなくて、会社を継ぐんで、上下関係で付き合おうと思ってるんですよ。でも、こういうの、結構他の会社でもありますよ。でも、俺の場合、それだけじゃないんですけどね」

「そうなんですか」と言った後、私はグラスを唇に当てて水を一口含み、少しずつ食道を通過させた。胃の粘膜に冷水が浸透していく。ジュニアは私たちの右側にある大きな窓の外で、滑走路へ向かって緩やかに移動を始めた飛行機の白く巨大な胴体を眺めている。その横顔から見える、凍り付いているかの如く瞬きをしないその瞳はガラス玉にも見えて、まるで生気が宿っておらず、曇った灰色に見えた。

生ビールが運ばれて来た。エンドウに聞こえるようにゆっくりと喉を鳴らすようにして食道に流し込んだ後、テーブルにジョッキを置いた。「モモカちゃん、相変わらず良い飲みっぷりだね」と言うエンドウに対して、ジュニアはジョッキを前に唇を尖らせて、静かに深呼吸を繰り返し始めた私の様子に何かを察したのか「無理に飲まなくて良いですよ」と言った。

ジョッキの中身を空にした後、水を飲もうと唇にグラスの縁を合わせてから傾けると、底に貼りついていた氷の塊が、坂の上で固定されていたコンテナが鎖を切られて滑り落ちるように人中じんちゅうに襲い掛かってきた。慌てて口を開き、角氷を一つ受け入れた。舌の上で転がして弄んだ後、奥歯で噛み砕く。その音を聞いた対面に座るエンドウが笑いながら私を眺めていたので、合わせるように私も笑顔を作り、掌で口を覆った。

* * *

二十九歳のある時期から、私の身体は異常な早さで風船が膨らむような勢いで太り始め、五十二キロだった体重は最終的に七十キロに達していた。拳を握ると脂肪に沈んで関節が見えなくなった。血尿が出たのをきっかけに、私は病院へ駆け込んだ。その結果、脂肪肝と診断されて、食事療法を行うことになったのだった。

「こんな生活をしていたら、あと十年以内に死にますよ」と、普段の酒の摂取量が原因だろうと医師は私に言った。

食事療法は断酒の他、塩分と糖分、脂分を控えた食事を摂り続ける。所謂いわゆる病院食に近い。既に結婚して調布に住む姉が、私の南大沢のマンションまで通い、料理を届けてくれた。八歳年上の姉は「夏の香り」と書いてナツカという。感覚を優先して動く私とは反対に、常に物事を計算してから行動する性格だ。大学も遺伝子工学を専攻して、卒業後は企業に就職した後に友人の内科医と結婚した。食事療法のレシピは、その義兄の意見も取り入れられていた。

「冷蔵庫に三日分、入れておくからね。タッパーに番号を書いてあるから順番に食べるのよ」と言う姉に、ベッドの上で海驢トドの如く寝返りを打つ私は「ありがとう」と返事をするだけで、当時は精一杯だった。如何にも身体が怠く、仕事はリモートで処理していたものの、就職していた大学の先輩が経営する会社の皆に対して申し訳ないという気持ちが溢れて、時折全身の毛細血管が縮む感覚に襲われていた。

療養生活も半年を過ぎた頃には血液の数値も正常に戻り、体重も元に戻っていった。再び会社に出勤を考える時期だと考えていた私に、姉は「起業しちゃえば」と言った。

「そんな簡単に出来ないでしょ。経理とか、税金対策とか、面倒だし」

「モモカが独立するなら経理は私がやるわよ。旦那のクリニックの経理も私がやってるんだし。面白そうじゃない。三十五歳までは失敗しても引き返せるから、やってみれば。最悪、クリニックの事務職で雇ってあげるから」

その後、私は独立することを決めた。会社も私を快く送り出してくれたけれど、足を引っ張り続ける私を追い出すことができて、都合が良かったのかもしれない。退職した会社にとって誤算だったのは、私を指名して仕事を発注していたクライアントが幾つか存在したことである。彼らは独立した私の会社に直接コンタクトを取ってきた。エンドウはその中の一人である。結果的に、世話になった大学の先輩の会社から複数の顧客を奪うという、恩を仇で返す形になってしまった。

エンドウの経営する会社は、東京の赤坂にオフィスを構える、建築と不動産を扱う「デベロッパー」で、私は彼らから定期的に仕事を依頼され続けていた。

今年の初めに、エンドウからの電話を受けた。

「ウチの会社がね、今さ、中国の海湾はいわんで向こうの会社と合同でリゾート住宅を建ててるんだけど、日本人にも販売したいんだよ。で、その、日本人向けのホームページとパンフレットをモモカちゃんにお願いしたいんだよ」

「ありがとうございます。あの、海湾はいわんって何処ですか」

「上海の郊外にあるリゾート地なんだけどね。それでね、三月に一緒に上海に行って、取材をして欲しいんだ。やっぱり、現地を見ないとイメージが湧かないだろ。パスポートはあるかい」

「あります」

「じゃあ、旅費とか宿泊費は全部出すから、一緒に行ってよ。カメラマンとウチのスタッフも一緒だから。あと、ホームページとパンフレットの見積書も頂戴」

三月の指定された日時に私は成田空港に向かい、そして今、搭乗のアナウンスを聞いている。
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