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Ⅱ サンフランシスコ
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ロズウェルはアメリカのニューメキシコ州南東部に位置している。一九四七年に郊外の農場にUFOが墜落し、破損した機体や宇宙人の遺体が軍に回収されて解剖が行われた、或いは生きたまま基地に連れて行かれた、というこの街に纏わる都市伝説が今も生き続けている。SF映画やドラマの中でこの街の名前が登場することも多い。
いつかの夜、私とサキは通い慣れたファミリーレストランで、もし宇宙人が存在するとしたら、どのように物が見えるのだろうか、という話をした。
「犬ってね、色を認識できなくて、世界がモノクロに見えてるんだってさ」
私は絵画科の友人から聞いた話題を持ち出して、宇宙人には私達よりも多く色を認識できるかもしれないから、モナ・リザもサイケデリックに見えるかもね、と言った。
「彼等、幽霊が見えたりしてね」
サキは形の良い歯を少し見せて笑う。今夜は過去の自分を自虐する余裕を見せていた。
「じゃあさ、空白の恐怖って聞いたことあるかな。絵を描くにしても、日本人は水墨画のように紙の白をそのまま活かして作品と見なすけれど、西洋人はその白い余白が怖くて、わざわざ白い絵の具で塗りたがる、っていう話」
「へえ、宇宙人の空間認識能力って気になるよね。そもそもさ、彼等はどうなのかな、絵とか描くのかな」
「地球の裕福層の人達が宇宙人のアートを買いたい、って言いそうだよね」
「あ、でも、宇宙人には地球のお金なんて、無価値でしょ。紙とか金属とかデータだし。この世にはお金で買えないものもあるって、実感するんじゃないかな」
それでも人類は結局お金の為に戦争を起こしたりするのよね、と私は頬杖をつき、白地に細い薄桃色の縦縞模様が入った店内の壁紙の一点を見詰めたまま呟いた。戦争が始まる理由が何なのか、正直なところ私には理解できていない。大学の図書館で調べたこともあったのだけれど、愚かな人類の歴史を綴る活字の列を眺めていたら、次第に胃酸が泡立ち沸騰していく感覚を覚え、気分が悪くなり本を閉じてしまった。モモカ、少し眼が据ってるよ、というサキの声で視点を切り替える。彼女は小さく笑いながら「ロズウェルにUFOの破片、残ってないかな」と言った。私はドリンクバーで注いだ三杯目のアイスカフェオレを飲み干し、窓に取り付けられたブラインドの隙間から、次々と通り過ぎる車のヘッドライトを眼で追っている。
* * *
サンフランシスコ空港に到着したのは現地時間の午前九時二十分だった。親指と人差し指を擦り合わせてみたけれど、身体に残ったアルコールが悪戯をしているせいで指紋の起伏を鈍く感じる。予想していたよりも寒かったのでダウンジャケットを着て来て正解だった。
空港から市内への交通手段について、手持ちのガイドブックに詳しい情報が掲載されていなかったので“EXIT”と記されている看板を頼りに進むと、メインゲートに辿り着いた。自動ドアを抜けると数台のタクシーが並んでいる。その並びの一台に観光客と思われる数人が荷物を積み込んでいる大きな白いワゴンがあった。私が眼を留めて眺めていると、運転手らしい初老の男が「ヘイ、ユー」と声を掛けてきた。「ユー」の後に続けて何かを言っていたのだけれど、くぐもった声に加えてかなりの早口だったので聞き取ることができなかった。男は突き出た腹を覆う白いティーシャツの上に沢山のポケットが付いたカーキ色のフィッシングベストを着ていただけだったけれど、特段寒そうな様子も見せず、乗客を車の中に誘導している。白髪と口の周りを囲む白い髭、腕にも細い白毛が密集して柔らかく絡みついていた。
「市内まで行くけど乗って行くか」
イエス、と答えると早口で恐らく二十ドルだけれどいいか、という意味と思われる言葉を投げつけられた。二十ドルを財布から抜き出して男に渡すと、二枚の紙幣を使って小さく扇ぐ仕草を見せた後、腰に巻いていたウエストポーチのジッパーを開き、その中に無造作に紙幣を突っ込んだ。私は飛行機の中で予め宿泊先の候補のホテルの名前と住所を三つ、ガイドブックとネットに載っていた記事から選んで記しておいたメモ用紙を取り出した。タクシーの運転手に見せればそこへ連れて行ってくれるだろうし、市内へのバスのチケット売り場で見せれば適切なバスのルートを案内してもらえると思ったのだ。メモを男に見せると「オーケー」と言って三つの候補の一番上に記述してあったホテルを指差し、ここで降ろしてあげるよ、と餌を求める鯉のように唇を動かしながら言った。
他の乗客の会話がスペイン語に聞こえたのでスパニッシュ系の連れ合いだろう。運転手を含め定員十名の座席は後部座席に既に八人が乗車していて満席だった。男は助手席に置いてあった書類や雑誌の束をフロントガラスに向かって放り投げた。その紙の塊はエアバッグの上のあたりで辛うじて居場所を確保している。運転手は「プリーズ」と右の掌で助手席を指した。私がシートベルトを装着すると同時に、座席の下が爆発したかと思わせる大きな振動を起こしてエンジンが始動し、ワゴンは動き出した。
「何処から来たんだ」
「東京です」
アメリカは何回目かと訊かれたので、初めてだと答えると運転手は「サンフランシスコ大学の留学生か」と質問を続けた。自分は学生では無くデザイナーで仕事を辞めてバックパッキングをしていると、英単語を繋げて説明したけれど上手く通じたか分からなかった。彼は何かに感心したように額と眉毛の間を縮める。暫くの沈黙の後「マイネームイズ、マイケル」と男は唐突に口を開いた。私が「マイネームイズ、モモカ」と鸚鵡返しに言葉を返すと、マイケルは頬の筋肉を少し吊り上げて笑った。
巨大な水引きを連想させる曲線を描いたハイウェイを十分ほど走ると、青空に向かって地上から巨大な長細い白い箱が密集して生えている、ビル群の景色が眼の前に開けた。
「サンフランシスコにずっと居るのか」
「いえ、ニューメキシコに向かいます」
「じゃあ、サンタフェか」
返答に困って「アー」と、放送終了後のテレビの自主規制音さながらに、一定の高さを保った間抜けな声を出してしまう。少しの沈黙の後「サンタフェ経由でロズウェルに行きます」と言うと、今度は運転手が「アー」と言いながら眉間に大きな皺を寄せ、暫く黙ってしまった。
空に向かって垂直に生えているビル群の根元を走り抜ける。子どもの頃に遊んだ空き地の雑草の中を小人になって車で走り抜けたら草花の茎がこんな風景に見えたのかもしれない。やがてガイドブックに掲載されていた写真と同じ町並みが現れた。運転手が「ダウンタウン」と言いながら頭を右座席の私に向かって捩じった。やがてワゴンは煉瓦造りの古い建物の前に停車した。
「着いたよ」
マイケルが車から素早く降りてフロントを小走りに横切り、助手席のドアを開けてくれた。礼を言うと「ああ、ロズウェル、エイリアンか」と、その鯉の形をした口を開いた。UFOの破片を探しに行くんです、と言うとマイケルは「ナイスナイス」と微笑み、握手を求めてきた。手を重ねるとマイケルは静電気が体を駆け抜けたかのような反応を見せ、大きな肩を吊り上げた。私は極度の冷え性で、手首から指先までが冷たくなり、まるで氷に触れている状態になる。サキと手が重なった瞬間に、軽く悲鳴を上げられた記憶が泡となって立ち昇り、小さく破裂した。蝉の声に包まれた真夏のアスファルトの道の上で、彼女は私の左手の甲を自分の頬に当て「何これ、気持ちいい」と言った。彼女の頬から伝わる体温と皮膚から蒸発し続ける微かな霧状の汗、顕微鏡でも使わなければきっと見えないであろう産毛を感じていたけれど、このまま左手を頬に当てた状態で歩き続けるわけにもいかなかったので、私は強引に腕を引き戻した。あの蝉の騒音が脳裏で再生されると、体温が上昇して薄く全身に汗が滲み出してくる。
* * *
ホテルのレセプションには緑色のシャツを着た若者が、テーブルの上に手を突き、両腕をハの字に広げて待ち構えていた。一晩だけの宿泊を申し込む。レセプションの背後には金色のメッキが施されたフックがねじ込まれた木の板が設置されていて、いくつかの鍵がぶら下げられていた。彼は私のパスポートを確認し番号を控えて差し戻した後、振り返ってその中から鍵を取り「二階の三号室」と言って、小さなメモ用紙をカウンターテーブルの上に置いた。私がメモ用紙に名前と住所を記入して差し出すと、彼は中指と人差し指で摘まみ、コンビニエンスストアで出力された必要のないレシートを捨てる感覚で、メモの内容を見ないまま無造作にテーブルの引き出しの中に入れた。それから若者はレセプション裏の控室に姿を消してしまった。
暫くの間彼を待っていたけれど再び現れる気配がなかったので、二階に上がり三号室を探した。細かい傷の付いた木製のドアに二〇三と彫られた金メッキのプレートがあったので、鍵を差し込み時計回りに捩じってみると、何か小さな突起に邪魔されて引っ掛かりを感じる。構わずにそのまま力を込めて捩じり続けると、木槌で軽く机を叩くような硬質な音が響き、ロックが解除された。
暗い部屋の中は、開いたドアから差し込む光が空気中に漂う埃の微粒子に反射して、まるで片栗粉でとろみをつけた中華スープをかき混ぜたときのように空気の流れがゆっくりと動いているのが見えた。ドアを背にして右側にベッド、左側にはテレビを載せているキャビネット、正面に大きな窓がある。窓を開けて、この部屋の空気の粘度を薄めたかった。少しでもいいから空が見えればと正面の窓のカーテンを開くと、数十センチ先に隣の煉瓦造りの建物の壁があった。その手で触れられる距離にある壁面には、全体に青空を模した水色のペンキで塗られた背景と、その上に雑な距離感で配置された、肉饅頭を思わせる白い雲の絵が描かれていた。
* * *
硬く冷たいベッドに身体を横たえると眠ってしまい、気が付いた時には午後五時を過ぎていた。窓の外の水色の壁は既に暗い影を落としていて、大通りの街灯から分けてもらえた微かな光を煉瓦の凹凸が反射している。それはまるで照明が消されたギャラリーに残る、絵の具を分厚く盛られた絵画の粗い表面だった。
少し頭痛がしたので外の空気を吸いたかった。化粧を整えてから外に出てみる。ホテルに面した大通りを左方面に二十分ほど歩けば港がある筈だった。暫く進むと遠くに赤いネオンサインが見えた。目を凝らして見ると“LOBSTER”という文字だったので、恐らくあのあたりが港なのだ。
フィッシャーマンズワーフと呼ばれている港は、周辺のレストランで夕食を楽しむ家族連れでごった返していた。海沿いには小型の漁船が無数に停泊している。巨人が発する大きな鼾の音が耳に届いたので、その出所へ向かうとアシカの群れが海に浮かぶ木製のデッキの上で寝ていた。時折思い出したように数頭が大きな飛沫を立てて海に落ちる。暫くすると海面に頭を突き出した後、器用に身体を弾ませてデッキに乗り上がり、元の自分達のポジションに戻ると再び寝転がったまま動かなくなる。
海沿いに流れる暖かい風を浴びている。アメリカの漁港もちゃんと生臭いのだ。ハリウッドの映画やドラマで登場する画面越しの無臭の港に慣れてしまっているせいで、この国の匂いまでは想像ができていなかった。日本と比べて空気が乾燥しているので、身体に纏わりつく不快さはない。サキにこの感覚を伝えたかったけれど、きっと彼女だったら「そんなの当たり前じゃない」と軽く笑い流したに違いない。
アシカの動きを見下ろせる桟橋の手摺に身体を預けていると、小型のスーツケースを引きずった男が隣に現れて話し掛けてきた。
「日本人ですか」
男は二十代前半に見えた。眼鏡と水色のティーシャツの上に紺色のダウン、ストレートのジーンズ。ティーシャツの首周りの汗染みが扇形に水色を濃くしていた。私は「うん、そう」と答えた。
「僕、サンフランシスコに初めて来たんです、というかアメリカ自体初めてなんですけど、取り敢えずフィッシャーマンズワーフに行けば何とかなるかなって思ってたんですけど、何だかよく分からなくって、不安っていうか、ちょっと限界になってしまって、思わず、あ、日本人かなって、声を掛けてしまいました、すみません」
彼はまるで、この長台詞は息継ぎなしで言え、と演出家に命じられた舞台俳優だった。私に話した後、空笑いしながら不器用に細かく呼吸を繰り返して肺を酸素で満たしている。頭皮とシャツの襟首の隙間から湯気が立ち昇るのが見えた気がしたけれど、眼鏡のレンズの下半分が白く曇ったり透明になったりを繰り返していたので、実際にその通りに水分が蒸発していたのだろう。
港から少し離れた中華料理店で二人で食事を済ませた。青年はミズサワという名前で、東京の大学の哲学科に通う学生だった。哲学を学んでいる学生は無口で大人しいという先入観を持っていたけれど彼は全く異なり、人懐っこい犬を思わせる仕草で人の前面に回り込み、身体を捻りながら早口で話し掛けてくる。彼も現地で宿泊先を決める予定だったというので、私がチェックインしたホテルに連れて行くと、いくつか空室が残っていたので彼は私の隣の部屋に宿泊することになった。ミズサワは「いやあ、モモカさんに会わなかったら今頃まだフィッシャーマンズワーフをうろついていたと思いますよ」と言いながらスーツケースを隣の四号室に運び入れた。
* * *
部屋でシャワーを浴びた後、ベッドの上で寝転びながら足先で点いているテレビの画面を眺めていると、ノック音がした。
「モモカさん、モモカさん」
ドアの覗き穴の向こうに、魚眼レンズで歪んだミズサワが立っているのが見えた。私は慌ててジャージを脱ぎ、ジーンズとパーカーに着替えた。ドアを開けると、彼は「すみません、ありがとうございます、ビール、買ってきたんですけど如何ですか」と言って部屋の中を覗き込む。私は彼を部屋に入れた。ミズサワは「僕のと同じですね」と首を数回左右に振り、テレビが点いているだけの空間を見回した。普段なら親しくもない男性と部屋で二人きりになるなどということは避けるのだけれど、彼が纏う限りなく無害な雰囲気に流されてしまったのかもしれない。
彼は手にしていた二本の缶ビールを私に手渡すと、部屋の隅にあった木製の椅子をベッドの横に移動させて腰を下ろした。私はベッドの上で胡坐をかいた。二人で腕を伸ばして乾杯をする。ミズサワの目的地はグランドキャニオンで、春休みを利用した一人旅だった。彼は昨年末に失恋したばかりで、さらに交際していた女性が新しい恋人と二人でロンドンへ旅行したことを知ったのだった。
「酷いですよね、散々好きだとか何とか言っといて。人間って分かんないっす。僕、お酒そんなに弱い方じゃないんですけど、なんか今日は酔いますね、やっぱ疲れてんのかな」
唐突に彼はハリウッドのSF映画『コンタクト』の話を持ち出してきた。
「モモカさん、知ってますか。ジョディ・フォスターが出てるやつ。僕ね、あれ、あれ、なんですよ。観測所で宇宙からの電波を拾ってるジョディ・フォスターがグランドキャニオンみたいな断崖絶壁のところで休憩してたりするんですけど」
「確かラストシーンも彼女が崖の端に絨毯を敷いて座りながら星空を眺めて、エンドロールじゃなかったかな」
「そう、そう、ですよ」
彼は私がこの映画を知っていることが嬉しかったのか、亀が甲羅の中から頭を突き出すように赤く染まった顔を近付けてきた。その顔から放出される熱が私の頬のあたりに届いたので、思わず身体を後ろに引いてしまう。
「僕ね、あのシーンを観て、あそこに行かなきゃって思ったんですよ。地球を感じたいって言うんですかね」
「ロンドンで仲良くしてる二人に勝つには地球を相手にするしか無いわね」
「あ、うん、そうっすね、うん、そうなんだと思います。うわ、モモカさん、鋭いっすね、うわあっ」
私が彼の話の内容に興味を持てなかったせいで、二人の会話は時折ぶつ切りになり無音の時間に支配されてしまう。私達は突然即席でペアを組まされて無理矢理舞台に立っている漫才コンビだった。沈黙に耐え切れず私は飛行機の中で貰ったトランプを思い出し、リュックサックの中から持ってきた。カードをシャッフルし、ベッドの上にランダムに配置して神経衰弱を始める。ワンゲームが終わった後「モモカさん、占いとか、やりますか」とミズサワが言った。
「トランプで占いなんてできるの」
「簡単なやつだったらできますよ、ワンオラクルってやつです」
まあ、色んなやり方があるみたいなんですけどね、とミズサワは最初にジョーカーを取り除き、慣れた手付きでカードを混ぜ始めた。彼は部屋の掛け時計を見た。時計の針は既に午前零時を過ぎ、日付を変えていた。
「今日はもう三月二十二日だから、二十二回シャッフルするんです」
彼は二十二回、口に出して数えながらカードの束から中指と親指を使って下半分を摘まみ出し、素早く上に重ねていく動作を繰り返す。じゃあ、この中から好きなカードを一枚選んでください、とカードの束を差し出してきたので一番上の一枚を選んでみた。私はダイヤの2のカードをミズサワに見せた。
「ダイヤの2は一条の光、っていう意味なんですよ」
* * *
サンフランシスコの長距離バスのターミナルで、ミズサワの為にマーセド経由でヨセミテに向かうチケットの発券を手伝った後、ベンチに座りながら互いの長距離バスが整備を終え、乗車場に到着するのを待っていた。抱えたリュックサックの表面に尖った感触を指先が感じたので、昨夜使ったトランプだと分かった。リュックサックの中から、その小さな箱を取り出してミズサワに差し出した。
「私が持っているよりミズサワ君が持っていた方がいいよ」
彼は申し訳なさそうに断ったけれど、最後には礼を言って受け取った。
「じゃあこれと交換しましょう。成田で二百円のガチャガチャで出たんですけど、同じのが二つ出ちゃって」
彼の手からプラスティック製の黄色い星型のキーホルダーを受け取り、ダウンジャケットのポケットに入れた。私はロサンゼルスからアルバカーキ経由でサンタフェへ向かうグレイハウンドを待っている。
いつかの夜、私とサキは通い慣れたファミリーレストランで、もし宇宙人が存在するとしたら、どのように物が見えるのだろうか、という話をした。
「犬ってね、色を認識できなくて、世界がモノクロに見えてるんだってさ」
私は絵画科の友人から聞いた話題を持ち出して、宇宙人には私達よりも多く色を認識できるかもしれないから、モナ・リザもサイケデリックに見えるかもね、と言った。
「彼等、幽霊が見えたりしてね」
サキは形の良い歯を少し見せて笑う。今夜は過去の自分を自虐する余裕を見せていた。
「じゃあさ、空白の恐怖って聞いたことあるかな。絵を描くにしても、日本人は水墨画のように紙の白をそのまま活かして作品と見なすけれど、西洋人はその白い余白が怖くて、わざわざ白い絵の具で塗りたがる、っていう話」
「へえ、宇宙人の空間認識能力って気になるよね。そもそもさ、彼等はどうなのかな、絵とか描くのかな」
「地球の裕福層の人達が宇宙人のアートを買いたい、って言いそうだよね」
「あ、でも、宇宙人には地球のお金なんて、無価値でしょ。紙とか金属とかデータだし。この世にはお金で買えないものもあるって、実感するんじゃないかな」
それでも人類は結局お金の為に戦争を起こしたりするのよね、と私は頬杖をつき、白地に細い薄桃色の縦縞模様が入った店内の壁紙の一点を見詰めたまま呟いた。戦争が始まる理由が何なのか、正直なところ私には理解できていない。大学の図書館で調べたこともあったのだけれど、愚かな人類の歴史を綴る活字の列を眺めていたら、次第に胃酸が泡立ち沸騰していく感覚を覚え、気分が悪くなり本を閉じてしまった。モモカ、少し眼が据ってるよ、というサキの声で視点を切り替える。彼女は小さく笑いながら「ロズウェルにUFOの破片、残ってないかな」と言った。私はドリンクバーで注いだ三杯目のアイスカフェオレを飲み干し、窓に取り付けられたブラインドの隙間から、次々と通り過ぎる車のヘッドライトを眼で追っている。
* * *
サンフランシスコ空港に到着したのは現地時間の午前九時二十分だった。親指と人差し指を擦り合わせてみたけれど、身体に残ったアルコールが悪戯をしているせいで指紋の起伏を鈍く感じる。予想していたよりも寒かったのでダウンジャケットを着て来て正解だった。
空港から市内への交通手段について、手持ちのガイドブックに詳しい情報が掲載されていなかったので“EXIT”と記されている看板を頼りに進むと、メインゲートに辿り着いた。自動ドアを抜けると数台のタクシーが並んでいる。その並びの一台に観光客と思われる数人が荷物を積み込んでいる大きな白いワゴンがあった。私が眼を留めて眺めていると、運転手らしい初老の男が「ヘイ、ユー」と声を掛けてきた。「ユー」の後に続けて何かを言っていたのだけれど、くぐもった声に加えてかなりの早口だったので聞き取ることができなかった。男は突き出た腹を覆う白いティーシャツの上に沢山のポケットが付いたカーキ色のフィッシングベストを着ていただけだったけれど、特段寒そうな様子も見せず、乗客を車の中に誘導している。白髪と口の周りを囲む白い髭、腕にも細い白毛が密集して柔らかく絡みついていた。
「市内まで行くけど乗って行くか」
イエス、と答えると早口で恐らく二十ドルだけれどいいか、という意味と思われる言葉を投げつけられた。二十ドルを財布から抜き出して男に渡すと、二枚の紙幣を使って小さく扇ぐ仕草を見せた後、腰に巻いていたウエストポーチのジッパーを開き、その中に無造作に紙幣を突っ込んだ。私は飛行機の中で予め宿泊先の候補のホテルの名前と住所を三つ、ガイドブックとネットに載っていた記事から選んで記しておいたメモ用紙を取り出した。タクシーの運転手に見せればそこへ連れて行ってくれるだろうし、市内へのバスのチケット売り場で見せれば適切なバスのルートを案内してもらえると思ったのだ。メモを男に見せると「オーケー」と言って三つの候補の一番上に記述してあったホテルを指差し、ここで降ろしてあげるよ、と餌を求める鯉のように唇を動かしながら言った。
他の乗客の会話がスペイン語に聞こえたのでスパニッシュ系の連れ合いだろう。運転手を含め定員十名の座席は後部座席に既に八人が乗車していて満席だった。男は助手席に置いてあった書類や雑誌の束をフロントガラスに向かって放り投げた。その紙の塊はエアバッグの上のあたりで辛うじて居場所を確保している。運転手は「プリーズ」と右の掌で助手席を指した。私がシートベルトを装着すると同時に、座席の下が爆発したかと思わせる大きな振動を起こしてエンジンが始動し、ワゴンは動き出した。
「何処から来たんだ」
「東京です」
アメリカは何回目かと訊かれたので、初めてだと答えると運転手は「サンフランシスコ大学の留学生か」と質問を続けた。自分は学生では無くデザイナーで仕事を辞めてバックパッキングをしていると、英単語を繋げて説明したけれど上手く通じたか分からなかった。彼は何かに感心したように額と眉毛の間を縮める。暫くの沈黙の後「マイネームイズ、マイケル」と男は唐突に口を開いた。私が「マイネームイズ、モモカ」と鸚鵡返しに言葉を返すと、マイケルは頬の筋肉を少し吊り上げて笑った。
巨大な水引きを連想させる曲線を描いたハイウェイを十分ほど走ると、青空に向かって地上から巨大な長細い白い箱が密集して生えている、ビル群の景色が眼の前に開けた。
「サンフランシスコにずっと居るのか」
「いえ、ニューメキシコに向かいます」
「じゃあ、サンタフェか」
返答に困って「アー」と、放送終了後のテレビの自主規制音さながらに、一定の高さを保った間抜けな声を出してしまう。少しの沈黙の後「サンタフェ経由でロズウェルに行きます」と言うと、今度は運転手が「アー」と言いながら眉間に大きな皺を寄せ、暫く黙ってしまった。
空に向かって垂直に生えているビル群の根元を走り抜ける。子どもの頃に遊んだ空き地の雑草の中を小人になって車で走り抜けたら草花の茎がこんな風景に見えたのかもしれない。やがてガイドブックに掲載されていた写真と同じ町並みが現れた。運転手が「ダウンタウン」と言いながら頭を右座席の私に向かって捩じった。やがてワゴンは煉瓦造りの古い建物の前に停車した。
「着いたよ」
マイケルが車から素早く降りてフロントを小走りに横切り、助手席のドアを開けてくれた。礼を言うと「ああ、ロズウェル、エイリアンか」と、その鯉の形をした口を開いた。UFOの破片を探しに行くんです、と言うとマイケルは「ナイスナイス」と微笑み、握手を求めてきた。手を重ねるとマイケルは静電気が体を駆け抜けたかのような反応を見せ、大きな肩を吊り上げた。私は極度の冷え性で、手首から指先までが冷たくなり、まるで氷に触れている状態になる。サキと手が重なった瞬間に、軽く悲鳴を上げられた記憶が泡となって立ち昇り、小さく破裂した。蝉の声に包まれた真夏のアスファルトの道の上で、彼女は私の左手の甲を自分の頬に当て「何これ、気持ちいい」と言った。彼女の頬から伝わる体温と皮膚から蒸発し続ける微かな霧状の汗、顕微鏡でも使わなければきっと見えないであろう産毛を感じていたけれど、このまま左手を頬に当てた状態で歩き続けるわけにもいかなかったので、私は強引に腕を引き戻した。あの蝉の騒音が脳裏で再生されると、体温が上昇して薄く全身に汗が滲み出してくる。
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ホテルのレセプションには緑色のシャツを着た若者が、テーブルの上に手を突き、両腕をハの字に広げて待ち構えていた。一晩だけの宿泊を申し込む。レセプションの背後には金色のメッキが施されたフックがねじ込まれた木の板が設置されていて、いくつかの鍵がぶら下げられていた。彼は私のパスポートを確認し番号を控えて差し戻した後、振り返ってその中から鍵を取り「二階の三号室」と言って、小さなメモ用紙をカウンターテーブルの上に置いた。私がメモ用紙に名前と住所を記入して差し出すと、彼は中指と人差し指で摘まみ、コンビニエンスストアで出力された必要のないレシートを捨てる感覚で、メモの内容を見ないまま無造作にテーブルの引き出しの中に入れた。それから若者はレセプション裏の控室に姿を消してしまった。
暫くの間彼を待っていたけれど再び現れる気配がなかったので、二階に上がり三号室を探した。細かい傷の付いた木製のドアに二〇三と彫られた金メッキのプレートがあったので、鍵を差し込み時計回りに捩じってみると、何か小さな突起に邪魔されて引っ掛かりを感じる。構わずにそのまま力を込めて捩じり続けると、木槌で軽く机を叩くような硬質な音が響き、ロックが解除された。
暗い部屋の中は、開いたドアから差し込む光が空気中に漂う埃の微粒子に反射して、まるで片栗粉でとろみをつけた中華スープをかき混ぜたときのように空気の流れがゆっくりと動いているのが見えた。ドアを背にして右側にベッド、左側にはテレビを載せているキャビネット、正面に大きな窓がある。窓を開けて、この部屋の空気の粘度を薄めたかった。少しでもいいから空が見えればと正面の窓のカーテンを開くと、数十センチ先に隣の煉瓦造りの建物の壁があった。その手で触れられる距離にある壁面には、全体に青空を模した水色のペンキで塗られた背景と、その上に雑な距離感で配置された、肉饅頭を思わせる白い雲の絵が描かれていた。
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硬く冷たいベッドに身体を横たえると眠ってしまい、気が付いた時には午後五時を過ぎていた。窓の外の水色の壁は既に暗い影を落としていて、大通りの街灯から分けてもらえた微かな光を煉瓦の凹凸が反射している。それはまるで照明が消されたギャラリーに残る、絵の具を分厚く盛られた絵画の粗い表面だった。
少し頭痛がしたので外の空気を吸いたかった。化粧を整えてから外に出てみる。ホテルに面した大通りを左方面に二十分ほど歩けば港がある筈だった。暫く進むと遠くに赤いネオンサインが見えた。目を凝らして見ると“LOBSTER”という文字だったので、恐らくあのあたりが港なのだ。
フィッシャーマンズワーフと呼ばれている港は、周辺のレストランで夕食を楽しむ家族連れでごった返していた。海沿いには小型の漁船が無数に停泊している。巨人が発する大きな鼾の音が耳に届いたので、その出所へ向かうとアシカの群れが海に浮かぶ木製のデッキの上で寝ていた。時折思い出したように数頭が大きな飛沫を立てて海に落ちる。暫くすると海面に頭を突き出した後、器用に身体を弾ませてデッキに乗り上がり、元の自分達のポジションに戻ると再び寝転がったまま動かなくなる。
海沿いに流れる暖かい風を浴びている。アメリカの漁港もちゃんと生臭いのだ。ハリウッドの映画やドラマで登場する画面越しの無臭の港に慣れてしまっているせいで、この国の匂いまでは想像ができていなかった。日本と比べて空気が乾燥しているので、身体に纏わりつく不快さはない。サキにこの感覚を伝えたかったけれど、きっと彼女だったら「そんなの当たり前じゃない」と軽く笑い流したに違いない。
アシカの動きを見下ろせる桟橋の手摺に身体を預けていると、小型のスーツケースを引きずった男が隣に現れて話し掛けてきた。
「日本人ですか」
男は二十代前半に見えた。眼鏡と水色のティーシャツの上に紺色のダウン、ストレートのジーンズ。ティーシャツの首周りの汗染みが扇形に水色を濃くしていた。私は「うん、そう」と答えた。
「僕、サンフランシスコに初めて来たんです、というかアメリカ自体初めてなんですけど、取り敢えずフィッシャーマンズワーフに行けば何とかなるかなって思ってたんですけど、何だかよく分からなくって、不安っていうか、ちょっと限界になってしまって、思わず、あ、日本人かなって、声を掛けてしまいました、すみません」
彼はまるで、この長台詞は息継ぎなしで言え、と演出家に命じられた舞台俳優だった。私に話した後、空笑いしながら不器用に細かく呼吸を繰り返して肺を酸素で満たしている。頭皮とシャツの襟首の隙間から湯気が立ち昇るのが見えた気がしたけれど、眼鏡のレンズの下半分が白く曇ったり透明になったりを繰り返していたので、実際にその通りに水分が蒸発していたのだろう。
港から少し離れた中華料理店で二人で食事を済ませた。青年はミズサワという名前で、東京の大学の哲学科に通う学生だった。哲学を学んでいる学生は無口で大人しいという先入観を持っていたけれど彼は全く異なり、人懐っこい犬を思わせる仕草で人の前面に回り込み、身体を捻りながら早口で話し掛けてくる。彼も現地で宿泊先を決める予定だったというので、私がチェックインしたホテルに連れて行くと、いくつか空室が残っていたので彼は私の隣の部屋に宿泊することになった。ミズサワは「いやあ、モモカさんに会わなかったら今頃まだフィッシャーマンズワーフをうろついていたと思いますよ」と言いながらスーツケースを隣の四号室に運び入れた。
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部屋でシャワーを浴びた後、ベッドの上で寝転びながら足先で点いているテレビの画面を眺めていると、ノック音がした。
「モモカさん、モモカさん」
ドアの覗き穴の向こうに、魚眼レンズで歪んだミズサワが立っているのが見えた。私は慌ててジャージを脱ぎ、ジーンズとパーカーに着替えた。ドアを開けると、彼は「すみません、ありがとうございます、ビール、買ってきたんですけど如何ですか」と言って部屋の中を覗き込む。私は彼を部屋に入れた。ミズサワは「僕のと同じですね」と首を数回左右に振り、テレビが点いているだけの空間を見回した。普段なら親しくもない男性と部屋で二人きりになるなどということは避けるのだけれど、彼が纏う限りなく無害な雰囲気に流されてしまったのかもしれない。
彼は手にしていた二本の缶ビールを私に手渡すと、部屋の隅にあった木製の椅子をベッドの横に移動させて腰を下ろした。私はベッドの上で胡坐をかいた。二人で腕を伸ばして乾杯をする。ミズサワの目的地はグランドキャニオンで、春休みを利用した一人旅だった。彼は昨年末に失恋したばかりで、さらに交際していた女性が新しい恋人と二人でロンドンへ旅行したことを知ったのだった。
「酷いですよね、散々好きだとか何とか言っといて。人間って分かんないっす。僕、お酒そんなに弱い方じゃないんですけど、なんか今日は酔いますね、やっぱ疲れてんのかな」
唐突に彼はハリウッドのSF映画『コンタクト』の話を持ち出してきた。
「モモカさん、知ってますか。ジョディ・フォスターが出てるやつ。僕ね、あれ、あれ、なんですよ。観測所で宇宙からの電波を拾ってるジョディ・フォスターがグランドキャニオンみたいな断崖絶壁のところで休憩してたりするんですけど」
「確かラストシーンも彼女が崖の端に絨毯を敷いて座りながら星空を眺めて、エンドロールじゃなかったかな」
「そう、そう、ですよ」
彼は私がこの映画を知っていることが嬉しかったのか、亀が甲羅の中から頭を突き出すように赤く染まった顔を近付けてきた。その顔から放出される熱が私の頬のあたりに届いたので、思わず身体を後ろに引いてしまう。
「僕ね、あのシーンを観て、あそこに行かなきゃって思ったんですよ。地球を感じたいって言うんですかね」
「ロンドンで仲良くしてる二人に勝つには地球を相手にするしか無いわね」
「あ、うん、そうっすね、うん、そうなんだと思います。うわ、モモカさん、鋭いっすね、うわあっ」
私が彼の話の内容に興味を持てなかったせいで、二人の会話は時折ぶつ切りになり無音の時間に支配されてしまう。私達は突然即席でペアを組まされて無理矢理舞台に立っている漫才コンビだった。沈黙に耐え切れず私は飛行機の中で貰ったトランプを思い出し、リュックサックの中から持ってきた。カードをシャッフルし、ベッドの上にランダムに配置して神経衰弱を始める。ワンゲームが終わった後「モモカさん、占いとか、やりますか」とミズサワが言った。
「トランプで占いなんてできるの」
「簡単なやつだったらできますよ、ワンオラクルってやつです」
まあ、色んなやり方があるみたいなんですけどね、とミズサワは最初にジョーカーを取り除き、慣れた手付きでカードを混ぜ始めた。彼は部屋の掛け時計を見た。時計の針は既に午前零時を過ぎ、日付を変えていた。
「今日はもう三月二十二日だから、二十二回シャッフルするんです」
彼は二十二回、口に出して数えながらカードの束から中指と親指を使って下半分を摘まみ出し、素早く上に重ねていく動作を繰り返す。じゃあ、この中から好きなカードを一枚選んでください、とカードの束を差し出してきたので一番上の一枚を選んでみた。私はダイヤの2のカードをミズサワに見せた。
「ダイヤの2は一条の光、っていう意味なんですよ」
* * *
サンフランシスコの長距離バスのターミナルで、ミズサワの為にマーセド経由でヨセミテに向かうチケットの発券を手伝った後、ベンチに座りながら互いの長距離バスが整備を終え、乗車場に到着するのを待っていた。抱えたリュックサックの表面に尖った感触を指先が感じたので、昨夜使ったトランプだと分かった。リュックサックの中から、その小さな箱を取り出してミズサワに差し出した。
「私が持っているよりミズサワ君が持っていた方がいいよ」
彼は申し訳なさそうに断ったけれど、最後には礼を言って受け取った。
「じゃあこれと交換しましょう。成田で二百円のガチャガチャで出たんですけど、同じのが二つ出ちゃって」
彼の手からプラスティック製の黄色い星型のキーホルダーを受け取り、ダウンジャケットのポケットに入れた。私はロサンゼルスからアルバカーキ経由でサンタフェへ向かうグレイハウンドを待っている。
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